ブログ仙岩

各紙のコラムや報道番組、読書の感想、カメラ自然探索など。

隠居大学で所ジョージと天野祐吉の対談

2013-11-30 09:44:08 | 日記
10/28放送隠居大学で、所ジョージと天野祐吉の対談をパソコンで聞いた。
1955年埼玉県所沢市出身の所さんは芳賀隆之といい、拓殖大商学部除籍のコメデアン、俳優、ギターを抱えてお笑いの歌をよく披露していたが司会ではダーツの旅でよくお目にかかっている。

まず天野さんは隠居の年齢に達していなのに、来ていただき恐縮していると。
香港で収録した虫の歌は虫を気にしない、気にしない・・・・というと、天野さんは宇宙的でアインシュタイン的だという。また、子どもは虫をじーと見ているそんなところが宇宙的だという。変な意味をつけないところが良いと。

また、所さんは自分で勝手に新東京五輪音頭を作ったという。
音頭だからはーで始まるもので、歌詞の一番は、東京五輪に花が咲く 老いも若きも 犬も猫も何もかも大騒ぎ 世界平和の道しるべ・・・・と真面目な歌詞である。
また、芸能人の脳は全く使っていないと痛烈な批判を、サザンの「夏をあきらめて」に対して、「夏をあらためて」では、鉛色の海、鉛色の砂、鉛色の雲・・・・というように歌詞で、サザンの歌の夏は百人に一人も味わえないものだが、現実に味わうことを歌詞にして歌うという。次回に続く。

音楽を撮る木之下晃のトークを聞いて

2013-11-29 09:37:26 | 日記
今朝の「明日へのことば」世界の巨匠を撮る「木之下晃」25.10.5田原市収録を聞いた。

1936年長野県諏訪市生まれの木之下晃さんは、日本福祉大卒業後、中日新聞、博報堂を経てフリーランスになり、世界のコンサートホール、歌劇場、音楽をテーマに撮影活動している。

個人に撮影させないカラヤンが記者団の質問に答えていたとき、ボーイが水を持ってきたときの服装に光が反射したカラヤンの写真を見せると喜び、白く浮き上がった写真を見せると破かれたという。
それから、撮影が認められ、指揮しているとき、カラヤンの足もとから見上げる写真を撮ると、後ろから演奏が聞こえる写真になったという。

また、木之下さんより一つ上の小澤征爾の指揮を撮る時は、緊張し、しっかり見て、叩くそして絵にするという。
自動デジタル写真は一般的で、その人の個性がなく、シャッタースピード、露出を決めて撮影すれば、撮影者の人間味が出るという。オリジナル一枚が絵になり、パリ、ウイーンのオペラ座の撮影は大変興味があり、文明発展の終焉という。日本でもバブル時代に2000近くコンサートホールができたとか。

取材や撮影を嫌った画家トーヴェ・ヤンソンは木之下の写真を気に入り、本にさせてくれたとか、歌うカラスの写真など世界の巨匠を撮る木之下さんに魅せられた朝で、今日は何か良いことがありそうな気がする。

ファストフードを避け野菜中心でパニック症消える

2013-11-28 09:03:07 | 日記
パプアニューギニアに20回以上、ボルネオ島のダヤック族2回とその他多くの原住民の糞便から腸内細菌の研究する藤田紘一郎東京医科歯科大名誉教授は、狩猟から農耕生活になって塩味噌、砂糖の味付けで格差ができ欲から不安が生じ、清潔から腸内細菌が減少したという。

女系家族のダヤック族には、不安がなく腸内細菌が非常に多いという。また、日本医療団と在留邦人6人がスマラン空港でスバラヤ行きの飛行機待ちで、遅れますのアナウンスから3時間たっても、追加情報がなくまずフランス人がイライラしてキャンセルを、10時間過ぎてやっと運航中止と、日本人はブツブツと当り散らしていると、インドネシアの人が「運よく乗れても墜落したかもしれないから載らないで良かった」と笑顔で言ったという。イスラム教信者が多神教の日本人より腸内細菌が多く不安も殆んどないという。

農耕民族のダヤック族はロングハウスの共同生活で、太らないニューギニア高地人は焼畑ジャガイモ栽培で知られており、調味料なしの食生活であったが、森林伐採で白人の文明社会と接してから味を知り要求するようになったという。

スペインの侵略で、インカのマチュ・ピチュは麻疹・天然痘の流行で滅亡した。

文明が清潔が腸内細菌を減少に導き、不安は脳が作る恐怖から出るもの、頭の知識でお腹すいていなくても三度食事をしているから必要以上に摂取したり不安に、お腹がすくような野菜、豆腐、果物で青魚、シソ、亜麻、オリーブ油など市販の揚げ物、ファストフードやコンビニ弁当をさけるとパニック障害が殆んど消えたという。

勝沼ワイナリー高野英一さんのトークを聞いて

2013-11-27 10:00:13 | 日記
26日ラジオ深夜便、今朝「明日へのことば」ワインで出会った仲間たちのテーマで勝沼の高野英一さんの話を聞いた。

高野さんは誰もあこがれる東電社員(今は原発事故で地に落ちたが)で、大多数の同僚は関連会社に勤めるが、55才で退職、退職金をすべて叩いてワイン設立会社「東夢」を立ち上げた。妻の反対することが分かっていたので、独断でやり出したという。

80才の母は認知症が酷くなり、自宅介護にも限界があることが分かり、施設に入れたが52才の時母84才で亡くし、両親の介護経験から、60才からは遅いと決め、また、日本各地には耕作放置が出る中で、勝沼地区も同様にあり農地の荒廃が進んでいた。これを自らの手で食い止めたいという願いもあり就農することを決めたという。しかし、自然災害に見舞われて収穫減思うようにならない現実の難しさを知り、先輩の田中さんや手は出せないが金は出すという仲間でワイナリー会社を設立した。

現在66才になり、10年にもなろうとしているとき、若者がネット募り研修に来るし、素晴らしい肩書の方たちも定年退職後研修に来て、テント生活であるため家賃3万円の家を借りてあげたり、あるいは貨車に寝どまり研修しており、内容で手に余る時には指導員にも来ていただいて土作り、ぶどう酒作りそして販売までこなしているという。70才までに仲間同士支えあうグループホームを立ち上げたいというから素晴らしいものである。

原発事故施設化したJヴィレッジを再開へ

2013-11-26 09:40:43 | 日記
2020年東京五輪など活用が望まれるサッカー用トレーニング施設Jヴィレッジは2018年をめどに再開する方向で関係者と協議調整に入ったと昨日25日明らかになった。

原発事故直後は、いわき市四倉の海水浴場駐車場が処理の拠点になっていたが、Jヴィレッジに移動、現在は楢葉の第二原発周辺が拠点になっており、作業終了車など検査除染をしている。Jヴィレッジは現在、グラウンドは駐車場、資材置き場で、スタジアムは作業員などの仮設宿舎が立ち並んでいる。

福島FCユナイッテトもJ3に昇格し、練習場が不足している。冬でも練習場が出来る魅力のJヴィレッジはのどから手が出るほど欲しい施設である。原発関連の施設が第一原発周辺に移設することに伴い、帰町を宣言している広野町は、Jヴィレッジが再開すれば帰町が早まることは確実である。2018年を前倒しして2015年にできないものかと要望したい。