ブログ仙岩

各紙のコラムや報道番組、読書の感想、カメラ自然探索など。

千恵子の秘湯宿不動湯温泉火災で消える

2013-08-31 10:38:02 | 日記
29日の夜9時半過ぎ、土湯温泉街から西に約1キロ離れた老舗旅館不動湯温泉白雲荘が火災に翌日30日の朝7時間後に鎮火した。
大正6年創業の山間の一軒家で、山水荘から近いが道がなく、男沼方面から入る街から4キロもある秘湯で、道が狭く消防車も小型だけで水利が悪く消火に手間取ったようだ。

宿泊客5人は無事避難、従業員4人の内一人が遺体で発見された。

高村光太郎・千恵子夫妻が昭和8年9月に宿泊、宿泊者名簿も焼け歴史の証拠が無くなり関係者から惜しむ声が聞かれた。二本松市の千恵子記念館には光太郎が不動湯温泉から東京の母親に宛てた書簡が展示されている。

白雲荘の女将は、大正時代から続く旅館の歴史を語り部として人気があり、全国からお客が集まり、寂びれた温泉地の活力源となっていただけに残念である。

ラッセルの集合論パラドックスの解消は?

2013-08-30 09:18:14 | 日記
アランは自然を愛し、ヒルティは神を愛し二人とも全体の中の個人の幸福を考えた。しかし、ラッセルは個人から全体統一を眺め、獲得する幸福を考えた。即ち、今のスピード時代に、「遠くの親戚より近くの他人」はいまだ田舎に残っているがそれはばかげた考えになったという。今シリア情勢で米英仏の軍事介入ありきで問題になっているが、ラッセルは数学者らしく、平和維持のため戦争は必要かを幾何学的論法で戦争と平和を考えた。その中に、パラドックスがある。

合田自身は哲学、思想史の専門で、数学論理的表現が少なく分かり悪い表現になっている。ここから私なりに話を進めていく。
ラッセルが数学原理や記号論理学の基礎を作ったことから、
自分自身を要素χとして含まない集合全体をRとすると、 R={χ∣χ∉χ}  となる。
 R∊Rと仮定すると、Rの定義から R∉Rとなり矛盾する。
また、R∉Rと仮定すると、Rの定義から、R∊Rとなり矛盾する。
これは、「R」と「RのR]の混同により発生する論理的パラドックスである。
我々のことばに、「貧しき者は幸いなり」「急がば回れ」「負けるが勝ち」などである。

例えば、村でたった一人の床屋が、自分で髭をそらない人には剃り、それ以外は剃らないとする。
床屋自身の髭を、自分で剃らないなら、自分自身で剃らなくてはいけない。また、自分で剃るなら、剃らない規則に違反する。この矛盾の解消は自分自身を含まないような集合は集合でないと解釈すると論理は成り立つ。

ラッセルの果てなき探求と憐み・・幸福と不幸

2013-08-29 09:21:17 | 日記
ラッセルは自叙伝で、3つの情念、恋への憧れ、知識の探求、悲惨を傍観できない憐みで人生を描写した。

ラッセル(1872~1970)は、イギリス首相の祖父を持つ貴族、哲、論理、数学者で、集合論のパラドックスや二元論の中性的実在をたて、ヒルティ程でなくて神を信じながらも無神論で外部に目を向ける活動家で、核兵器反対やベトナム反戦そして、2度も投獄されている。

幸と不幸の論理学的思考から、戦争の中の正義、正義の中の戦争の逆説(パラドックス)、精神分析、普通の日常的な不幸、家族関係で現代の親子関係の不幸は99/100と言っている。
特に、フロイトの精神分析学から、意識と無意識の二元的抗争で無意識を神秘主義と捉え、無意識の本能に対して、欲望は意識されてはいないが、観察と推論によって意識される。
例えば、神が意志したのにどうして苦痛のような悪があるのか。ここで、道徳的完成が幸福、至福であるが、人生を一つの全体とみると統一されているようでも、混沌としている。吹き流されている人生では幸福にはたどり着けず、満足と自尊心を引き出せるような環境をつくることが、幸福を獲得することである。

不幸な人はいつも自分が不幸であることを自慢している。
道徳的悪を懲らしめるための戦争、虐待を考えると身震いする。
正常とは、平凡な感情の寄せ集めでなく、狂気と非狂気がゼロの状態をいう。
偏見のない心と空の心を混同したり、無関心のみが公平であるという考えを拒絶しなければならない。

1981年ヒルティの宗教的幸福論

2013-08-28 08:52:58 | 日記
三大幸福論の著者の中で一番聖書を愛したヒルティ(1833~1909)はスイスの法学者、哲学者で政治家でもある。ヒルティは享楽生活を捨て、民衆にも求め、特に禁酒運動で国会で可決させている。そして、民主国スイスは独裁君主国の真ん中にあり、平和を維持するには神がなければ不可能という。人々が宗教を失うとき、生活の後ろ盾も、相互理解の手段も、人々を支える根ももはや残らないと。

また、合田もいうように、幸福と不幸の神曲即ちヒルティはダンテの愛読者であった。が、しかし、女性との交際となると、ラッセルのようなセックスを語るでもなく、アランのように恋愛や失恋をしたりするでもない。

ニーチェの哲学を批判しながらも善悪の彼岸で捉え、徳は幸福でなく、怠惰から脱出して勤労生存競争が幸福の第一歩であり、仕事から愛へと展開する。ヒルティの格言や名言を少し並べてみると、

幸福という言葉には何か憂うつな調子がある、それをゼロにするときすでにそれは逃げ去っている。
悪に出合ったら、それを赦すより忘れる方が勝っている。挫折したことない人は訳に立たない。
人の真の誠実は礼儀正しく振る舞うように小さなことをするその人の態度に現れる。
心配に対する最上の対策は 忍耐と勇気である。etc.

アランの幸福論を合田正人が解説する

2013-08-27 07:35:41 | 日記
私の好きなプロポ「人を幸せにする富はそこからさらに計画や仕事を必要とするもの、ついに手に入れて自分のものにするまで、農夫にとっては欲しくてたまらず、最後の最後になってようやく手に入る田畑のようなものである。私たちが享受するのは、停滞している力ではなく、活力の力なのだ」

合田はアラン(本命エミール)のプロポを「話とか提案」の意味というが、私はアランが新聞記事へコラム投稿していたことからその延長での短文による提案と解釈する。また、アランのプロポは健康な体によって心の平静を得て礼節を保ちながら上機嫌に振る舞うことの表現から健康人と思われるが、確かに頑健な体でも、リュウマチや大戦で負傷した足で跛行、脳卒中で車いす生活から必ずしも恵まれた体ではなかった。

1928年に出版した幸福論は「哲学を文学に、文学を哲学に」変えようとする独特の文体で、アラン自身「海が私の教育者だ」という。しかし、海だけでなく、山河に生息する動植物を含めた自然が教師であった。
それで、宗教からの幸福論のヒルティや外部に目を向ける幸福論のラッセルよりも、アランの方が私の性に合う。