夜の森の桜並木も富岡町で、随分前「さくらサミット」で講演の送迎をしてくれた東電社員がいた。
震災時には構内で原発建屋の爆発に直面し、一か月近く家に帰ることもできないまま、わが身も顧みず奮闘した一人だった。所長さんはがんを発症し亡くなられたが、彼は昨年退職し、お元気そうなのでほっとしている。彼の実家は私の父と同じ三島町で半分同郷と称して稀にお会いする。
桜と言えば反射的に母のことが思われる。父は私が療養中に亡くなり40年がたつ。その後母と二人三脚のように生き、病弱な母も私を残して死ねないという一念で頑張った。
母はいつも、最期は寝込まずに死にたいと言っていた。そこに私は付け加えるように「死ぬなら春にね。死んじゃったら私一人ぼっちになっちゃうんだから、秋は絶対ダメ。冬を一人でなんて越せない。絶対春にしてね」「ハイハイと母は笑って言った。
ねがわくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ
これは母に教わった西行の歌である。釈迦が入滅したといわれる如月の望月。今の3月の末から4月の花の頃らしいが、その頃に死にたいという歌らしい。
平成5年4月22日、向かいの桜も我が家の白木蓮も満開だった。私と母は花見と称して百円の缶ビールで乾杯した。母は一滴も飲めない。それでも何事も形だけは一緒の食卓だった。
母が倒れたのはその夜だった。突然私の胸に倒れ込んできた。トイレに立ったのだ。両の手が力なく垂れ、何度呼んでも叫んでも反応はなかった。意識のない母の目尻を一筋の涙が零れ落ちた。
願い通りに、母は寝込まずに満開の花に抱かれて一人忽然と逝ってしまったのだ。あれから23年、桜の花を見上げるたびに、母への後悔ばかりが涙のように湧いてくる。
震災時には構内で原発建屋の爆発に直面し、一か月近く家に帰ることもできないまま、わが身も顧みず奮闘した一人だった。所長さんはがんを発症し亡くなられたが、彼は昨年退職し、お元気そうなのでほっとしている。彼の実家は私の父と同じ三島町で半分同郷と称して稀にお会いする。
桜と言えば反射的に母のことが思われる。父は私が療養中に亡くなり40年がたつ。その後母と二人三脚のように生き、病弱な母も私を残して死ねないという一念で頑張った。
母はいつも、最期は寝込まずに死にたいと言っていた。そこに私は付け加えるように「死ぬなら春にね。死んじゃったら私一人ぼっちになっちゃうんだから、秋は絶対ダメ。冬を一人でなんて越せない。絶対春にしてね」「ハイハイと母は笑って言った。
ねがわくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ
これは母に教わった西行の歌である。釈迦が入滅したといわれる如月の望月。今の3月の末から4月の花の頃らしいが、その頃に死にたいという歌らしい。
平成5年4月22日、向かいの桜も我が家の白木蓮も満開だった。私と母は花見と称して百円の缶ビールで乾杯した。母は一滴も飲めない。それでも何事も形だけは一緒の食卓だった。
母が倒れたのはその夜だった。突然私の胸に倒れ込んできた。トイレに立ったのだ。両の手が力なく垂れ、何度呼んでも叫んでも反応はなかった。意識のない母の目尻を一筋の涙が零れ落ちた。
願い通りに、母は寝込まずに満開の花に抱かれて一人忽然と逝ってしまったのだ。あれから23年、桜の花を見上げるたびに、母への後悔ばかりが涙のように湧いてくる。
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