ひまわりさんより(11月23日)
今日の夜は、息子が友人を連れてきたので夕食を一緒に食べ、そのあとで、信仰のことについていろいろと語り合いました。息子は最近、聖所のことについてすごく関心が深まってきて、今日も聖所の話題について親子で話し合いました。息子は、イエス様が、「私は道である」と言われたときの道とは、実は聖所への道の事だったことに気がついた、と言いました。「私たちはイエスの血によって、はばかることなく聖所に入ることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道を通って、はいって行くことができる」(ヘブル10:19,20)。私も、11月10日の証にも書きましたが、聖所の問題に目が開かれてからというもの、心が動揺しなくなり、感謝が満ちてくるようにされていて、聖所の話題は本当に語らずにはおれないものです。ところが、息子の友人は、まだ、バプテスマをうけて1年ほどで、私たちの話していることは、あまり分からなかったのではないかと思います。しかし、信仰は聞くことから来るのですから、聞いていれば、それがいつか必要な時に実を結ぶのだと思います。み言葉の種が、友人の心にとどまり、実を結びますようにお祈りします。また、このブログを読んでくださるみなさまの上にも、神様のお導きがあり、聖所の教えに心がむけられますように、お祈りいたします。
試みの中に立つ信仰(デビット・カン講演23)
『大争闘』下巻の391ページから392ページをお読みします。「サタンが神の民をその罪のゆえに責められるときに、主はサタンが彼らを極限まで試みることをゆるされる。神に対する彼らの信仰と堅実さとが激しく試みられる」。
終わりの時に、神様がご自分の教会をサタンの手に渡して、極限まで試みられるのをおゆるしになるのです。その極限まで試みられる人たちが、14万4000であります。そしてこの大いなる悩みから抜け出してくる人たちが14万4000であります。
次に『大争闘』下巻396ページです。「かつてなかったほどの悩みの時が、間もなく我々の前に展開する。それだから我々は一つの経験、今我々が持っておらず、また多くの者が怠けて持とうとしない経験が必要なのである。現実の困難というものは予想したほどではないということがしばしばある。しかし、我々の前にある危機の場合はそうではない。どんなに生々しく描写しても、この試練の激しさにはとうてい及ばない。この試練の時に、人間はみな、自分で神の前に立たなければならない」
神様の前に立つ用意が、皆様できていますか。ヨブの経験というのは、はるか昔に起こったものではないのですね。私たちの経験になってきますよ。