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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 182

2014年05月05日 | 日記

 

 福音の力を体験せよ 182

“このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。確かに、彼は天使たちを助けることにはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。”(ヘブル2:14~17)

では、イエス様はどんな性質をお取りになられましたか?アダムが堕落する前の性質でしょうか?いいえ。堕落する前のアダムは、神聖な心と肉体をそなえていました。この地上に来られたイエス様は、神聖な肉体を持っておられませんでした。「律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。」(ロ-マ8:3)

   霊とまことの礼拝 5

 こうして、黙示録の中ではすでに贖われた人たちが、天の神様を日ごとにたたえています。このような賛美、神様の栄光をたたえる声、これが真の礼拝です。私たちが週ごとに捧げる礼拝は、このような礼拝に限りなく近づいていかなければならないのです。もちろん、旧約聖書の中にも、この天の礼拝に限りなく近づいた礼拝の招きが語られていました。詩篇95篇、ここはよく聖書朗読に用いられるところですけれども、詩篇第95篇の1節から、

「さあ、われらは主にむかって歌い、われらの救の岩にむかって喜ばしい声をあげよう。

われらは感謝をもって、み前に行き、主にむかい、さんびの歌をもって、喜ばしい声をあげよう。主は大いなる神、すべての神にまさって大いなる王だからである。地の深い所は主のみ手にあり、山々の頂もまた主のものである。海は主のもの、主はこれを造られた。またそのみ手はかわいた地を造られた。さあ、われらは拝み、ひれ伏し、われらの造り主、主のみ前にひざまずこう。主はわれらの神であり、われらはその牧の民、そのみ手の羊である。どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように」。

このように言われて、地上において私たちの捧げる最高の行為である礼拝が、神様をたたえ、天地を創られた神様をたたえるという形で行われているわけです。このような天の礼拝、そして地上の礼拝が、調和する時に、本当にそこに美しい天国が出現するのだと言われます。

ところで、この霊的な礼拝という事を考える時に、ローマ人への手紙12章の1節の御言葉を思います。霊的な礼拝と言うのは、こういう要素が無くてはいけないことを非常に端的にあらわしている御言葉です。