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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 196

2014年05月20日 | 日記

  

  福音の力を体験せよ 196

イエス様から目をそらしたペテロが水に溺れ始めたとき、イエス様はどうなさいましたか?手を差し伸べてくださいましたね。また、ペテロが主を否認したとき、イエス様は彼のために祈っておられたのではありませんか?彼が立ち直るようにと!ペテロは、神に立ち返って悔い改めるまで、神との正しい関係を築いていませんでした。

霊感の書には、「イエスを否認したときのペテロは、卑怯な背教者になりさがっていた」と記されています。ところがイエス様は、彼に背を向けられませんでした。むしろ彼のために祈られました。私たちがイエス様に背を向けて、敵に歩み寄るときでさえ、主は私たちのために祈られるのです。イエス様は、私たちの手をもう一度握りたいと熱望しておられます。

   霊とまことの礼拝 1

それでは、そういう生き方がなぜ出来なかったのかという事が、『各時代の希望』のその次の文章に書いてあります。「弟子たちでさえ、外面的にはイエスのためにいっさいを捨てていたが、心の中では自分自身のために大きなことを求めることを止めていなかった。誰が一番偉いか、と言う事について争いを引き起こしたのはこの精神であった」(各時代の希望中173p)。

実はイエス様の弟子たちも、イエス様と一緒にいろんなことをしました。奇跡も彼らは行いました。でも、彼らは本当にこの自我、心の奥底にある罪を全部イエス様に明け渡していませんでした。彼らは物質面では全てを捨てていました。彼らは、イエス様が「私に従って来なさい」と言われた時、いっさいを捨ててイエス様に従いました。その事だけでも、それはすごい事だと思います。私たちの中で、自分の全財産を捨ててイエス様に従ったと言う人が、果たしてどれくらいいらっしゃるでしょうか。やっぱり私たちは、一部は捧げるけれど、自分のために持っていたいという、そういう思いがあるかもしれません。ところがイエス様の弟子たちは、本当にいっさいを捧げてイエス様に従って行ったのです。でも彼らは、外面的にはイエス様のためにいっさいを捨てていましたが、心の中では、まだ自分自身のために生きるという事、自分のために大きなことを求めるのを止めてはいなかったのですね。

誰が一番偉いか、という事になると、彼らの自我がむくむくと頭をもたげてきて、そして、俺が一番偉いんだ、あいつに負けてたまるか、よし、あいつらをいつか出し抜いてやれ、相手が失敗すると、あぁ良かった、そういう思いが残っていたのですね。そして彼らが、そのような心を本当に捨て去ることが出来たのは、イエス様を裏切って、イエス様を見捨てて逃げ去った時でした。本当に自分の心の奥底にあった罪が暴かれて、明らかにされて、それを悔い改めて、彼らは本当に聖霊に満たされた歩みをして行くことが出来るようになったのです。