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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 199

2014年05月23日 | 日記

    

 福音の力を体験せよ 199 

罪はどんなものであれ、私たちを神から引き離してしまう事実を悟るとき、ついに私たちは、罪から救う救世主〔メシア〕が必要であることを実感することでしょう。しかし、どんなに罪を犯しても、「神の義が私たちに保証されている」と信じるならば、救世主の必要感はなくなってしまうでしょう。

そして今日、教会において、人は罪を犯していても救われるとの教えが、ますます増え広がってきています。

さらに、「罪は神から私たちを分離させない。私たちは罪を犯さざるを得ない者だから、イエス様が来られて私たちの肉体を完全に変えてくださるまで、罪を犯し続けるのは仕方のないことである」と主張する人たちもいます。しかし、それは真理ではありません。

   霊とまことの礼拝 22

これがなかなか出来ないんです。自我が傷ついた時、私たちはやっぱり自分の感情に流されてしまうわけですね。自分の思いで、聖書はこう言っているけど、私は人間だからと、自分の思いを優先させてしまう、そうすることによって、イエス様が心に入られることを拒否してしまうのです。ですから私たちは、どんな時にも、イエス様が心に入ってきて下さるように、御言葉によって歩むという経験をしていく必要があります。

その次の文章を読んでみたいと思います。「私たちが誇る自立と自己至上主義はサタンの配下であるしるしとしてその真の邪悪さが示される。人間の本性は、絶えず自己を表現しようと闘い競争している。しかし、キリストに学ぶ者は自己、誇り、至上権を愛する心がなくなり、心の中は穏やかになる」(祝福の山18p)。

この、心の中が穏やかになるという経験、心に平和が訪れる、こういう言葉を聞くと、本当に過去の自分と言うのは、怒り、怒りだけだったのですね。もう何か無性に腹が立つという事がありました。若いころ、理由もないのに、バスに乗っていたら、むしょうに何か腹が立つのですね。バスに乗っていて、何かワーと叫びたくなるような、そういう思いが起きたことがありました。本当に不思議ですけれども、この怒りの心が、ふつふつとわき上がってくるのです。だから、人から何か注意されようものなら、もう本当にすさまじいばかりに怒ります。でも、一応人間は自分より強い相手に対しては、何とかそれは収める、でも弱い相手だったら、その怒りをまともにぶつけて行くわけですね。そうやって、この人間の心の中にある、自分の心の中にあるこの怒り、これを神様は静めてくだいます。