救いは取り消されることがあるのか 第43回 最終回
しかし私たちは、私たちの良い行いによって信仰を証しできます。それはそのお方に対する愛の表現です。神様の戒めを守り、正しい行いをすることは、ただ私たちの心の中に聖霊がおられる結果です。そしてその結果が、豊かな聖霊の実となって表れます。私たちは救われるためではなく、救われたゆえに行いが表れるようになります。私たちは、心を尽くして主を愛するので、そのお方に喜んで服従したいと願うようになります。私たちはイエス様から投げられた救いの縄を、決して手離さないでしょう。私たちは私たちの唯一の望みであるキリストに、引き続き堅く従っていかなければなりません。
「霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである」(ヤコブ2:26)。
これが真の福音です 第15回
他の言葉で言うと、自我ですね。自我との戦いなどと、よく言いますね。この自我とは何ですか。私たちが、人間として生まれ持っているもの、それが自我です。そこで、私たちがその自我に屈服するか、しないか、勝利するかしないかに、クリスチャン生活のすべてがかかっているのです。自我が全くない人は、ここには誰もいません。いれば、それは人間ではないでしょう。自我とは、人間の本性と同じ言葉です。そして、イエス様も、そういう人間の本性を持ってこられたのです。イエス様は、全く私と同じ存在です。
ところが、イエス様は私たちと同様だと言いながら、「イエス様の中には、ある、何か神秘的なものがあって、イエス様は罪に惑わされないで、神として清く生きていかれたのだ」、そう考えている人がいます。しかしイエス様は、人間が、神様の戒めを犯すような弱さや、罪を犯す可能性を持った、そのような遺伝の法則の下に生きられたのです。『ヘブル人への手紙』をもう一度見たいと思います。4章15節です。
「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」。
ここで「思いやる」というのはどういうことでしょう。それは、自分も経験したので、相手を深く理解することができるという意味です。単に知識で理解することではなく、理論ではなく、それは、私のすべての悩みを経験されたということです。同じ病気を経験した人が、相手の病気の痛みが分かるように、イエス様も、私たちの悩み、苦しみ、戦い、全てを経験されたのです。だから、私たちのことを「思いやる」ことができるのです。イエス様は、試練の中にある人を助けるために、人間が経験したことを全て経験されました。だから思いやって下さるのです。神様は全知全能だから、ご存知なのではないか、そうではありません。イエス様も、経験でお分かりになったのです。