主は生きておられる 第9回
エノクの話は、私たちがよく知っていて、教会の子供たちもみんな知っています。しかしある日、み言葉を読んでいる時、「あぁ、私は今まで、十字架のイエス様や、やがて来られるイエス様のことだけ考えていたけれども、イエス様は、今日私と共におられるのだ。どうして今まで、遠い昔のイエス様や、これから来られるイエス様のことだけ考えて、いつも共におられるイエス様の事を考えて来なかったのだろう」と気付くのです。
たとえイエス様が、来年来られるとしても、私たちは、現在の自分の必要に答えて下さるメシヤを信じなければならないのです。私たちは目を高く上げて、主の再臨を待たなければなりません。しかし、イエス様が、今日私の罪を執り成して下さり、落胆する時力を与えて下さる、現在の主になっていなければ、どうして再臨を心から待ち望み、喜ぶことが出来るでしょうか。
これが真の福音です 第24回
『へブル人への手紙』2章11節にはこういう言葉があります。
「実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。」
きよめるかたは誰ですか。イエス様ですね。きよめられる者は誰ですか。私たち、生まれ変わった人たちです。この世のすべての人という意味ではありません。生まれ変わった人たちだけです。ここで、兄弟と呼ぶことを恥とされないというのは、兄弟だからです。イエス様の兄弟というのは、聖霊によって生まれ変わった人たちです。生まれ変わった人たちが持っている品性、新しい目的、新しい動機、新しい心、それはイエス・キリストが持っておられたのと同じものです。私たちは、この新しい心によって、罪に勝利していくのです。