主は生きておられる 第7回
ローマ人への手紙5章9節からのみ言葉にはこのようにあります
「わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう」(ローマ5:9)。
私たちの救いの中心、福音の中心である十字架によって、私たちは義とされています。それによって、私たちは、過去の罪を思い出して苦しんだり、失望したりする必要がなくなります。また、罪人に臨む神様の怒りから救われることが出来ます。
「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」(ローマ5:10)。
イエス様が十字架で死んで下さったことによって、私たちの過去の罪の問題が解決されました。さらに私たちは、イエス様が今も生きておられることによって、その命によって、救いを得ることが出来ます。イエス様の死は重要ですが、主が復活なさって、今も天の至聖所で大祭司として、執り成しをしていて下さることも、劣らず重要なのです。つまり私たちは、イエス様が生きておられるので、毎日、罪の力から救われる経験をすることが出来るということです。まさに、「今現在」毎日、毎日が救いです。
これが真の福音です 第22回
たくさんの人がこのように言います。「私は親から悪い遺伝子をもらっているから、罪に染まった本性を持っているから、イエス様のように戒めを守ることは不可能だよ、神様のみ言葉に従うのは不可能だよ。無理だ。この本性を受け継いでなければ、勝利することができるのに」。こういう言い訳を作り出すことができないように、イエス様が人間として、来られたのです。イエス・キリストの完全な従順は、不従順な人々を咎めることができます。イエス様が、初めから人間と全く違った本性で来られたのならば、人間としてではなく、神として生きられたのなら、私たちに対して、何も言えません。私たちと同じ経験をしていないのに、どうして私たちを咎めることができるでしょうか。
最後の審判の日、終わりの日のことを考えてみて下さい。「神様!私はあの時、誘惑に陥るしかなかったんです。あそこで勝利することはとても難しかったんです」という人がいるかもしれません。その時イエス様は、「私は、あなたがどんな試練を受けたか分かるよ。私も経験したよ。でも勝利したよ。その勝利の力をあなたに与えようとして、待っていたんだよ」「エーッ、イエス様は神様だから、罪のない生活ができたんでしょう。ほんとの人間になったことないでしょ!」。皆さん、この話が、何のことかわかりますか。イエス様をどのように理解するかによって、私たちが、罪に勝利できるかどうか、戒めに従うことができるかどうか、結論が全く変わるのです。