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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

二つの契約 18

2013年03月23日 | 日記

      

     ひまわりさんより(3月23日)

今日の午後は、友人と一緒に、ダニエル書、黙示録の勉強会をしました。今日の学びでは、特に、ダニエル書9章の「とがを終わらせ、罪に終わりを告げ、不義をあがない・・・」という聖句について、とがは、ヘブル語のペシャ(pesha)で反逆罪、主として十戒の1~4条に対する違反のことで、礼拝の規定に対する違反、罪はチャタス(chattath)で隣人愛にそむくこと、それは5~10条に対する違反で真理を伝道しないこと、不義はアウォン(awon)で、生来の欲望に勝利できないことで、健康改革の使命をないがしろにすることではないか、ということを学び、なるほどと思いました。そして、これらの罪に徹底的に抵抗する信仰と決心が重要なのだということを感じました。


 

   聖所の全景と外庭                     聖所の内部(聖所と至聖所)        

        聖所のメッセージの目的 18

贖罪の日になって、聖所の第二の部屋、至聖所に入っていきます。そこで印される経験をするわけです。印される経験というのは、プロセス、過程であり、時間を要します。聖所のこういった教理の基本は、皆さん把握しておられると思いますので詳しくは述べません。聖所の図を見ますと、聖所は2つの部分にわかれていて、まず外庭です。外庭の中心には何がありますか。燔祭をささげる祭壇があります。そして、右側の第2の部分には幕屋がありまして、そしてこの聖所の真ん中には何が置かれていますか。契約の箱が置かれていました。その中には十戒が収められていたわけですね。この聖所の構造自体が、一つの明確な、はっきりしたことを教えてくれます。イエス様は外庭の部分で私達をゆるしてくださいます。私たちの罪のために死んでくださいました。何のためにですか?なぜ私たちを救ってくださったのでしょう。なぜ私たちを許してくださったのでしょう。それは私たちが彼の戒めを守ることができるようになるためでした。これが聖所のメッセージの目的そのものなのです。

 


二つの契約 17

2013年03月22日 | 日記

     

                               ジョイと家族です  

    ひまわりさんより(3月22日)

今日は我が家のジョイについて、息子から今まで知らなかったことを聞きました。実は息子は、今から4年前、それまでいろんな仕事をしながら転々としていて、教会からも離れていたのですが(私たちの信仰に幻滅して)、何とか我が家へ引きもどし、勉強するようにしました。でもその頃は、私たち夫婦も、何となくしっくりしていなくて、帰ってきた息子は逆に私たちに気を使っていたのだそうです。そんな時息子は、もっと家族がまとまるために,例えば犬がいたらいいのではないかと思って祈っていたのだそうです。そして、犬の種類は、自分は柴犬が好きだけれども、柴犬は日本犬で内気なので、自分の家には向かないかもしれない、性格的にいいのは、従兄弟の家にいたシェルティーなので、その両方をミックスしたような犬がいいと祈っていたというのです。そして、たまたま私が連れてきたジョイが、まさにその通りの、柴とシェルティーをミックスしたような犬だったので、息子もびっくりして、神様の応答に感謝したのだそうです。ジョイは、たまたま我が家に来たのではなく、私たちのために、神様が遣わされた存在なのでした。息子はそれ以来、神様が祈りを聞いて下さるということについて、絶大な信頼を持つようになり、その後も、神様は必要な祈りには必ずこたえて下さるという確信を深めています。

      聖所の第1の部屋の働き 17 

それから、聖所の第1の部屋に入るとき何を学びますか。神の戒め、み言葉を学びます。聖所には窓とか外から見える場所はありません。その聖所の中で光を発するものは一つしかありません。何ですか。七つの燭台です。それは何を表していますか。神の言葉を表しています。私たちが改心した時、神の言葉が私たちの唯一の光となります。外庭で私たちは自己を祭壇にささげ、自我に死にます。そして大祭司について聖所中に入っていくわけです。そして、聖所の中でイエス様の方法を学びます。また、生命のパンをそこで食べるわけです。

 

 

 


二つの契約 16

2013年03月21日 | 日記

  

    ひまわりさんより(3月21日)                             世界らん展より

今日の日課の言葉は、すごく考えさせられました。「ヨハネとユダは、キリストの弟子だと告白した人たちを代表している。この二人の弟子は、同じようにキリストの模範を学び、それに従う機会を持っていた。二人ともイエスと密接に交わり、主の教えを聞く特権を与えられていた。二人はそれぞれ精確に大きな欠点があったがまた、二人とも性格を変える聖なる恵みに接することができた。しかし、一人が謙遜にイエスのことを学んでいる間に、もう一人はみことばを実行せずにただ聞くだけであった。一人が日ごとに自己に死に、罪に勝利して、真理によってきよめられていたのに、他方は、恵みの変える力を拒み、利己的な願いにふけり、サタンのとりこにされた」(『艱難から栄光へ』)

このような言葉を見ると、以前の私ならすぐに、「よし、やるぞ、み言葉を実行すればいいんだ」と鼻息荒く突き進んでいました。でも、でも、実際にはみ言葉は全く自分のものにはなっていませんでした。そして、カン先生のCDを聞いているうちに、み言葉を行うというのは、み言葉そのものであられるイエス様が心のうちに住んでくださること、それが現実のものになるというのは、「イエス様の動機と希望を与えてください」という熱心な求め、心の叫びがあり、その結果としてみ言葉を行う人になるということなのではないかと思うようになってきました。

    聖所のメッセージ(デビット・カン講演16)

ところで、私たちを、セブンスデー・アドベンチストとするのは、一体何なのでしょうか。考えてみてください。私たちが第7日安息日を信じているからですか。そうではありません。第7日安息日というのは、特異な、独特な真理ではありません。なぜなら、セブンスデー・アドベンチストは、当初はセブンスデー・バプテストの人からこの真理を学んだからです。では、私たちをセブンスデー・アドベンチストとするのは、再臨を信じているからですか。そうでもありません。私たちをセブンスデー・アドベンチストという特別な民とするのは、この聖所のメッセージなのです。イエス様が天の聖所から至聖所に移られたということを、しっかり認識、理解した上でセブンスデー・アドベンチストとなっていったのです。

なぜそうなのでしょうか。なぜイエス様は至聖所に移られたのでしょうか。それ以前の聖所の働きと、至聖所の働きとは何が違っているのでしょうか。これが永遠の福音の焦点となる部分なのです。福音には、調査審判の働きが含まれます。外庭の経験でまず私たちは、罪を憎んで義を愛することを学びます。犠牲の動物をささげる経験を通してこのことを学びます。罪人は、罪を犯したのは自分なのに、どうしてこの動物が死ななければならないのだろうと、考えさせられるわけです。そのようなことを通して、イエスキリストの犠牲、神の愛について学ぶわけです。

 


二つの契約 15

2013年03月20日 | 日記

  ひまわりさんより(3月20日)              2月10日に紹介したサクラ草が満開になりました。

息子が学んでいる神学校には、看護大学や、短大があります。3月3日に卒業式があり、夫は保護者会として式に出席しました。卒業式で、今年75歳の女性が、短期大学の英語学部を卒業されたのだそうです。夫はどんな方か知りたいと思って、声をかけ、私や息子の信仰の歩みについての証を渡しました。その方は、共感してくださり、家がそう離れていないこともあり、時々訪ねて下さるようになりました。今日は、その方と一緒に、我が家で祈祷会を持ちました。少ない人数ですが、心温まるひと時でした。一緒に歌った日基版讃美歌227番の5節の歌詞が心に残りました。「主にあるもの ふたりみたり み名によりて あつまるとき 神のくには 地の上に成らん」

    聖所の外庭の経験とは 15

旧約聖書時代の聖所の制度において、そこには、三つの段階が見られます。まず、外庭、つぎに聖所、そして、聖所の奥に至聖所がありました。この段階を通して神様は私たちを救おうとしておられます。神様は、私たちの内から、罪の問題を除き去ろうとしておられます。罪は病気、がんのようなものです。このがんのように私たちに巣食っている問題を、どのように除こうとしておられるのでしょうか。三つの段階、ステップがあります。最初のステップは何でしょうか。まず、イエス・キリストの犠牲を理解するということです。その上で、私たちの罪を告白します。レビ記の1章を読みますと、そこに燔祭の事が書かれていて、どのようにささげるべきかが説明されています。


 二つの契約14

2013年03月19日 | 日記

   

    ひまわりさんより(3月19日)                 庭に黄色い花が咲いていますが名前が分かりません。

障害者支援で行っているある利用者さんは、いろいろな事情があって、週に一回の買い物をするとき、おやつ代は300円までと決めています。それで、買い物の付添いに行くヘルパーさんから、「300円しか予算がないからたくさんは買えないのよ」「300円しかないから我慢してね」と言われて、自分が我慢させられていると思って、すごくストレスがたまっていたそうです。ところが別のヘルパーのSさんは、「300円あったら、100円のものだったら3個も買えるのよ。すごいわね。何を買うか選んでいいのよ。何を買う?」 と言って本人に選ばせ、買い終わった後は、「300円で納まるものをちゃんと買えて、我慢できて偉かったわね」と言ってあげたのだそうです。そうすると、本人はとても満足げでうれしそうだったということでした。私は、その報告を聞いて、同じことでも、言い方が違うと相手に与える印象がこんなにも違うのかと、改めて思いました。

     古い契約と新しい契約の違い 14

二つの契約がありました。まず古い契約、そして新しい契約です。条件に関していうならば、どちらも条件は同じでした。その条件とは何でしょうか。「神様の戒めに従えばあなたは生きる」という条件です。「神様の戒めに従わないならば、あなたは死ぬ」という条件です。そのように、どちらの契約に関しても、条件は同じなのです。では古い契約と新しい契約の違いは何でしょうか。態度なんですね。それが異なるのです。古い契約においては、律法、戒めに従いたい、ただし、聖霊なしにそれに従おうとするわけです。自我は屈服しておらず、まだ死んでいないわけですね。しかし、新しい契約の経験は、イエス・キリストの十字架をはっきりと理解した上で、同じ条件にもかかわらず態度が変わってきます。