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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

主は生きておられる 第15回

2014年12月17日 | 日記

 主は生きておられる 第15回

十字架の死と復活

 イエス様は、十字架上で外側からの肉体的な攻撃によって亡くなられたのではありません。つまり、イエス様は、誰かが殺したのではありません。誰も主を殺すことは出来ません。どうやって、人間が神様を殺すことが出来るでしょうか。イエス様は、私たちの罪のために、心臓が破裂して亡くなられましたが、イエス様は神様なので、ご自分が死ぬことを選択されたのです。イエス様は死ぬ権威がありました。ですから、生きる権威もあるのです。ご自分で死を選択されたので、生きる選択もすることがお出来になり、今生きておられて、永遠に神様と共におられるのです。

イエス様は復活された時、栄光をお受けになりました。イエス様が肉体におられた時は、嘲笑され、唾を吐きかけられ、いばらの冠を被せられました。イスラエルのいばらは、とげが長く、先が鋭く尖っていました。そのとげが額に刺さったら、どれほどの痛みを与えるだろうかと思います。イエス様は、そのようないばらの冠を受ける必要はありませんでしたが、それを受けられました。そして人から捨てられ、見るべき姿もなく、慕うべき美しさもなく、悲しみと病を知る人となられました。しかし、そのイエス様が復活された時、神様の栄光を受けられたのです。

このことは、私たちにとって、何を意味しているでしょうか。イエス様のみ名のために、苦しめられ、裏切られ、悪口を言われ、この世ではひどくみじめな、死んだも同然の状態になった時、復活の力を経験し、主の栄光の中に入れられるということです。どんなにつらい迫害の中にあっても、そのような中で、生きておられる主と交わり、その主の力と助けを受けていた人は、主のよみがえりの経験へと導かれるのです。

    これが真の福音です 第30回

 一つの詩を読んでみたいと思います。

イエス様はあなたを知っておられます。

罪を犯すことを、死ぬことよりも恐れられたイエス様は、

欲望の泥沼の前に立っている、あなたの危険を知っておられます。

人々から拒否され、弟子たちから捨てられたイエス様は、

真理のために一人になった、あなたの寂しさを知っておられます。 

貧しい家庭に生まれ、田舎で成長されたイエス様は、

真理のみ言葉に従って、行く先を知らないで出てきた、

あなたの信仰を知っておられます。

狐には穴があり、空の鳥には巣があるのに、枕するところさえなかったイエス様は、

真理のためにこの世の便利さを捨てた、あなたの犠牲を知っておられます。

「この盃を私から取り去ってください」と訴えられたイエス様は、

おびえて、切に求めるあなたを、必ず立ち上がらせてくださいます。

友は去り、愛するものからは裏切られたイエス様は、

真理のために誤解され、非難されるあなたのつらさを知っておられます。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれたイエス様は、

あなたの誠実な悔い改めと、切実な嘆願を聞いておられます。

あなたの最善の努力さえ誤解をうけ、人々からのつぶやきが聞こえる時、

心に相次いで湧き上がってくる悪い感情を拒んで、

「主よ、私を助けて下さい」と叫ぶ

あなたの戦いを知っておられます。

弱さと失敗の歩みの中で、嘆きながら訴えるあなたに、

イエス様は、慰めと世に勝つ信仰を与えて、再び来られる時まで、

あなたを導くと約束して下さいました。

 


主は生きておられる 第14回

2014年12月16日 | 日記

   

主は生きておられる 第14回

肉体をとって来られたイエス様の、目に見える姿はなくなりましたが、イエス様は目に見えない形で、霊なる方として私たちと共にいて下さる方です。そのイエス様が生きておられて私たちのうちに宿って下さる、そして、イエス様のうちに、私たちが宿ることができるという、相互内在の信仰経験が必要なのです。私たちの信仰は、死んで下さった方だけでなく、今生きておられる主に向けられるべきなのです。ヨハネ16:26には「その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」とあります。「その日には」、これは何の日ですか?イエス様が復活し、昇天され、天の王となられて、その証印として聖霊を与えて下さった日のことです。それによってイエス様は、時間、場所を越えて、いつでも、どんな場所にでも共にいて下さる神様となられました。そのようにイエス様は、私たちのすぐそばにおられる方なのに、多くの人は、十字架のイエス様や再臨のイエス様にしか目を向けようとしていません。そのために、生きて働かれる主の力を知ることが余りにも少ないのです。現在主が生きて私と共におられ、その主が天の父におられるので、神様とイエス様が私の中におられるという、力強い関係があることを、体験出来ていません。

    これが真の福音です 第29回

イエス様は、肉の性質や、遺伝的な弱さを持った、人間の姿をとって来られ、私たちと同じ道を歩んで、罪に勝利されました。皆さん、私たちが何を信じるかは、とても大事なことです。なぜなら、自分の信じている以上のことを悟るのは難しいからです。自分が今信じていることを破って、それ以上に行くのは難しいことです。でも私たちが、イエス様の人性について、正しいことを理解すれば、今から私たちは、勝利する人生を生きることができます。

皆さん、本当のイエス様をご存知ですか?私たちと同じように葛藤して、同じように試練にあわれたキリスト、ご自分が神の子であることさえも、信仰で理解するしかなかったのです。その時のイエス・キリストは、全く私たちと同じように、ただ、み言葉を学びながら、従順に生きることしかできなかったのです。しかも、私たちが、クリスチャンとして生きることが可能であることを知らせるために、地上に人間の姿をとって来られました。そのようなイエス様を、皆さん、知っておられますか。


主は生きておられる 第13回

2014年12月15日 | 日記

   

主は生きておられる 第13回

ヨハネ第1の手紙5章12節にはこのように書かれています。

御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(1ヨハネ5:12)

 イエス様は二千年前に十字架で亡くなられましたが、新しい命によみがえられました。このイエス様にある新しい命を、私たちに与えて下さるのです。イエス様の命とは、死を克服した命、罪に勝利した命、永遠に生きることの出来る命、イエス様が持っておられた命なのです。私たちがイエス様と共にある時、イエス様が私たちの中におられる時、私たちはその命にあずかることが出来ます。そして、御子を持つとは、今生きておられる方として、イエス様を信じ、体験しているということです。

ヨハネによる福音書14章19、20節には、そのことがこのように表わされています。

「もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」(ヨハネ14:19、20)

   これが真の福音です 第28回

 戒めを守ることは律法主義か?

今日私は、繰り返し、イエス様の人性について語ってきました。イエス様の人性を明らかに理解すれば、私たちは、イエス様と同じように、勝利することができることを悟るのです。そこで、サタンは、イエス様の人性について、間違ったことをすべての教会に教えました。私たちの教会もそれを受け入れています。私がこういう話をしたら、「ああ、これは異端ではないか」と疑う人がいます。先日、ある教会で、「神様の戒めは守れますよ」と説明したら、「それは律法主義だ。完全主義だ。自分が神様のようになろうとすることだ。異端だ。サタンと同じだ。サタンも神様のようになろうとして、高いところを目指したから落ちたではないか。人間は罪人で弱いのに、神様の戒めを守れるなんておかしいことだ」と言われました。今の教会はそういう状態です。なぜこういう現実になったのでしょうか。「イエス様が人となられたこと」、この真理がとても大事だから、サタンが「永遠の福音」を攻撃するために、最後まで頑張っているからです。


主は生きておられる 第12回

2014年12月14日 | 日記

     

主は生きておられる 第12回

死を克服した命

ヨハネによる福音書1章1節から少し読んでみましょう。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(ヨハネ1:1~4)。

神様の神性の本質は命です。私たち人間には、その本質的な命はありません。なぜなら、人間には、自分で自分の命を創り出す力はないからです。また、永遠に生きる命もありません。命はすべて神様から受けなければならないのです。神様には永遠に終わることのない命があります。そしてその命を、私たちが受けることが出来るように、イエス様が来てくださったのです。

   これがほんとうの福音です 第27回

皆さん、イエス様を見上げて下さい。イエス様がどのように生きられたかを考えてみて下さい。私たちの罪を赦すために来られただけでなく、その罪自体から救われるために、私たちの所に来られました。私たちは、自分が犯したその罪の故に、罪に引っ張られる弱さを持っています。親から受け継いだ、遺伝的な悪い性質も持っています。しかしイエス様は、それらの罪の性質から救うために、この世に来られたのです。いつ救って下さるのでしょうか。最後のラッパの時ですか。イエス様が再臨される時ですか。違います。今私を救って下さるためです。今私たちは、パウロと同じように、「勝ち得て余りがある」(ローマ8:37)歩みをすることができるのです。しかも私たちは、イエス様の愛を見ることができ、イエス様の完全な勝利を知ることができたのですから、もっと有利な条件だと思います。イエス様が勝利されたのと同じように、私たちも勝利することができます。


主は生きておられる 第11回

2014年12月13日 | 日記

     

主は生きておられる 第11回

「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」(ヨハネ24:6)

真理というのは、それをはっきり悟るまでは、その人にとって真理ではありません。そして、知識、知ったということは真理ではありません。その真理が私たちの心に根付いて、それがそのまま生活に表された時、はじめて真理になるのです。イエス様が復活されたということを、知識として、情報として知っていたとしても、今自分に助けを与えて下さる生きた方として知っていなければ、イエス様の墓を訪ねて行っているようなものなのです。

キリストは、黙示録1章9節によれば、「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者」(黙示録1:9)と表現されています。昔いまし、つまり十字架のキリスト、やがてきたるべき者、つまり再臨のキリスト、しかし、キリストは、よみがえられた方であり、「今います」方なのです。キリストは、今私たちと共にいて下さる神様です。今生きて、私たちを罪の力から救い出して下さる力強い神様です。

  これが真の福音です 第26回  

使徒パウロは言いました。「わたしは日々死んでいるのである」(1コリント15:31)。パウロは、毎日、毎日死んだのです。なぜ死ぬのですか。何に死ぬのですか。使徒パウロは、自分の肉、肉の中にある本性といつも戦って、自分を殺すという意味で死んだのです。使徒パウロは、毎日戦いました。誰が死んだのですか。使徒パウロの自我が死にました。それで使徒パウロは、毎日、勝利の経験をしながら生きていました。私たちも同じです。私たちも、そうしなければなりません。私たちは、生まれ変わったら、誘惑がないと思うかもしれませんが、誘惑はイエス様にも襲ってきました。イエス様も同じ誘惑と試練にあわれたのです。しかし、イエス様はそれに屈服されませんでした。

そこで、イエス様に勝てなかったサタンは訴えます。「イエス様は人間と全く違う肉体で来られたではないか。もっと、有利な条件で来られたから勝利することができたのだ」と。“違います!”。イエス様は、私たちが歩んで行くのと、同じ道を歩んで行かれました。サタンとの戦いにおいて、私たちはイエス様と違う不利な条件の下にいるのではありません。イエス様は、自分だけが持っている、特別な神聖な力で勝たれたのではありません。ですから、イエス様が勝利されたように、私たちも勝利することができるのです。