今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

犬山城下町<城とまちミュージアム、どんでん館>(愛知県犬山市)

2023年06月14日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年5月12日

犬山城下町を歩く
国宝犬山城を含むセット券を購入(760円)
犬山市文化史料館(城とまちミュージアム+IMASEN 犬山からくりミュージアム)と「どんでん館」に向かった
「城とまちミュージアム」に入館すると、隣の「犬山からくりミュージアム」で実演が始まることを案内された

IMASEN 犬山からくりミュージアム
初めて犬山城を訪れ周辺を歩いていたとき、からくり人形の制作しているところを見たことがある
からくり文化の発信の地であることを後になって知った
地元の犬山高校「からくり文化部」では、からくり人形の操作と、そのお囃子の練習を行っている
全国でも唯一の部活動だということをテレビで見たことがある



平日は2回、土休日は5回、からくり人形の解説と実演を行っている
この人形だけで、軽自動車が購入できると聞いた
あの有名な「茶運び人形」の実物を観ることができるとは思わなかった
ゼンマイや歯車などの組み合わせで動いていることが良く理解できた



茶運び人形は、その設計図と製作方法が記載されている「機構図彙(からくりずい)」と呼ばれる江戸時代に書かれた唯一の指南書の中にのみ存在し、
この機構図彙を手本に、幻の人形とされていた「茶運び人形」を完全復元させたのが「七代玉屋庄兵衛」だという
毎週金曜日と土曜日には、九代玉屋庄兵衛のからくり人形制作風景が公開されている



からくりには「山車からくり」と「座敷からくり」がある
「山車」は神が出現する機微を示す象徴で、からくり人形は神の具現として「山車」に設置されている



この「大型からくり」の操作を間近で見学することができる



館内に展示されている作品










































城とまちミュージアム



犬山城と城下町の模型



商人や職人のなかでも同業者を近くに住まわせることで町の発展をうながしてきた
鍛治屋町、魚屋町、鵜飼町といった町名をみることができる



現在も江戸時代とほぼ同じ町割りのまま、城と城下町が残っている全国でも数少ない町だという



どんでん館
何があるかもわからず、少し離れた場所にもあり、途中で疲れて戻ろうかと弱気になってしまった



ここには、毎年4月の第1土日に行われる「犬山祭」の高さ8mの巨大な車山(やま)が展示されていた
犬山祭は、寛永12年(1635)に始まる針綱神社の祭礼で、国の重要無形民俗文化財に指定されている



愛知県の有形民俗文化財に指定されている3層の車山13輌が城下町に繰り出し、笛や太鼓に合わせてからくり人形を披露する
どんでん館では、祭りの様子を短くまとめられた画像も用意されていて、その雰囲気がよく伝わってくる



重さ3トン超の車山を、男達が豪快に持ち上げて方向転換する「どんでん」は大迫力だという



夜は、各車山に365個もの提灯がともされ、満開の桜並木の城下町を練り歩くさまは、豪華絢爛で錦絵を見るようだとも



この高さのある建物のなかに車山が保管されている



街並みの先には犬山城
歴史ある地域の伝統文化は素晴らしい






撮影 令和5年5月12日
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みなとオアシス海王丸パーク(富山県射水市海王町8番地)

2023年04月27日 | 名所・旧跡
訪問日 令和4年10月12日

みなとオアシス海王丸パーク
寺社巡りが中心の旅であるが悪天候が続いているので気分転換に船でも見に行こうと車を走らせた
この周辺は何度も走っているが訪れたのは初めてである
遠くに見える「新湊大橋」がとても美しい



帆船海王丸
海王丸は、商船学校の練習船として、誕生した帆船
昭和5年(1930年)1月27日に進水した第1船は「日本丸」
同年2月14日に進水した第2船は「海王丸」と名付けられた



海上保安庁の巡視船PL04「やひこ」
平成25年4年より「伏木海上保安部」に配属されて富山新港・海王丸パークに係留されている



私は巡視船の方に興味があったが、立入禁止で遠くから眺めていた
「やひこ」には海上保安官約30人が乗り込み、潜水士は5人が配属されている
ヘリの発着のため揺れを抑える機能や航空燃料が給油できる装備も備えている



全長97.05m x 全幅12.95m
道理が通らない周辺国に囲まれているため報道されていない苦労も多いと思われる



帆船海王丸
大型練習帆船「海王丸」は、「日本の海の王者たれ」という日本の海運に寄せる期待を込めて、姉妹船「日本丸」とともに建造された
「海の貴婦人」と称される美しい姿で、見る人の心を掴み愛され親しまれてきた



帆船なので帆を張った船をイメージしていたが違った



「総帆展帆(そうはんてんぱん)」というイベントで、海王丸の29枚の帆をすべて開き、「海の貴婦人」と呼ばれた美しい姿を披露するらしい



海王丸では、4月~11月まで、年間約10回の総帆展帆を行っている
帆を開く作業は、海王丸ボランティア及び乗組員の手作業によって行われるようだ



<歴史について>
昭和4年(1929年)4月 25日 神戸・川崎造船所で建造開始
昭和5年(1930年)2月14日 神戸・川崎造船所で進水
10月から12月にかけてミクロネシアのトラック島[へ第1回遠洋航海を行っている
その後、太平洋を中心に訓練航海に従事した



昭和18年<第2次世界大戦>帆装撤去、船体をネズミ色に塗り替え緊急物資(石炭)輸送に従事
昭和21年<第2次世界大戦終了>海外在留邦人の復員船として27,000人の引揚者を輸送した



昭和26年(1951年)帰還輸送及び特殊輸送業務解除
昭和30年(1955年)浦賀造船所において帆装復帰工事完了( 船体も白く塗り替え、元の姿に復旧)
昭和31年(1956年)戦後初の遠洋航海を開始



平成元年(1989年)用途廃止(現役引退)
59年におよぶ総航程は106万海里(地球約50周)育てた海の若人は11,190名






貴婦人だけに後ろ姿も美しい



大きさは隣に係留されている 巡視船「やひこ」とほぼ同じ






普段は乗船することができるのだがこの日は定休日(毎週水曜日)だった
乗船料:400円



日本海交流センター
世界の国々が誇る帆船の模型などさまざまな展示品が見られるようだが、こちらも定休日



建物前の展示物






海王丸とやひこのツーショット



恋人の聖地
海王丸パークは「帆船海王丸」が2月14 日に進水した ことから、バレンタインデーにちなみ、「恋人の聖地」に選定されている






撮影 令和4年10月12日
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武蔵の里(岡山県美作市宮本)

2022年09月13日 | 名所・旧跡
訪問日 令和4年6月2日

武蔵の里
宮本武蔵生誕伝承地
宮本武蔵ゆかりという伝承があるとされる旧跡、名所、顕彰施設などがある

吉川英治文学祈念碑
剣聖宮本武蔵は天正12年(1584年)宮本村(現 美作市宮本)に生まれた
文武両道の達人で郷土の誇りとして語り伝えられてきた
昭和に入り、朝日新聞連載小説「宮本武蔵」によって、一躍日本の、いや世界の宮本武蔵になった



武蔵の生家
父は平田無二斎、祖父平田将監は十手術の達人で、武蔵は幼少の頃から武術にたけていた
13歳の時、新当流の有馬喜兵衛に勝利し生家を出て生涯戻ることはなかった









昭和17年(1942年)火災にて焼失し現在の家になる
大黒柱の位置は昔と変わっていないという



奥に見える家は武蔵の姉の嫁ぎ先の西尾家



武蔵の幼名は辨助(べんのすけ)
大好きな武蔵坊弁慶名前をもらって「武蔵(たけぞう)」と名乗っていた




こちらは武蔵の姉が嫁いだ家



西尾家も新免家もその子孫が引き継いでいる



武蔵神社
昭和46年(1971年)全国1300余名の浄財により建立












狛犬






拝殿






宮本武蔵肖像を模した奉納額






彫書芸術の創始者 彫無季(本名 河野省三)謹作書






本殿



著書『五輪書』の中では新免武蔵守・藤原玄信と名乗っている






武蔵の墓



武蔵の墓の前で観光協会の人に声をかけられ歴史について説明して頂いた
大河ドラマで武蔵が放映されていた時は毎日20台以上の観光バスが来ていたという
今はコロナの影響もありほとんどの施設は閉鎖されたそうだ



平田無二斉夫婦のものとされる墓の隣に建立された



武蔵の墓
武蔵の養子・宮本伊織の手により熊本から分骨したものとされる



「賢正院玄信二天居士 」と刻まれている



私と同じように武蔵観は吉川英治だという観光協会の人
話しが面白くもう一度本を読みたくなってきた
彼がいなければ武蔵の里も味気ないものになっていただけに嬉しい(感謝)



讃甘神社(さのもじんじゃ)
観光協会の人に案内された



額には社号の「讃甘神社」(さのもじんじゃ)と読めなかった



武蔵が、神社神主の太鼓を鳴らすバチ捌きにヒントを得て、二天一流を編み出したと伝わる



拝殿と奉納額












武蔵は魅力的な人物で映画やドラマを視たり、小説も読んできた
吉岡一門と戦った後に潜んでいた東寺の横にある観智院、五輪書を書いた霊巌洞も訪れた
幼少期に過ごしたこの場の空気も吸うことができた



撮影日 令和4年6月2日
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明石海峡大橋・江島(兵庫県神戸市垂水区東舞子町4)

2022年08月03日 | 名所・旧跡
訪問日 令和4年5月25日

明石海峡大橋
兵庫県神戸市と淡路島の間の明石海峡に架かる、橋長3,911m、中央支間長1,991mの世界最大級のつり橋
本州と四国を、道路と鉄道で繋ぐ本州四国連絡架橋事業の一環として建設された
昭和63年(1988年)5月に現地工事に着手し、およそ10年の歳月をかけて平成10年(1998年)4月に完成した



高所恐怖症に加え横風に弱い車ということもあり、約4kmの運転ではあったが精神的に疲れた
淡路サービスエリアに立ち寄り休憩、走ってきた橋を眺める
美しい橋だが天気がよすぎて霞んで見える



約5000億円(当時)の建設費が投じられたという



サービスエリア内には観覧車が設置されている



高所恐怖症で乗る乗りたいとも思わなかったが、よく見ると数台に1台は透明のゴンドラになっている



サービスエリアは満車状態、淡路島の観光案内所で資料を入手する



道の駅「あわじ」
明石海峡大橋に一番近い道の駅になる



アンカレイジ
メインケーブルの両端を固定するコンクリートの重し
風速80m/sの風に、プレートによる大地震や、兵庫県南部地震のような直下型地震にも耐えうるように設計されている



遠くからの眺めもいいが、近くからでは迫力が加わる



真下からの眺め






明石海峡大橋では、毎年5月と11月に行われる「明石海峡大橋海上ウォーク」というイベントがある
このウォーキングで特に重要な参加条件が「高所恐怖症でない」ということ(無理)



ケーソン係留用の鋼製シンカー
シンカーとは海底に設置する重り









絵島(えしま)
淡路島の北端に浮かぶ島で、国生み神話に登場する「おのころ島」伝承地の一つ



おのころ島とは、日本神話や記紀に登場する島
イザナギノミコト・イザナミノミコトによる国生み神話で知られ、神々がつくり出した最初の島となっている



撮影日 令和4年5月25日
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世界遺産 白川郷 その2(岐阜県大野郡白川村荻町)

2022年06月27日 | 名所・旧跡
訪問日 令和4年5月16日

世界遺産 白川郷
白川郷の荻町地区は合掌造りの集落で知られる
独特の景観をなす集落が評価され、1976年重要伝統的建造物群保存地区として選定
平成7年(1995年) 白川郷・五箇山の合掌造り集落として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された



初めて訪れた時は民家が多く配慮をするよう求められた記憶があった









現在はすっかり観光地化し土産物店などが多くなった気がする



子供の頃、よく目にした懐かしい光景



長瀬家(有料見学施設)






この家の葺き替えの様子をテレビで視たことがあった
以前訪れた時には、茶をご馳走になりお話を聞かせてもらった



茅葺きの屋根の構造






歩を進めると大きな家が見えてくる



神田家(有料見学施設)
集落内は保存地区のため道路や水路に柵がない



横から見ると建物の3分の2を屋根が占めている



残雪がより景観を高めている



以前は日常生活を営んでいる人達に申し訳ないと思い歩いていた
それが嫌で、近くを車で走っていても立ち寄る気持ちになれなかった



時代の流れなのか、それを感じる家が少なくなっているように感じた(私感)



合掌民宿 丈六
マップによると集落には民宿が21カ所もある



高台にあるのが展望台。あの有名な眺望を楽しむことができる
遊歩道を上がるかシャトルバスに乗るかの選択になる









和田家住宅(重要文化財)
江戸時代末期の建築物と考えられている






白川郷の合掌造民家としては最大級の規模を持つ(桁行22.3m、梁間12.8m)







世界遺産白川郷の合掌造り集落を代表する民家






この日は朝から寺社巡りをして、ここが5カ所目となる
萩町合掌造り集落の一部を回ったところで体力を維持している電池が切れた(笑)



庄川の流れ



であい橋を渡り駐車場に戻る
駐車料金の記載はなかったが機械から請求された金額は1,000円だった



撮影日 令和4年5月16日
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モネの池・根道神社(岐阜県関市板取448番地)

2022年06月19日 | 名所・旧跡
訪問日 令和4年5月15日

名もなき池(通称:モネの池)
「モネの池駐車場」の住所をナビに入力すると目的地に着いているのに違った場所を案内する
岐阜の旅ガイドによると、池の前にある施設の「フラワーパーク板取」をナビに登録するようにと書いているのを後で知った
混むと予想されたので、早めに道の駅を出て8時過ぎに到達した
駐車場から池までは100m程の距離



普段の私ならこのような景勝地は選択しないのだが、大学の後輩から勧められたので訪れてみた
池の中を優雅に錦鯉が泳ぐ姿は、まるでモネの代表作「睡蓮」のようだと
名もなき池が「モネの池」と呼ばれるようになった



太陽の当たり方によって池の色が変化する
場所によっては普通の名もなき池になる






小さな池で周囲を歩いて水の透明度が高く綺麗に写る場所を探してみた



やはり、人の集まっているところが、この時間帯では良い場所のようだ



最も美しいのは睡蓮の咲く初夏の頃の午前中と言われている



根道神社
「モネの池」は根道神社の境内にある池



拝殿と本殿



本殿の保護のために屋根が覆われている



明治39年(1906年) 合祀の勅令により、周辺諸社を合祀
明治42年(1909年)1月、根道神社となる



本殿の彫刻



岐阜県関市の美しすぎる池
情報では、午前10時前までに行くとバスツアーと重ならず、静かに撮影できるという



撮影日 令和4年5月15日
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大間崎 (青森県下北郡大間町大間大間平)

2021年09月27日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月12日

大間崎
大間崎に着いたが、雨が降っていたので車内で休憩し遅い朝食を摂った
予約していたフェリーの出航時間まで3時間もある

日本海軍特務艦「豊国丸」戦死者慰霊碑
太平洋戦争中「豊国丸」は、横須賀鎮守府所管特設運送艦として、北海道ー横浜間の石炭輸送に従事した艦船
昭和20年7月、大間沖から大湊へ向かっていた豊国丸は函館市街の攻撃を終えた戦闘機の標的となる
135名もの死者を出し、今なお約90名が大間崎沖の海で眠りに就いている



石川啄木歌碑
代表作の「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」
この「東海歌」が詠われた舞台は大間崎ではないかという説がある



東海といえば函館の海岸が一般的だが……
大間啄木会では「啄木が大間の光景を東海歌に詠んだのはほぼ間違いない」として平成10年7月、大間崎に石川啄木歌碑を建立した



いやいや、東海はK国だと隣国からクレームがくるかも(笑)



大海にむかひて一人 七八日 泣きなむとすと家を出でにき
東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
大といふ字を 百あまり砂に書き 死ぬことをやめて 帰り来れり



「日本最北端 宗谷岬、日本最東端 納沙布岬、本州最北端 大間崎」
日本全国の主だった岬が地図で紹介されている
これを見て、岬巡りも面白いと思った



「ここ本州最北端の地」



マグロのモニュメントの前で5人組の若者に記念写真の撮影を頼まれた
喜んでもらえたようで笑顔で気持ちの良い礼をされた
海岸に下りて行こうとする彼らに声を掛けるとポーズをとってくれた



大間の漁師に一本釣りされた440キロのマグロがモデルになっているという



マグロでも食べて帰るかと思っても値段を見てびっくり
年金生活者には無理だと思ってしまう









弁天島と大間埼灯台
弁天島は、大間崎から沖合およそ600m、約2万羽のカモメ類の大繁殖地






津軽海峡フェリー「大函丸」
大間ー函館間航路の一文字をとった船名だと想像できる「大函丸」



大間ー函館間航路はノスタルジック航路と名付けられている
90分間の所要時間は最も短く、運賃も安い



これにて、2021年春の放浪の旅も終わりになる
出発時には四国にでも行こうかと思っていたが、いつのまにか日本海側を北上していた



撮影 令和3年6月12日
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仏ヶ浦(青森県下北郡佐井村長後 他)

2021年09月26日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月12日

仏ヶ浦(国名勝・天然記念物 )
平成17年(2005年)夏、アルファードを購入し函館までドライブをした
ついでにと思い大間行きのフェリーに乗船し、青森に向かっている途中にこの景色が目に入った



私は自然の美しさにはあまり感動することはないが、この仏ヶ浦の景色だけは別だ
もう一度、訪れてみたいと長い間思っていたが、ついにその日がやってきた



しかし、雨がずっと降っていて海岸まで下りるかどうか悩んでしまう
しかも、下りる遊歩道が見つからない



雨が強くなってきたので車内で待機し、望遠レンズにつけ替える
この日、大間発~函館行のフェリーを予約していたため海岸に下りるのを諦めた



しばらくすると雨が上がり、空が明るく視界がよくなってきた






大間岬に向けて車を走らせる
途中、海と岩とが綺麗な場所が数カ所ある






撮影 令和3年6月12日

下記は、2005年に海岸まで下りた時の写真である(2013年に発信)

名勝・天然記念物 「仏宇陀(仏ヶ浦)」
国道338号線を南下すると道路沿いに展望台があり数台車が駐まっている
私も展望台からの景色を眺めてみると「あっと」驚く光景が眼下に



100メートル以上の高低差がある急峻な地形で車道を通せず、近年整備の歩道のみが海岸に通じる
階段が続き所要約15分だが結構疲れる



断崖により陸上から近付くのが困難な土地で、長らく地元民のみに知られる奇勝であった



陸奥湾口の平舘海峡に面した峻険な海岸沿いに2キロメートル以上に亘り、奇異な形態の断崖・巨岩が連なる
緑色凝灰岩を主とした岩石が非常に長い間の海蝕を受けた結果形成されたものである



海上からでなければその全体像は把握できない
佐井村佐井港およびむつ市脇野沢港からの観光船が一般的な交通手段






宗教家の青木慈雲は霊界の入口であるとした



文人で、登山家・紀行家の大町桂月は、1922年9月に下北半島を訪れた際、仏ヶ浦を見て強い感興を覚えた



「神のわざ 鬼の手つくり仏宇陀 人の世ならぬ処なりけり」の和歌をもってその奇観を賞した  

 

撮影 平成17年7月撮影
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田沢湖(秋田県仙北市)

2021年09月15日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月9日

田沢湖
私の旅では好んで湖を訪れるということはほとんどない
初めて訪れる田沢湖の知識といえば日本一深い湖という程度だ



漢槎宮(浮木神社)



漢槎宮(かんさぐう)は浮木神社(うききじんじゃ)とも言い、田沢湖畔の潟尻に立つ社殿
流れついた浮木(大木が湖面から2メートルぐらい顔を出し、斜めに水底に深く消えている流木)を祭ったものといわれている









若い女性が楽しそうに魚に餌を投げスマホで撮影している



湖面を見るとウグイが餌を求めて集まってくる



辰子像(舟越保武 作)
知人からラインで1枚の画像が送られて「何処にある、何という像か」と質問された
見たこともない像で答えることができなかった
それが、田沢湖にある、この辰子像だった



質問者が大学の後輩ということもあり悔しい思いが倍増
普段の私なら目的地にならない湖だが、その像を確かめたくて訪れた



「たつこ姫伝説」
まれにみる美しい娘 辰子はその美しさと若さを永久に保ちたいものと、密かに大蔵観音に百日百夜の願いをかけた
満願の夜に「北に湧く泉の水を飲めば願いがかなうであろう」とお告げがあった
泉の水を手にすくい飲むと何故かますます喉が渇き、ついに腹ばいになり泉が枯れるほど飲み続けた
時が過ぎ、気がつくと辰子は大きな龍になっていた
龍になった辰子は、田沢潟の主となって湖底深くに沈んでいった



御座石神社
辰子像から数キロ離れた場所にある
途中、餌やりをしていた2人の女性が先を争うようママチャリをこいでいた



社名は、慶安3年(1650年)に秋田藩主 佐竹義隆が田沢湖を遊覧した際、腰をかけて休んだことに由来



北海道に住む私としては摩周湖が日本一美しい湖だと思っている
だが、田沢湖の湖畔から眺めるこのコバルトブルーの湖面の美しさは感動する



田沢湖は円形で直径は約6km、最大深度は423.4mで日本第1位(第二位は支笏湖、第三位は十和田湖)、世界では17番目に深い湖
過去には隕石クレーター説なども検討されたことがあるが、調査の結果、180万年前から140万年前の爆発的噴火によるカルデラとの説が有力



古くから漁業が行われ、正徳5年(1715年)には固有種であるクニマスに関する最古の記述があり
久保田藩主の佐竹氏および分家の佐竹北家(角館佐竹家)の献上品として利用されてきた



餌やり、ママチャリの元気のいい女性が一番景色の良い場所で佇んでいた
動く気配がなかったので声を掛けてみた



「後ろ姿を撮らせて下さい」と
写真が気に入ってくれたようで、彼女たちのスマホでも撮って欲しいと依頼された
会社の同僚だという2人、底抜けに明るく笑顔が素敵だった



御座石神社(ござのいしじんじゃ)周辺には、この「辰子姫伝説」にちなんだ名所が多く残されて
辰子が飲んで龍となった「潟頭の霊泉」、辰子が姿を映した「鏡石」などの名所もある






茅の輪(茅草で作られた大きな輪)は、正月から6月までの半年間の罪穢を祓う夏越しの大祓に使用される
それをくぐることにより、疫病や罪穢が祓われるいわれている



拝殿



扁額には社号の「御座石神社」



美貌成就の神社の神社でもある



神社によって特色があり面白い



「たつこ姫像」






拝殿からの眺望






撮影 令和3年6月9日
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角館武家屋敷 その2(秋田県仙北市角館町)

2021年09月14日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月9日

角館武家屋敷 その2

角館歴史村 青柳家(秋田県指定史跡)
<前回の続き>
秋田郷土館



雪国ならではの頑丈な造りの旧家を移築
1階は素朴な農村の暮らしぶりを伝える農具などを展示






2階では音の世界・戦乱の歴史について展示している



指揮者・演奏者の直筆サイン入りというから凄い



若い頃、オーディオ機器に興味を持ち集めていたが、今回の旅の前に全て処分し旅の資金にあてた



ジャズを中心にLPレコードも夢中になって集めていた
クラシックも良く聴いたが、さすがに、この時代のジャケットは観たことがない






若い頃のカラヤン
カラヤンはジャケットの写真にこだわりをもち、横顔の写真が多い



昔のジャケットはデザインが秀逸
ジャケ買いしてしまいそうな1枚だ



興味ある分野だけに時間を忘れてしまった



外には「消防組」書かれている消防ポンプ車が置かれている



ポンプ車を所有しているというのにも驚く



武家道具館
土蔵を利用した館内には、当時の武士の生活様式を伝える武家道具が並んでいる






青柳家に代々伝わる文献書籍や押絵、焼物、絵皿






押絵
角館には江戸時代より数多くのお雛様が伝えられている
庶民の間では手作りの押絵が雛壇を飾った



押絵は厚紙に下絵を描いて形を作ったものに裂(きれ)を貼り、その間に綿を入れ立体感をだして仕上げた人形






歴史を感じる「番付表」 番付では大関が最高位
「大関(関脇)」の地位の中で横綱を付けられる者のことを「横綱」と呼んでいた時代






時代体験庵
籠掻体験・兜体験ができる



ハイカラ館 2F展示室
平賀源内、小田野直武など角館ゆかりの先人の先取的思想とハイカラ指向を受け継ぐアンティークミュージアム






カメラコーナー






蓄音機



青柳神社






山車
毎年9月7~9日に行われる角館の祭典の山車






母屋(重要文化財)に戻る









石黒家(仙北市指定史跡)
石黒家は佐竹北家の用人を勤めた家柄で、家伝によると嘉永6年(1853年)に現在地に移転した



薬医門には、文化6年(1809年)日付の矢板がある
残念ながら臨時休業中だった



道路面にはのぞき窓を付けた黒板塀がめぐり現存する武家住宅の中でも最も古い



旧石黒家(恵)


















撮影 令和3年6月9日
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角館武家屋敷 その1(秋田県仙北市角館町)

2021年09月13日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月9日

角館武家屋敷 その1
象潟の道の駅から100km程走り武家屋敷周辺の桜並木駐車場に着く
受付所で武家屋敷は初めてだと告げると簡単な地図を渡された
公開武家屋敷は有料3軒、無料3軒の6軒

旧松本家住宅主屋(秋田県指定文化財)
松本家は、佐竹家の重臣今宮家の組下で佐竹氏の国替により主家に従って常陸から角館に移った
屋敷は万延元年(1860年)作製による屋敷割絵図に表6間裏15間とある






建物は茅葺の簡素な造りで下屋をおろした入口を入って居間、その右に座敷兼仏間が配されている
裏側は水屋に続いて広縁があり、その奥に寝室が配されている



旧藩時代は、殖産事業の原料となる植物や食用植物が植え込まれていた



松本家を出て周辺を歩いていると方向音痴の本領発揮、迷子ではなく迷爺になってしまった(笑)
近くを歩いていた女性に道を尋ねると、「美人ですね」と思わず発してしまったほどの秋田美人
とても親切丁寧でしかも美人。坩満寺の西施像を思い出した



角館樺細工伝承館
ヤマザクラ類の樹皮を用いて作られる工芸品を樺細工(かばざいく)という



角館の樺細工は、天明年間(1781~1789)にかけて佐竹北家の藤村彦六によって御処野家から伝授されたことから始まった



下級武士の手内職ではあったが、侍らしく妥協を許さない一品入魂の作風で、印籠、眼鏡入、根付、緒締などの製作を手がけた



通りに出る
コロナの影響で観光客の姿がほとんどない



角館歴史村 青柳家(秋田県指定史跡)
400年の歴史を語る武家屋敷
芦名氏の家臣として常陸佐竹氏の国替えにより角館に入った



薬医門
万延元年(年)藩への功績が認められ特別に許された青柳家の薬医門
上級武士にしか許されない重厚で格調高い造りは青柳家の誇りだった






案内図
順路が示されていなければ迷ってしまう3000坪の屋敷



青柳家 母屋(重要文化財)



龍野萬黄(たつのまんおう)画
青柳家に泊まり描いた屏風



この日は非公開だったが、「母屋探訪ツアー」も開催されている



武器蔵
青柳家の貴重な武具や文献が収められている












青柳家が甲府にて武田の武器作りをしていた当時の鎧兜
五輪塔旗印は鎌倉時代のもの
陣羽織や刀も家の誇りとされていた



神明水






解体新書記念館
『解体新書』は日本で初めて翻訳された全5冊の西洋医学書で、安永3年(1774年)江戸で発刊された



翻訳したのは、杉田玄白、前野良沢だが、当時の日本に衝撃を与えたのは、初めて正確な人体解剖図がついていたこと
この人体解剖図を描いた画家が小田野直武という角館の武士だった



若い頃、文庫本で解体新書を購入し解剖図に衝撃を受けたことを思い出した



小田野直武
画家としての才能を見いだしたのは、江戸の才人・奇人といわれた平賀源内だった
蘭学に精通した平賀源内の手ほどきで解体新書の解剖図を描く




その後、日本で最初の西洋技法絵画「秋田蘭画」を創始する












解体新書の画家「小田野直武」












解体新書は5分冊の書籍
この解体新書は小田野直武から、当時の青柳家8代当主 青柳正躬に贈られたもの






小田野直武像



次回に続く

撮影 令和3年6月9日
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角館武家屋敷 その1(秋田県仙北市角館町)

2021年09月13日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月9日

角館武家屋敷 その1
象潟の道の駅から100km程走り武家屋敷周辺の桜並木駐車場に着く
受付所で武家屋敷は初めてだと告げると簡単な地図を渡された
公開武家屋敷は有料3軒、無料3軒の6軒

旧松本家住宅主屋(秋田県指定文化財)
松本家は、佐竹家の重臣今宮家の組下で佐竹氏の国替により主家に従って常陸から角館に移った
屋敷は万延元年(1860年)作製による屋敷割絵図に表6間裏15間とある






建物は茅葺の簡素な造りで下屋をおろした入口を入って居間、その右に座敷兼仏間が配されている
裏側は水屋に続いて広縁があり、その奥に寝室が配されている



旧藩時代は、殖産事業の原料となる植物や食用植物が植え込まれていた



松本家を出て周辺を歩いていると方向音痴の本領発揮、迷子ではなく迷爺になってしまった(笑)
近くを歩いていた女性に道を尋ねると、「美人ですね」と思わず発してしまったほどの秋田美人
とても親切丁寧でしかも美人。坩満寺の西施像を思い出した



角館樺細工伝承館
ヤマザクラ類の樹皮を用いて作られる工芸品を樺細工(かばざいく)という



角館の樺細工は、天明年間(1781~1789)にかけて佐竹北家の藤村彦六によって御処野家から伝授されたことから始まった



下級武士の手内職ではあったが、侍らしく妥協を許さない一品入魂の作風で、印籠、眼鏡入、根付、緒締などの製作を手がけた



通りに出る
コロナの影響で観光客の姿がほとんどない



角館歴史村 青柳家(秋田県指定史跡)
400年の歴史を語る武家屋敷
芦名氏の家臣として常陸佐竹氏の国替えにより角館に入った



薬医門
万延元年(年)藩への功績が認められ特別に許された青柳家の薬医門
上級武士にしか許されない重厚で格調高い造りは青柳家の誇りだった






案内図
順路が示されていなければ迷ってしまう3000坪の屋敷



青柳家 母屋(重要文化財)



龍野萬黄(たつのまんおう)画
青柳家に泊まり描いた屏風



この日は非公開だったが、「母屋探訪ツアー」も開催されている



武器蔵
青柳家の貴重な武具や文献が収められている












青柳家が甲府にて武田の武器作りをしていた当時の鎧兜
五輪塔旗印は鎌倉時代のもの
陣羽織や刀も家の誇りとされていた



神明水






解体新書記念館
『解体新書』は日本で初めて翻訳された全5冊の西洋医学書で、安永3年(1774年)江戸で発刊された



翻訳したのは、杉田玄白、前野良沢だが、当時の日本に衝撃を与えたのは、初めて正確な人体解剖図がついていたこと
この人体解剖図を描いた画家が小田野直武という角館の武士だった



若い頃、文庫本で解体新書を購入し解剖図に衝撃を受けたことを思い出した



小田野直武
画家としての才能を見いだしたのは、江戸の才人・奇人といわれた平賀源内だった
蘭学に精通した平賀源内の手ほどきで解体新書の解剖図を描く




その後、日本で最初の西洋技法絵画「秋田蘭画」を創始する












解体新書の画家「小田野直武」












解体新書は5分冊の書籍
この解体新書は小田野直武から、当時の青柳家8代当主 青柳正躬に贈られたもの






小田野直武像



次回に続く

撮影 令和3年6月9日
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十六羅漢岩(山形県飽海郡遊佐町)

2021年09月10日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月8日

十六羅漢岩
ある目的地を目指し日本海側を北上中「十六羅漢岩」の案内標識があり寄り道をした
以前から気になって場所でもある
地元の男性の話しでは22体の磨崖仏があるそうだ

展望台からの眺望
この周辺に約10体の磨崖仏があるが判別できないので近くに寄ってみる



早速、違った方向に歩き出したようで、地元の男性に指摘され、正しい方向を指で示された
その方向に磨崖仏があるらしいが判別できなかった



1 観音菩薩 (かんのんぼさつ、アヴァローキテーシュヴァラ)



2 注荼半託迦 (ちゅだはんたか、チューダパンタカ)
岩の上に上らなければ観ることができないと聞いていた



穏やかな表情の磨崖仏だ



次の場所に移動する
ここには8体の磨崖仏が確認できた



岩の左側部分(5体)



右側部分(3体) 獅子岩もあると聞いていたが既に忘れていた



3 舎利佛 (しゃりほつ、サーリプッタ)左
4 普賢菩薩 (ふげんぼさつ、サマンタバドラ)右




5 釈迦牟尼仏 (しゃかむにぶつ)上
6 目連 (もくれん、モッガッラーナ)下




7 文殊菩薩 (もんじゅぼさつ、マンジュシュリー)



右側部分(3体)



8 因掲陀 (いんがだ、インガダ )



9 賓度羅跋囉惰闍 (びんどらばらだじゃ、ピンドーラ・バーラドゥヴァージャ)
10 戍博迦 (じゅばか、ジーヴァカ)




歴史を少し
地元の吹浦 海禅寺の21代寛海和尚が、仏教の隆盛と衆生の救済、事故死した漁師の供養と海上安全を願って、1864年から5年の年月をかけ、1868年に完成させた



寛海和尚は、造佛のための費用を工面するため、近隣在郷の協力のみならず酒田方面まで托鉢を行い資金を集めた
資金が1~2両集まるごとに石工に造佛を依頼していたため、磨崖仏は5年の間に順次造られていった
磨崖仏の完成を見た後、明治4年 (1871年)7月に寛海和尚は自身が守り仏になるため、羅漢岩の傍らの海に身を投じ、71年の生涯を閉じた



場所を移動する(3体の磨崖仏)



11 蘇頻陀 (すびんだ、スヴィンダ)






12 伐那婆斯 (ばなばす、ヴァナヴァーシン)






13 諾距羅 (なこら、ナクラ)



更に先に進むが急に足元が悪くなる



岩の上を歩いて進む(先に何があるか分かっていない)



2体の磨崖仏があった(嬉)



14 跋陀羅 (ばだら、バドラ)



15 半託迦 (はんたか、パンタカ)



16 那迦犀那 (なかさいな、ナーガセーナ)
道路下の洞穴に安置されていた



この先まだあると思うが、地元の男性からも危険なので無理をしないようにとの忠告を思い出した
「君子危うきに近寄らず」 教養も徳もないがこの言葉に従い戻ることにした



地元の男性も全部観ていないと聞いた
旅行者としてはこれで十分だと思うが好きなだけに悔いは残る



撮影 令和3年6月8日
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山居倉庫(山形県酒田市山居町)

2021年09月09日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月8日

山居(さんきょ)倉庫(国史跡)
数年前に土門拳記念館の写真を撮っていたとき「私と同じレンズですね」と声を掛けられた
その同世代の男性から、いい被写体あると紹介されたのがこの山居倉庫である



この場所に案内された時に、探していた場所だと思った
当時「さんきょ」とは読めず「やまい」でナビ検索をしていた



明治26年(1893年)に建造された米の保管倉庫
現在、12棟からなる倉庫が残り、9棟は現役の米蔵として使用されている



残り1棟は1985年に「庄内米歴史資料館」
2棟が2004年に「酒田市観光物産館 酒田夢の倶楽(くら)」として改装されている



背後を囲む「欅並木」は日よけ・風よけの役目を果たし、自然を利用した低温管理が行われている






三居稲荷神社






歩いてきた道を振り返る



二重屋根



倉庫内を覗いてみる



山居倉庫正面
魅力的な黒色の倉庫と欅並木は実は裏側で、正面はこの様になっている









小鵜飼船






屋根の上の人が落ち葉を拾い集め、ほうきで屋根を掃き清めている



「酒田市観光物産館 酒田夢の倶楽」で大阪の友人からの勧めもあり山形米「つや姫」を購入



NHK朝ドラ「おしん」のロケ地としても知られている



撮影 令和3年6月8日
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旧 閑谷学校 その2(岡山県備前市閑谷)

2021年01月25日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年10月2日

特別史跡 旧閑谷(しずたに)学校 その2

公門(重要文化財)
藩主臨学の際に使用した門で御成門ともいう



左から「飲室」「習芸斎」



飲室(重要文化財)
教師と生徒たちが、湯茶を喫した休憩室
中央の炉のふちには「斯爐中炭火之外不許薪火」と彫り込まれており、火の使用に厳重な注意がはらわれていた



習芸斎(重要文化財)
農民たちも学んだ、教室として使われた施設
毎月三と八の付く日は「五経」と「小学」
朔日(ついたち)には農民も聴講することができる「朱文公学規」の講釈が行われた



女子中学生が修学旅行で訪れていた
遠くから様子を見ていたがTPOをわきまえる行動には感心した






石塀(重要文化財)



かまぼこ型の石塀は、石と石との隙間を無くしているため土が入らず雑草がはえない工夫がされている



女子中学生が講義を受けるため講堂に移動している



資料館で流されていたDVDを視て「なるほど」と思った場所を撮ってみた
最初は「備前焼の瓦」



残念ながら…………画像は残っているが内容を忘れてしまった(笑)









講堂(国宝)
「学問の殿堂」旧閑谷学校を代表する国宝



講堂は入母屋造り、しころ葺きの大屋根と火灯窓が壮重な独特の外観を形作っている



創建当時は「茅葺き」だったが、その後改築され現在の堅牢な「備前焼瓦」に葺き替えられた



講義が始まった。講義を聴いてもいいと許可をいただいたのと写真は後ろ姿だけともいわれた
家庭や学校で良く躾られている女の子たちだと感じていたがその通りだった。知的レベルも高そうだ
講義の内容は「論語」の学而の部分であるが、「如」についてどれだけ理解できただろうか



校門(重要文化財)
この日は10月にもかかわらず真夏日で木陰のベンチで休みたかった



廟の正門として建てられたもので閑谷学校の校門でもある
中国最古の詩集である「詩経」の中の詩に因んで「鶴鳴門」ともよばれる



楷の木(かいのき)
四季を通して情緒豊かな「学問の木」
聖廟前に植えられた二本の楷の木は、中国山東省曲阜の孔林から種子を持ち帰り苗に育てられた内の2本






聖廟(重要文化財)
儒学の祖、孔子の徳を称える最も重要な施設



孔子廟、西御堂とも呼ばれ、最も重要な施設として中央の一番高い所に配されている






奥の「大成殿」には孔子像が安置されている
毎年10月には儒学の祖、孔子の徳を称える「釈菜(せきさい)」の儀式が行われる






聖廟から校門を眺める



聖廟を後にする



閑谷神社
閑谷学校の創始者、池田光政を祀っている






「拝殿」



もとは「東御堂」、または光政の謚をとって「芳烈祠」と呼ばれていた



本殿内には御神体として光政の座像が安置されている









池田家の家紋である「蝶」



受付の男性からの近くにあるお薦めの場所を聞いた
居心地が良く長居をしてしまった。名残惜しいが外に出た



特別史跡 椿山



写真では表現できないが違った世界を歩いているようだった



神々しい雰囲気で、椿山には約400本近いヤブツバキが植えられている



歩いた奥には池田光政の髪・爪・歯などを納めた供養塚「御納所」がある



供養塚から講堂を眺める



石塀の外を歩いてみる
校門(重要文化財)
両脇に花頭窓のある付属屋を付けるなど中国の建築様式を模している






貞享3年(1686年)の造営



公門(重要文化財)
本柱の後ろに控柱二本を建てて切妻屋根をのせる薬医門様式の建物



石塀が築かれた元禄14年(1701年)の時点で設置された



飲室門(重要文化財)






石碑



修学旅行生の昼食風景(密を避けている)



泮池(はんち)の鯉
幅7m、長さ80mを超える長方形の池



男性が鯉の名前を呼ぶと一匹の鯉が側により撫でられるところ(吃驚)



最期に「閑谷学校」同窓含め関係者(私が知っている人のみ掲載)

女優 藤真利子の父とは知らなかった


















撮影 令和2年10月2日
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