今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

旧 閑谷学校 その1(岡山県備前市閑谷)

2021年01月24日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年10月2日

特別史跡 旧閑谷(しずたに)学校 その1
歴史など詳細は分かってはいないが、一度訪れてみたいと思っていた
車から気になる案内板が目に入ってきたので止めて確認した

旧閑谷学校 石門
石門は18世紀初めの建築で、主要施設から約1km離れた所にある



現在は1m余りしか見えていないが、江戸時代には約3.3mの高さであった



主要施設にある駐車場についた



「案内板」は文字数が多くその場ではあまり読む気にならない



「手水舎」



この門から入り右手に受付所がある



門の正面奥に見えているのは「閑谷神社」
受付の方のアドバイスで最初に資料館で知識を身につけた方がいいとのこと



講堂と小斎



石塀と石垣の間を通り資料館へ向かう



閑谷学校資料館(登録有形文化財)



「薇山西先生顕彰碑」



閑谷学校校長を20年あまりつとめて岡山県の文教に貢献した



館内の様子



講堂の模型






閑谷学校は、江戸時代前期に岡山藩によって開かれた庶民のための学校
資料によると「世界最古の庶民のための公立学校」

① 岡山藩主 池田光政は重臣 津田永忠の案内で閑谷を訪れ
  この地に庶民教育のための学校を建てるよう命じる



② 津田永忠は学校の建設に努め、元禄14年(1701年)に完成した



③ 講堂では四書(大学・中庸・論語・孟子)の講義が行われた



④ 習芸斎では五経(易経・詩経・書経・春秋・礼記)の講義が行われた



⑤ 習字所では習字や読書の授業が行われた



⑥ 池田光政は延宝元年(1673年)に初めて閑谷学校を視察
  歴代藩主も度々訪れている



⑦ 聖廟には孔子の像が祀られ、釈菜と呼ばれる祭りが行われた



⑧ 池田光政が亡くなると津田永忠は閑谷神社を建て、椿山墓所を造った



⑨ 寄宿舎での生活



⑩ 黄葉亭(茶室)では全国各地から訪れる客人の応接に用いられた



中学校時代に通った校舎の風景に似ていて懐かしい



資料館では民法で放映された番組が流れていて、これがとても参考になる



石塀(重要文化財)
学校全体を取り囲む765mにも及ぶ石塀。独特の景観を生み出している



かまぼこ型の「石塀」は昔から草が生えない工夫がされているという



文庫(重要文化財)



閑谷学校の教科書・参考書をおさめた書庫



漆喰塗で固めた上を瓦葺きにした置屋根式
前室には三重の土の戸を含む六層の戸が設けられている



飲室門(重要文化財)



日通いの生徒や、朱文公学規講釈に出席する聴講者が出入りする通用門



小斎(重要文化財)
屋根はこけら葺きで簡素な数寄屋風に作られている



藩主が臨学の際に使用する、御成の間



現存する建造物の中では、最も古い姿を残している



講堂内部(国宝)
修学旅行生の講義が始まるとうことで取り急ぎ講堂内を撮影することになった






光り輝いている床は、屋根に使われている備前焼の瓦プラスある工夫のおかげで、週に一回の清掃で維持できているという



「克明徳」の額
三字額の【克】は、力を尽くして事を成し遂げる
    【明】は、物を正しく見る力
    【徳】は、善や正義をわきまえる高潔な品性と解釈されている



次回に続く

撮影 令和2年10月2日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長濱蒸溜所<長濱浪漫ビール>(滋賀県長浜市朝日町)

2020年12月15日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年9月27日

長濱蒸溜所<長濱浪漫ビール>
ある日突然「AMAHAGAN(アマハガン)」という銘柄のウイスキーをYouTubeで知った
2016年11月に稼働した日本最小クラスの蒸溜所で造られている



その蒸留所が、私がよく訪れる琵琶湖周辺にあることを知り、訪れてみることにした
豊公園駐車場(約380台. 3時間以内無料)から200mの所にあるが、方向音痴の私は800m程歩いた



「長濱浪漫ビール」とあるが「長濱蒸留所」の文字はない
少し緊張して店内に入る



店内に入ると正面奥に「長濱蒸留所」の文字が見える
ポットスチルが3基、本当に小さい



「醸造所」では洗浄作業を行っていた



この狭い空間でレストランの店員とウイスキーとビール造りの職人が動き回っている
見学も撮影も自由ですと言われたが迷惑にならないようにするのが難しい



醸造所前に置かれている樽



2階にも機械が置かれている



この蒸留所で造られ販売されているウイスキーが棚に並んでいる
ワールド・ウイスキー・アワード2020に長濱蒸溜所では5つのボトルを出品
【ジャパニーズ ブレンデッドモルト ノンエイジ部門】
AMAHAGAN World Malt Edition No.3 / カテゴリーウィナー
AMAHAGAN World Malt Edition No.2 / 金賞
AMAHAGAN World Malt Edition No.1 / 銅賞
【ジャパニーズ ニューメイク部門】
長濱ニューメイク59度 ピーテッド / 金賞
長濱ニューメイク59度 ノンピート / 銀賞

私も棚の上段に置かれている小さな樽に入っているウイスキーを自分の手で瓶に入れ購入した



レジのショーケースからも一つ選んで購入した



蒸留所の向かいに専用駐車場があり、記念に一枚



駐車場の車に戻ってきた
購入したウイスキーを箱から出す
「AMAHAGAN(アマハガン)」という銘柄
反対から読むと「NAGAHAMA(長濱)」になる



樽から瓶に自分で注入した後に自分の名前を書いてラベルを貼る
世界でただ一つのウイスキーということになる (500ml 59度 6,000円)
開栓すると華やかな香りが車内に漂った(匂いで酔える)



琵琶湖の風景の箱に入っているのは、50mlミニボトル5本組
北海道ではなかなか見かけることが少ないフルボトルだが、私はイトーヨーカドーで購入した



駐車場に戻る途中にある「旧長浜駅舎鉄道資料館」



仮装した賑やかな集団はボランティアで清掃活動をしている



「水陸両用観光バス」が通る。恐怖感はあるが乗ってみたいと思った



駐車場内にある「長浜城」



撮影 令和2年9月27日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キトラ古墳(奈良県高市郡明日香村)

2020年11月26日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年9月23日

キトラ古墳
LINE仲間(悪巧みの会)に高松塚古墳にいると知らせると「キトラは…」という返信があった
キトラ古墳はこの日の予定になかったが、今後の(酒を飲むという)付き合いのために行かねばならぬと思った

キトラ古墳壁画体験館 四神の館
キトラ古墳に行くにはこの施設内を通らなければならない



漫画家 里中満智子さんはNHKの歴史番組ではよく顔をみる



初めて訪れる場所で勝手が分からず受付所に行く。親切な女性が対応してくれ明日香村の資料もどうぞと渡された
展示室も無料と聞いて気持ちが動いた。昔から親切な女性と無料と言う言葉には弱い



展示内容について紹介していく

キトラ古墳とは



キトラ古墳の断面



石室
全体



正面



左側面



右側面






獣頭人身十二支像



四神像



石室天文図






「キトラ」という名前の由来



高松塚古墳とキトラ古墳の比較を繰り返し大型テレビジョンで放映している



とても理解しやすい内容でぼんやりした爺の頭にもスッと入ってくる
ただ残念なのは出て行くのも早いということだ



私のLINE仲間の一人は、このキトラ古墳の天文図をモチーフにした絵を描いている



LINEで高松塚古墳にいると知らせると「キトラは…」という返信があった人物である
その絵は最後に紹介する



キトラ古墳 調査・研究の歩み









初めて目で観察したときのイメージ






その後の流れが説明されている


















見学は一方通行となっている
丁寧に説明文を読み、動画をみていくとなると1時間はかかる



さて、掲載した天文図をみて私の仲間はどのような絵を描いたのか……



タイトル「きこえる」 2017年 第103回 光風会展、第92回 北海道展出品
作者 武石 英孝



この作品が好きだったこともあり尋ねると、背景がキトラ古墳天文図だと話してくれた
彼は2020年 日展 第2科 洋画 応募点数1663のなか「history」で特選(10名)を受賞した



絵に興味のある方は下記の絵をクリックしてください
2018年「命の脈動 武石英孝展」その1~6

命の脈動 武石英孝 展  その1(市立小樽美術館:北海道小樽市色内1丁目) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

「命の脈動」武石英孝展1ヶ月前に、「武石氏日展入選のお祝い」と称して、いつもの仲間で酒を飲んだその時、絵の写真を撮ってブログで紹介してほしい...

命の脈動 武石英孝 展  その1(市立小樽美術館:北海道小樽市色内1丁目) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

 


2020年「武石英孝展」

武石英孝展(北海道岩見沢市7条西1丁目7番地) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

武石英孝展岩見沢市絵画ホール・松島正幸記念館2階展示室(岩見沢市7条西1丁目7番地電話0126-23-8700)開催期間/2020年7月24...

武石英孝展(北海道岩見沢市7条西1丁目7番地) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

 


「四神の館」から外に出てキトラ古墳を目指す






円墳の姿が見えてきた



案内板



特別史跡 キトラ古墳



二段築成の円墳である
上段が直径9.4m、高さ2.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さ90cm






「四神の館」で休憩し、お土産を購入し駐車場に戻る



撮影 令和2年9月23日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高松塚古墳・鬼の雪隠・猿石・酒船石(奈良県高市郡明日香村)

2020年11月25日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年9月23日

特別史跡 高松塚古墳
学生時代に極彩色の壁画が発見されたことを鮮明に覚えている
世紀の発見と報道されていたため、いつか見てみたいと思っていた



46歳の頃だと思うが三重県に出張になり、空いた時間を利用して訪れたのが最初だ



飛鳥駅に着いたのが閉館30分前
ミッション・イン・ポッシブルのトムクルーズのように走り高松塚古墳を目指した



15分前に現在の壁画館に到着、石棺の中の「女子群像」を見た時には心底感動した(本物と思っていた)
数分後、何か変だと思い係の人に尋ねると古墳は外にあると教えてくれた



こんもりと盛り上がった所が古墳で、その時はブルーシートで全体が覆われていた
その後は退職した年に訪れ、今回が3回目になる



今は遊歩道もでき、近くから見ることができるようになった



この場に立つと、初めて訪れた時のことを思い出す



ここも最初は無料だった記憶がある



有料施設としては展示物が少なすぎる感は否めないし、撮影禁止も理解できない




鬼の雪隠
国営飛鳥歴史公園館で展示物を見た後に休憩、外に出ると「鬼の雪隠」の案内があった
「石舞台古墳」に感動したことがあるので行ってみようと思った



普段歩くという習慣がないので、少しの距離でも随分歩いた気がする



言い伝えによると、風の森と呼ばれるこの地方に鬼が棲んでおり、通行人を騙してとらえ食べたと云われている
「俎」で調理し、「雪隠」で用を足したという



昔は穴を掘り、その両脇に板を置き便所として使っていたことを思い出した



近くに「鬼の俎」があるようだが、行って見たいという気持ちがなくなった



周辺の田園風景



駐車場に戻る途中「猿石」の案内があった
地元の人に尋ねるとすぐ近くにあるという

吉備姫王の墓(猿石)
地元の人の話によると「吉備姫王(きびひめのみこと)の墓」の近くにあると
周辺を探しても見つけることができない
諦めて「吉備姫王の墓」でも見るかと案内板を読むと、そこに答えがあった



案内板は墓の裏側にある。横道を通って歩いて行く



桜井皇子(欽明天皇の皇子)の王女
茅渟王の妃となり、宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)・軽王(孝徳天皇)を儲けた



墓域内に猿石があるというので探す



すぐに猿石が見つかった
こんな所に捕らえられていた(笑)



柵の隙間からレンズを突っ込み撮る



調べてみると、猿ではなく渡来人を象った人面石像であるといわれている(右側2体)



確かに人間にも見える(左側2体)










欽明天皇陵
吉備姫王の墓の向かいに29代天皇となる「欽明天皇陵」がある



百済の聖明王から仏像、仏典を献じられ、信ずべきか否かを群臣にたずね
蘇我氏(受け入れ)と物部氏(反対)と対立(古代の宗教戦争)した時代の天皇である










史跡 酒船石(さかふねいし)






江戸時代から多くの仮説が唱えられている
酒を造る設備、薬などを造るための設備、庭園の施設とも諸説あるが定かではない






撮影 令和2年9月23日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧和歌山県会議事堂(和歌山県岩出市根来)

2020年11月17日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年9月21日

旧和歌山県会議事堂(重要文化財)
和歌山城の東側に明治31年(1898)に建設された和歌山県会(現県議会)の議事堂
道の駅「ねごろ歴史の丘」の近くに移築復元された



現存する唯一の和風意匠の府県会議事堂で、平成29年に国の重要文化財に指定された



車寄せ
正面車寄せには華麗な彫刻が施され県会議事堂の正面玄関を引き締めている



写真上 兎の毛通し「鳳凰」 中央 笈形「波」 下 蟇股「雲」
これら彫刻群は棟札にある彫工「大窪嘉輔」の手になるものとみられる



議場
間口18m 奥行23m 高さ6m 正面奥に唐破風付き「床の間」






唐破風付き「床の間」



上部には唐破風が設けられ、鬼板をはじめ、鶴や亀をあしらった彫刻で飾る
写真上 「鬼板」 中央 笈形「亀」 下 蟇股「鶴」



中央 笈形「亀」 下 蟇股「鶴」を拡大



「議場の天井」
中央部を折上格天井、周囲を鏡天井とした構成



折上格天井の天井板は、杉の杢目板



一つの格間を一枚張りとした贅沢な木取り
前後左右で木目の向きを変え、市松模様になっている



議場の模型から当時の議会の様子が分かる



「書記室」



「議長室」



夏目漱石の和歌山講演
明治44年(1911年)に和歌山を訪れ、県会議事堂で有名な講演「現代日本の開化」を行った



和歌山を講演先にした理由や宿泊先の変更、和歌浦への触れ方などは、小説『行人』で描かれている



「濱口梧陵翁之像」
和歌山県会は明治12年(1879年)5月5日、第1回通常会を開会した
初代議長は濱口儀兵衛(梧陵)であった



「議員休憩室」






道の駅「ねごろ歴史の丘」周辺散策マップを参考に立ち寄った



撮影 令和2年9月21日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千畳敷 (和歌山県西牟婁郡白浜町)

2020年11月11日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年9月19日

名勝 千畳敷
「三段壁」から数分の場所にある
土曜日ということもあり、家族連れやカップルなどの姿も多い



南紀白浜の「千畳敷」は、その名の通り岩の畳を千枚敷いたような大きな岩盤を指す
新第三紀層の砂岩からなる、太平洋に面したスロープ状の岩盤である



空を見上げると近くの飛行場から旅客機が飛び去っていく



足元を見ると変わった形の岩がある
砂岩は非常に柔らかいため、打ち寄せる波の浸食を受け、複雑な地形を形成している



砂岩は柔らかく、硬貨などで簡単に削れるため落書き被害が多いようだ
「都市公園の損壊行為は10万円以下の罰金」との注意を促す看板があった



観光客の多くは波打ち際に向かって歩いて行ったり、高い岩の上を上ったりしている



釣り人の姿も
大物が潜んでいるような感じがする



白波が千畳敷にぶつかって、水しぶきを上げる様子も美しい



海が荒れている時や波浪注意報・警報が発令されている時などは千畳敷の上を散策することは出来ない



一番大きな岩盤を背景に多くの観光客が記念写真を撮っている






洋菓子の「ミルフィーユ」を連想させる



駐車場に戻るのにも好きな岩を選んで歩く楽しみもある



駐車場からの眺望



「景勝地もいいな」と思っていたが、今回の旅ではこの先訪れることはなかった



撮影 令和2年9月19日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三段壁(和歌山県西牟婁郡白浜町三段)

2020年11月10日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年9月19日

名勝 三段壁(さんだんべき)
魚の群れ(鯨との説もある)を見つけるための監視場(見段・みだん)が転じて三段壁と呼ばれる様になった
長さ2km、高さ50m - 60mに及ぶ柱状節理の大岩壁で、断崖絶壁の名勝として知られている



1950年 許されぬ結婚と病苦から岩に「白浜の海は、今日も荒れてゐる」と口紅で書き遺し、若い男女が青い海に身を投じた
「口紅の碑」は二人の思いが成就するようにと、友人が翌年同日に岩に刻みこんだといわれている



2016年4月には、プロポーズにふさわしいロマンチックな場所として「恋人の聖地」に認定されている






平安時代、源平合戦で知られる熊野水軍が船を隠したという伝説が残る洞窟の入口
「観る価値はある?」と尋ねると返答に困った様子。受付に行くと入場料が何と1,300円と高い
受付が女性でなかったらやめていた(笑)



洞窟は地底36m エレベーターで下りる(24秒)
写真入りで洞窟内について簡単に説明してある



エレベーターの扉が開くと目の前に熊野水軍の模型がある



予備知識もなく、由来について熟読



「案内図」
200mに及ぶ洞窟の通路内には、史料に基づいて再現された番所小屋や弁財天、瀬戸鉛山鉱山採掘場跡があり、波の打ち寄せる洞穴が鑑賞できる



写真では音を感じることはできないが、激しい波の音が洞窟内に響き渡っている



「漣痕(リップル)」



約1,600万年前に波や潮流によって海底の砂や泥が動かされ、地層の表面に作られたものを漣痕(リップル)という



漣痕が次々と積み重なり地層の中に保存された天井岩盤は一見の価値がある






先に進む



地底36mから唯一外の景色が撮れる場所である






「十像岩」









先に進む



宗教的な雰囲気を感じる



秘湯「湧泉洞」 湧出しているのは温泉



「牟婁大辯才天(むろだいべんざいてん)」



大黒天、毘沙門天に十六童子を従えどのような願いも叶えるといわれている






牟婁大辯才天は、水の神「神社仏閣の守護神」ともいわれている



先に進む



「瀬戸鉛山(せとかなやま)鉱山跡」



「熊野水軍軍船図」






熊野水軍は源氏と平家の時代、紀伊半島南東部、熊野灘、枯木灘に面した地域を拠点とした水軍
熊野海賊ともいわれている
瀬戸内海の制海権を握り、平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱(源平合戦)で活躍した事で知られている



「熊野水軍番所小屋」
三段壁洞窟は勇猛果敢をうたわれた熊野水軍の舟隠し場






舟隠し場の出入口






「潮吹き岩の由来」



波の音と潮吹きの瞬間は動画の方がいいと思ったがスマホを車に置き忘れた



右目で波を待ち、潮吹きの瞬間を待つ
失敗を繰り返しながら瞬間を撮る。楽しい時間であった



エレベーターで上がり周辺を散策する
朝から天気が良く気持ちがいい



「南壁先端の柱状節理」



「北壁」



撮影 令和2年9月19日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

潮岬灯台・トルコ軍艦遭難慰霊碑他(和歌山県)

2020年11月09日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年9月18日

潮岬灯台(和歌山県東牟婁郡串本町潮岬)
数カ所の灯台巡りをしているが、駐車料金と入場料(参観寄付金)を請求されたのは初めてである



明治6年の初点灯以来、100余年もの間、海上交通の要所として沖行く船を照らし続ける30mの断崖に建つ白亜の灯台



幕末の慶応2年(1866年)米・英・仏・蘭の4か国と結んだ「改税条約(江戸条約)」によって建設することを約束した8か所の灯台の1つ
他の7カ所は観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、剱埼、伊王島、佐多岬



この灯台は高さ20mの灯塔まで68段の石造りのらせん階段等を利用して上ることができる



最後は狭くて急な梯子を上る



灯塔からは、眼下には太平洋の大海原が広がる



本州最南端の風景である



「痩せなければダメだな」と思うほど下りの階段は狭い



「資料展示室」



「鳥瞰図」を見て「串本と大島」の関係が分かった



「2代目潮岬灯台レンズ (第2等フレネル不動レンズ) 」



光源はハロゲン電球を使用し、光達距離は19海里(約35km)となっている



日本の灯台50選に選ばれ、2018年には「恋する灯台」の認定を受けている



潮御崎神社
社号標「潮御崎神社(しおのみさきじんじゃ)」



「鳥居」



「拝殿」



主祭神:少彦名命(スクナヒコナノミコト)
景行天皇28年(98年)御崎の「静之窟」内に少彦名命を勧請したのが潮御崎神社の創始となる



寛永14(1637)年の古文書によると
18ヵ浦の鰹漁の船主・船頭が潮御崎神社に集り、神官の立会で「鰹漁に関する約束ごと」を戦前まで行なわれた



「鎮守社(高皇産霊尊)社殿」



「境内社(神名不明、大己貴命、天照大神)」



灯台横まで戻る



有料駐車場



くしもと大橋
串本本土と大島をつなぐ架橋で平成11年9月8日に開通した



大島側の橋の傍にある「ポケットパーク」に駐車し橋を眺める



290mのアーチ橋(写真)と苗我島に架かる386mのループ橋からなる



以前は大島港と串本港を巡航船が行き来していたが、橋の完成とともに巡航船は廃止された



トルコ軍艦遭難慰霊碑(和歌山県東牟婁郡串本町樫野)
明治23年(1890年)9月16日、大島樫野崎の沖合でトルコ軍艦エルトゥールル号が嵐の中遭難
乗組員656名のうち587名が還らぬ人となった
異国の海に散った将士たちの霊を慰めるために建設された



19世紀末、ヨーロッパ列強との不平等条約に苦しんでいたオスマン・トルコ帝国は、明治維新後同様の立場にあった日本に親善使節団の派遣を計画した
親善使節団の特使には、エミン・オスマン海軍少将が任命され、使節団座乗艦としてフリゲート艦エルトゥールル号が選ばれた



明治22年7月14日、エルトゥールル号は、スエズ運河を抜け、途中各地のイスラム教国に教主国として寄港、明治23年6月7日に横浜港に到着した
明治天皇に謁見し、両国の修好という皇帝の意を天皇に伝え、明治天皇は、使節に勲章を授けた



明治23年9月15日、横浜港を出港、帰国の途についた
翌日、エルトゥールル号は串本町大島樫野崎沖を航海していたが、同海域において台風に遭遇、猛烈な波浪と強風のために航行の自由を失う
次第に樫野崎に寄せられ、古より船乗りたちに恐れたれてた船甲羅岩礁に激突
船体破損部から流入した海水が機関の爆発を引き起こし、オスマン海軍少将以下587名が殉職、生存者わずかに69名という大海難事故になった



この遭難に際し、当時の大島島民は不眠不休で生存者の救助、介護、また殉難者の遺体捜索、引き上げにあたった
日本全国からも多くの義金、物資が遭難将士のために寄せられた
69名の生存者は神戸で治療を受けた後、同年10月5日、日本海軍の軍艦により帰国の途につき、トルコ国民の心からの感謝に迎えられた



「私たちはエルトゥールル号の借りを返しただけです」
イラン・イラク戦争が続いていた1985年3月17日、イラクのフセイン大統領が「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」という声明を発表
イランに住んでいた日本人は、慌てて首都テヘランの空港に向かい出国を試みたが、どの飛行機も満席で搭乗することができなかった
世界各国は自国民を救出するために救援機を出したが、日本からの救援機の派遣は、航行の安全が確保できないとの理由から見送られた
そんな時、救いの手を差し伸べてくれたのがトルコ共和国から駆けつけた救援機2機。日本人215名全員がイランを脱出することに成功した
タイムリミットのわずか1時間前のことだったという



日本・トルコ合作映画「海難1890」は安倍首相とエルドアン大統領の後押しがあり、国家級のプロジェクト規模に膨らんだ

トルコ記念館
トルコ国との友好の証としてトルコ軍艦遭難慰霊碑の近くに建設された



遭難したエルトゥールル号の模型や遺品、写真などが展示されており、遭難事故当時の様子を知ることができる



樫野崎灯台(和歌山県東牟婁郡串本町樫野)
大島の東端にある樫野の断崖に立つ日本最古の石造り灯台






現在は自動点灯の無人灯台(高さ10.20m)



光度53万カンデラ、光達距離18.5海里(約35km)



らせん階段を上がる。灯塔からの眺望



エルトゥールル号の遭難とその後のトルコとの友好関係について興味を持っていたので、この場に立つことができて良かった



撮影 令和2年9月18日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋杭岩(和歌山県東牟婁郡串本町)

2020年11月07日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年9月18日

名勝 天然記念物 橋杭岩(はしぐいいわ)
国道42号を走り赤信号で止まっていると、左手に変わった形の岩が見えた
観光で訪れる場所の幅を広げようと考えていたので、立ち寄ることにした



この道路を通行するのは4回目になる。運転席から見える景色で気になっていた場所があったが……
それがここだったとは思わなかった(この日は干潮だったためか)



幼い頃から海の近くで生活してきたので潮の香りや波の音は心地よい
就職した場所もオホーツク海、太平洋、日本海と海の近くばかりだった



本州最南端の道の駅「くしもと橋杭岩」
道の駅とは知らずに車を駐めていた
利用した道の駅では買い物をするように心がけている



「案内板」
橋杭岩の成り立ちについて科学的に説明されている



「橋杭の立岩伝説」
伝説には夢があり面白い

昔弘法大師が天の邪鬼と串本から沖合いの島まで橋をかけることが出来るか否かの賭けを行った



弘法大師が橋の杭をほとんど作り終えたところで天の邪鬼はこのままでは賭けに負けてしまうと思い
ニワトリの鳴きまねをして弘法大師にもう朝が来たと勘違いさせた
弘法大師は諦めて作りかけでその場を去った
そのため橋の杭のみが残ったという



「橋杭岩」
吉野熊野国立公園に属している
串本から大島に向かい、海中に約850mの列を成して大小40余りの岩柱がそそり立っている
その規則的な並び方が橋の杭に似ていることからこの名が付いた



1500万年前の火成活動により、泥岩層の間に流紋岩が貫入
貫入後、差別侵食により、柔らかい泥岩部が速く侵食され、硬い石英斑岩が杭状に残されたものである



橋杭岩に転がっている岩の中には、岩のそそり立つところからかなり遠くにまで転がっているものがある



これらの岩は宝永地震で起こった大きな津波によってそこまで転がったのではないかという調査結果が出ている



小学生の遠足か宿泊学習か分からないが、子供達が歩き回っている



やはり男子児童は元気が良く、いつの間にか遠くある岩の上にに立っている



私はといえば、ひょいひょい岩を跳び回ることができず……



とぼとぼ岸辺を歩き写真を撮っていた



気温も上昇し空が明るくなってきた。雨の心配もなさそうだ



駐車場脇に咲く赤い花



「くしもと大橋」
平成11年9月に開通した、串本本土と大島をつなぐ架橋



撮影 令和2年9月18日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白河関跡(福島県白河市旗宿白河内)

2020年03月23日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年11月7日

史跡 白河関跡
「白河の関」の名は時々耳にすることがあり、ずっと興味を持っていたが訪れたのは初めてである
ナビによると「らしき場所」に到着したはずなのだが想像していたものとは随分違っていた
「白河関の森公園」の駐車場に車を駐め彷徨ってこの場所に着いた



白河の関は、鼠ヶ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに、奥州三関の一つに数えられる関所
都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門として名高い



設置時期も明らかではなく、関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた






古関蹟(こかんせき)の碑
白河藩主松平定信が寛政12年(1800年)8月、「ここが白河関跡である」であることを断定し、建立した碑



松平定信は文献による考証を行い、その結果、「白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡である」と論じた



白河神社

狛犬






手水舎



鳥居前参道にある。凄いとしかいいようのない木。芸術的だ



鳥居



拝殿
135年、白河国造命と天大玉命を奉納し勅命により鎮座






社殿は仙台藩主伊達政宗が奉納したものと伝えられている






古歌碑



「白河関」に題材をとる平安時代の著名な和歌三首を歌碑とした






西山(せいざん)国師遺跡霊場
浄土宗西山三派の祖で、法然の高弟である証空(西山国師あるいは西山上人ともいう)ゆかりの寺社を巡る霊場巡拝である



中世の遺構
中世には、丘陵全体が居館として使用され、敵の侵入を防ぐために造られた土塁や空堀で囲まれた範囲に主郭が存在した

「土塁跡」敵の攻撃や侵入を防ぐため、曲輪の縁に土を盛って築いた堤上の防御施設



「空堀跡」敵の侵入を防ぐため、曲輪に沿って掘られた防御施設



関跡を散策する



従二位の杉
鎌倉初期の歌人で「新古今和歌集」の撰者の一人である藤原家隆が手植えし奉納したと伝えられている



樹齢約800年と推定される巨木



旗立の桜
治承4年(1180年)源義経が平家追討のため平泉を発し、この神社に戦勝祈願をするため旗揃えをした際に、この桜に源氏の旗を立てたと伝えられている



ただの桜の木だが、源義経にまつわる伝説が残される木だと知ると価値が変わって見える









芭蕉と曽良









白河関の森公園









撮影 令和元年11月7日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日光東照宮・日光田母沢御用邸(栃木県日光市)

2020年03月09日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年11月3日
昨夜は2年毎に開催している学生時代の同期会をプレ五輪と称して東京で開催
2日目は道路の渋滞が予想されるため電車で日光に移動した

日光東照宮
この選択は大正解で車なら身動きがとれなくなっていた
東武日光駅から循環バスを利用し東照宮へ向かう予定だったが、渋滞のため徒歩の方が早いと判断し昔話をしながら歩く

疲労しかけたことに目的地に到着したが、この観光客の賑わいぶりには正直驚いた



この重要文化財の五重塔を撮るために前年に訪れたが、この日はこの一枚だけ



「三猿」の建物付近もこのような状態



少しズルをしながら三猿に近づく



陽明門前の入口側通路は特に混雑していて、階段付近は注意が必要なほどだ



反対側からも



立ち止まって、ゆっくり写真を撮るなどとてもできない状態だった






流れに逆らって堂々と歩いているのが私の仲間の二人だ。



自分の意思ではなく、人の流れにのみ込まれて歩いている状態だったので、すぐ戻ることにした
拝観券売り場には長蛇の列。日光東照宮単独拝観券1,300円×○○万人=…… と計算してしまう



昼食後、旅館へ向かって歩いている途中に「金谷ホテル歴史館」があった



日本初の西洋式リゾートホテル「金谷ホテル」
その歴史を今日も形として残している「金谷侍屋敷」
日本人特有の外国人へのおもてなしの原点がここにあるという



日光田母沢御用邸記念公園
数分歩くと、大きな門が見えてきた。栃木県立の都市公園(歴史公園)である。ここに寄るらしい



元は皇太子時代の大正天皇の静養所として造営された旧御用邸の建物と庭園を公園として整備し一般公開している



病弱であった皇太子の避暑地向けの静養先



明治期以降に数多く造られた御用邸建築のうち、全体がほぼ完存する唯一の例として貴重であり、建造物群は国の重要文化財に指定されている






表御食堂(重要文化財)
赤坂離宮から移築。明治時代の建物



床は檜の柾目寄木張りで90年経った現在でも狂いのない「匠の技」がいきている



御玉突所(ビリヤード室)



障子紙の貼り方も皇室では違うと説明を受けた



謁見所(重要文化財)
大正時代増築部






このような便器も初めて見た












劔璽(けんじ)の間
皇位継承の象徴である天叢雲剣の複製と、八尺瓊勾玉の安置するための3畳の小部屋である
劔璽は、天皇の1泊以上の行幸にはともにする習わしである。剣と勾玉の安置所には繧繝縁(うんげんべり)の畳が置かれている



御寝室
天皇の寝室。旧紀州徳川家中屋敷部分の2階にある。御座所、御学問所と異なり、畳敷きである
また、この部屋のみ電灯を用いず燭台を置く






御座所(重要文化財)
大正天皇の執務室・居間。赤坂離宮から移築した旧紀州徳川家中屋敷部分の1階にある
床(とこ)・棚を設けた和室だが、床(ゆか)にはじゅうたんを敷き、天井からはシャンデリアを吊るした和洋折衷形式になる
この部屋と御学問所、謁見所のじゅうたんは20色のアキスミンスター織である






撮影 令和元年11月3日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧海軍兵学校跡地(広島県江田島市江田島町国有無番地)

2020年02月22日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年6月12日
「令和元年春の旅」もこの日が最終日。「江田島の海軍兵学校」は、一度訪れてみたかった場所だった
道の駅「スパ羅漢」を早めに出発し、何とか1回目の見学時間に間に合った

旧海軍兵学校跡地(海上自衛隊第1術科学校)
「校内見学」に来たことを告げ駐車場に車を駐める
受付を終えると待機場所を移動するように指示される



江田島クラブ
前方に見える建物が見学者の待合所になる。売店や食事処もある



護衛艦「びえい」の主錨






大講堂
昭和35年から広報の一環として校内見学を実施しており、年間約7万人が来訪する
海軍兵学校は、1876年(明治9年)から1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終戦まで存続



大日本帝国海軍の将校たる士官の養成を目的とした教育機関である
英国の「王立海軍兵学校」、米国の「合衆国海軍兵学校」とともに、世界三大士官学校の一つにも数えられ、総計1万2433名の卒業生を出している



海上自衛隊の教育機関のため、案内人の指示に従うことが見学の原則
自由見学や自由行動はできず、場所は指定された場所のみ



山の名前は忘れたが、山頂まで登り走って帰ってくる訓練もあるようだ






大講堂内入る。平日にもかかわらず10代の若者の姿が目につく



入学式や卒業式が行われる場所



成績優秀者のみが帯刀を許され、中央の赤い絨毯の上を歩き卒業証書を授与できるという名誉を与えられた



来賓席



天井の照明



「操舵手」が操作する輪状の操作部を模したデザインのようだ






大講堂の横に煉瓦の建物がある



海上自衛隊「幹部候補生学校」
兵学校においては、常に同期生間の席次を意識させ、席次を競わせる方針が徹底しており、自習室の机の順番・寝室のベッドの順番に至るまで、全てが席次の順であった
この席次を「ハンモックナンバー」と呼んだ。海軍兵科将校は、兵学校卒業席次を基礎とする同期生間の先任順位(ハンモックナンバー)の順に進級した



明治26年に完成した当時の生徒館、現在は幹部候補生学校庁舎として使用されている
英国人の設計でレンガもイギリス製。一個一個、油紙に包まれて輸入されたという



横に長い建物で144.8m。当時の駆逐艦と同じ長さで、陸上にいる間から船での生活に慣れるためにこの長さにしたと言われている
説明によると、「防衛大学卒業者」のみが約1年間、この施設で基礎知識を習得している



約140mの長い廊下






日の丸の国旗が風になびく



学生館



一般大学卒業者、自衛隊勤務部内選抜組み等が学ぶ場所になる



戦艦「陸奥」砲塔



戦艦陸奥に搭載されていた実際の砲塔。隣にあるのが砲術講堂と呼ばれる当時の講堂室



軍艦「大和」主砲砲弾



特殊潜航艇
昭和16年、ハワイ真珠湾太平洋艦隊の攻撃に参加した5隻のうちの1隻






昭和35年米国により引き揚げられ、翌年、日本に持ち帰られた



奥にももう1隻あったが立ち入り禁止のため詳細は不明



日英同盟百周年記念植樹



教育参考館
これまで旅を始めて広島・長崎・沖縄の戦争に関する資料館、鹿児島県知覧の特攻記念館や靖国神社遊就館の遺書に感動したことをブログに書くと……
読者の方から「江田島」が残っていると言われた。そのことがずっと頭にあり、今回ここを訪れることになった
教育参考館に貯蔵されている約4万点の資料から、終戦時に貴重な資料を約1万点を選出し、広島県の厳島神社と愛媛県の大山祇神社に奉納(後に戻された)



教育参考館には16000点近くの資料を保存しており、その中から約1000点を選んで展示している
海軍兵学校の職員と学生が先人の偉業を偲び、過去を振り返ることで自己鍛錬と学術を深める目的で作られた場所である
見学時間は30分程度、目的だった「海軍特別攻撃隊の遺書」は最後の方に展示されていて、時間不足で悔いが残った



多くの戦艦が停泊していた呉は大空襲の被害に遭い絶大な被害を受けたが、この海軍兵学校に関しては空襲禁止区域になっていたという
歴史が浅い日本海軍が世界最強と謳われたバルチック艦隊を日露戦争で破ったのは不思議な出来事で、軍艦の質より、軍人の質が注目され、この海軍兵学校の存在が気になったらしい



海軍兵学校の教えとして有名な「五省(ごせい)」は松下元校長が考案したもので、兵学校の精神を代表するものとして名高い
一、至誠悖もとる勿かりしか<真心に反する点はなかったか>
一、言行に恥はづる勿かりしか<言動に恥ずかしい点はなかったか>
一、氣力に缺くる勿かりしか<精神力は十分であったか>
一、努力に憾み勿かりしか<十分に努力したか>
一、不精に亘わたる勿かりしか<最後まで十分に取り組んだか>



全体の見学時間は90分に設定されているが、あっという間でリピーターが多いというのも頷ける



食事処で「海軍カレー」を注文し呉市に向かう



撮影 令和元年6月12日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

錦帯橋(山口県岩国市)

2020年02月19日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年6月11日
昨夜は、大阪府警富田林署に勾留されていた容疑者が逃走し、餅や菓子パン、総菜などを万引したとして、現行犯逮捕された周南市の道の駅「ソレーネ周南」で車中泊
コンビニも併設されている便利な道の駅で私も今回で三度目の利用になる
この日の朝に計画していた場所に向かって走っていたのだが急遽変更して錦帯橋へ

錦帯橋(きんたいきょう)
岩国市の錦川に架橋された木造のアーチ橋で、日本三名橋や日本三大奇橋に数えられている



5連のアーチからなるこの橋の全長は193.3m、幅員は5.0m



主要構造部は継手や仕口といった組木の技術によって、釘は1本も使わずに造られているというから驚く



目の前を美しい女性が歩いていく



橋の上では自撮りをしている女性



錦帯橋は1673年(延宝元年)に、岩国藩主吉川広嘉によって杭州(中国)西湖にある連なった橋からヒントを得て建造された
しかし、翌年の延宝2年(1674年)、洪水によって石の橋脚が壊れ、木橋も落ちてしまった



昭和25年(1950年)の台風で全て流失したため、現在の橋は昭和28年に建造当時のまま復元されたもの



釣りを楽しんでいる人もいる



錦帯橋入橋券(往復のみ)を購入し、歩いてみる



川岸が無料駐車場になっている。愛車のハイエースが小さく見える



山の上には、吉川広家築城の山城「岩国城」が見える
完成からわずか7年後の元和元年(1615年)に幕府の一国一城令により廃城となった



「槍倒(こか)し松」






巌流ゆかりの柳



原作も学生時代夢中になって読んだが、「三船敏郎・八千草薫・鶴田浩二」出演の宮本武蔵は最高だった



対岸からの眺め



ソメイヨシノ開花標準樹
桜の名所として、吉香公園と共に日本さくら名所100選に選定されている



この日は大変暑く、散歩の犬も涼を求めて行水



私も木陰から



吉川広嘉公像



岩国第三代藩主。延宝元年(1673年)、同2年(1674年)と連年錦川に架橋工事を行い、現在の形の錦帯橋を架橋した
特に延宝2年の架橋工事は緻密を極め、橋は以後第二次世界大戦後にキジヤ台風で崩壊・流失するまで一度も流失しなかった



香川家長屋門(山口県指定有形文化財)









書状集箱
現役の郵便ポストとして使用されている






観光客が多くて、なかなか撮れなかったアングル






撮影 令和元年6月11日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

史跡 安国寺集落遺跡公園「弥生のムラ」(大分県国東市国東町安国寺)

2020年02月11日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年6月9日
道の駅「ゆふいん」 この日は温泉地で有名な「由布院」の近くにある道の駅から出発



湯けむりが立つ別府市を経由して、国東半島を目指す一般道を走る



道路の両サイドには緑一色に染まった山があり、その中を快適に走る



あまりの景色の美しさに車を止めカメラを取り出した程だ



史跡 安国寺集落遺跡公園(弥生のムラ)
始めに園内にある有料施設である「資料館」に入る
館内の展示物の全てが撮影禁止ということを事前に伝えられた

屋外は無料となる。復元とはいえ昔の建物が好きなので楽しみだ



美しく広がる敷地の中に「竪穴住居」が見える



平成5年の発掘調査で発見され復元されたと書いている



国東の自然・弥生時代からの歴史・生活・文化を体感できる公園になっている



床面の形が方形と円形のものが復元されている



竪穴住居は床を少し掘り下げ床をつくり、数本の柱を柱穴に立てカヤで屋根を覆った住居
キャンプ用テントの原形だといつも思うのは私だけか……



弥生時代から古墳時代初期にかけての貝塚・集落遺跡で「国の史跡」の指定を受けている



青空がとても綺麗だ
鍬、田下駄等の木製農具や建築部材、柱穴等の遺構、植物の種子等が多数出土したことから、「西の登呂」とも呼ばれた



二重口縁壺に特殊な櫛目模様を付けた土器がみつかり、遺跡名をにちなんで「安国寺式土器」と命名されている



生活は漁撈・狩猟・採集を主体としながら小規模な稲作を行い、国東半島という地理から瀬戸内海から中国・四国地方と海洋交易をしていたと考えられている






復元した建物を見ても昔の人の高い技術力には驚く









撮影 令和元年6月9日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高瀬石仏(大分県大分市大字高瀬)

2020年02月09日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年6月8日

史跡 高瀬石仏
平安時代中期から後期の磨崖仏で、国の史跡に指定されている



案内文は陶器のパネルに。数少ない石窟形式の磨崖仏と記されている



石窟(高さ1.8m、幅4.4m、奥行1.5m)の中に5体の石仏が刻まれている












深沙大将立像(じんじゃだいしょう)
頭髪は赤く彩色された炎髪を逆立て額と胸に髑髏の瓔珞(ようらく)をつけ腹にも童女の顔を描く



左手に蛇を持つ非常に少なく珍しい仏像



玄奘三蔵がインドへ旅した際、砂漠で玄奘を守護したと伝えられることで有名



大威徳明王座像(だいいとくみょうおう)
6つの顔、6本の手、6本の足をつけ牛に跨がる勇ましい姿をしている



怨敵の降伏と衆生を害する怨敵一切の賊を残らず滅ぼしてしまうということで「戦勝祈願」の仏様として信仰が厚かった



日本では、大威徳明王は六面六臂六脚で、神の使いである水牛にまたがっている姿で表現されるのが一般的



胎蔵界大日如来坐像
胎蔵は総ての物を包み蔵すという意



霊山山麓の伽藍迫(がらんさこ)の凝固岩の洞窟の中心



大日如来には知的な面を示す胎蔵界と理的面を示す金剛界があり、大分県での胎蔵界は珍しいという



如意輪観音坐像
如意とは如意宝珠、輪とは法輪の略。全ての願いを叶えてくれるという仏様



如意輪観音像は、坐像または半跏像で、片膝を立てて座る六臂の像が多い。



馬頭観音
頭上に馬頭を戴き、胸前では馬の口を模した「根本馬口印」という印相を示す






洞窟内に彫られているため、保存状態が良く彩色もよく残っている









石窟の石仏以外の部分は荒々しく削られている






撮影 令和元年6月8日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする