今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

弘前城(青森県弘前市下白銀町)

2021年09月17日 | 
訪問日 令和3年6月10日

弘前城<別名:鷹岡城、高岡城>
この日の朝に決めた予定では、弘前城は入っていなかったが、市内を走っているうちに気持ちが変わった



前回は「津軽藩ねぷた村」の駐車所を利用、今回は弘前工業高校周辺の駐車場を利用した
工業高校口の「埋門(うずみもん)跡」から入る(現在位置)



弘前公園内で絵を描いている女性
長閑な風景だ






蓮池



濠の風景も美しい



二の丸南門(重要文化財)
築城時の姿で現存する5棟ある門の一つ









「埋門跡」から目指す天守は近いと聞いていたが、その姿は見えない
またまた方向音痴の本領発揮



伯爵 津軽義孝 篆額



弘前市立博物館



辰巳櫓(重要文化財)
二の丸の現存櫓3棟のうちの一つ






三の丸追手門(重要文化財)



弘前城植物園



杉の大橋
南内門外の大橋。名称は杉材を用いた橋ということから付けられた






未申櫓(重要文化財)









迷ってここまで来たが天守は見えない
疲れたので東屋で休憩し、誰か人が来たら尋ねようと思っていた



園内には明治36年(1903年)以降、桜の植樹が行われ、現在では約2,600本を数える






鷹丘橋
南の端から来たまで歩いてきたようである



遠回りをしたようだが天守は近いと通行人に聞いた
以前、中央高校口から入った時には石垣が多く見ることができたが、今回は初めて目にする石垣となる



石垣が好きな人生の大先輩がいて、城では石垣を探して撮るようにしている



弘前城天守(重要文化財)
工業高校口の「埋門跡」から約1時間(通常10分弱)も要して目的の場所に着いた(笑)



現存12天守に数えられる内の天守1棟



最初の天守は、鷹岡藩2代藩主の津軽信枚により慶長14年(1609年)頃に本丸南西隅に建てられた5重の建物
寛永4年(1627年)9月の落雷で出火し、天守内部に収納されていた火薬に引火して大爆発を起こして本丸御殿や諸櫓とともに焼失した



大爆発して焼失した天守の代用として、本丸南東隅の辰巳櫓の改修を名目として建てられた
往時は幕府への配慮から天守とは見なさず、櫓(御三階櫓)として扱われていた



外側に面する東面と南面は1層目と2層目に大きな切妻出窓を設け、窓には狭間窓を用いている



一方で、内側である西面と北面には破風を全く付けずに連子窓を単調に並べただけ
いわゆる「二方正面」である






城内に入る「石落とし」



駕籠(男乗物)






屋根瓦には寒冷地のため銅瓦を葺いている



弘前城から見える岩木山



桜のトンネル



撮影 令和3年6月10日
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新発田城(新潟県新発田市大手町)

2021年09月02日 | 
訪問日 令和3年6月5日

新発田城
新発田市は、学生時代に寮生活で同室だった朋友の出身地でもあり往時を思い出す
別名、菖蒲城(あやめじょう)
初代新発田藩主溝口秀勝が慶長3年(1598年)に築城し、3代宣直のときに完成した

旧二の丸隅櫓(重要文化財)
駐車場から歩いてくると最初に目に入ってくるのが「旧二の丸隅櫓」



石垣がすき間なくかみ合うようにきちんと積まれる「切込はぎ」と呼ばれる技法
白と黒が美しい海鼠(なまこ)壁で仕上げられている



新発田城は山城と違い、政治・経済の中心として交通の便利さを考え、平地につくった平城



堀部安兵衛武庸(たけつね)像
高田馬場の決闘で名を馳せた、赤穂浪士四十七士の一人が何故と思った
調べてみると、寛文10年(1670年)越後国新発田藩 溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として誕生している
武庸が13歳の時、父は溝口家を追われて浪人となる
浪人については諸説あるが、櫓失火の責を負って藩を追われたという



19歳になった武庸は、江戸へ出て、堀内正春の道場に入門
天性の剣術の才で頭角をあらわし、すぐさま免許皆伝となって堀内道場の四天王と呼ばれた
その後、あの有名な高田馬場の決闘後、赤穂藩へ仕官することとなった



本丸表門(重要文化財)



享保17年(1732年)に再建された現存の櫓門
城内に入る



橋からの眺め



初代藩主・溝口秀勝の銅像
尾張国の出身で慶長3年(1598年)に豊臣秀吉の命により加賀国大聖寺から新発田に入封した
入封当時の藩領は未開墾地だったが、治水と新田開発に努めた結果、美田広がる蒲原平野へと生まれ変わった



上杉景勝と戦って滅びた新発田氏の館跡に築城を開始
入封から56年後の承應3年(1654年)3代宣直の時に完成した






表門の内部に入る






2階に格子窓を設けている



門の真上の床を外して石落しとする構造になっている






櫓の外壁には冬季の積雪への対策の意味もあり、白と黒が美しい海鼠壁(なまこかべ)で仕上げられている






旧二の丸隅櫓(重要文化財)
層塔型2重2階の移築現存の二重櫓
二の丸北部にあったのを本丸鉄砲櫓の跡に移築されたため旧二の丸隅櫓という名称になった



1階



階段



2階



旧本丸跡






辰巳櫓
かつて、堀部安兵衛の父(中山弥次右衛門)が辰巳櫓の管理責任者
櫓の失火責任を負って浪人となった






礎石が展示されていた



城郭跡の大部分は日本軍解体まで陸軍が置かれていたこともあり、現在も陸上自衛隊の駐屯地(新発田駐屯地)となっている



自衛隊の敷地内にある三階櫓の内部は公開されていない



辰巳櫓






この日、新発田市では東京五輪の聖火ランナーの準備に追われていた
数台の警察車両のために主要な駐車場が閉鎖されている
新発田城近くの駐車場が使用できなくなり困っていたら地元の女性に空いている駐車場を案内していただいた
とても親切な女性のおかげでいったん諦めかけていた城を目指すことができた(感謝)



撮影 令和3年6月5日
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伊賀上野城(三重県伊賀市上野丸之内)

2021年06月21日 | 
訪問日 令和3年5月21日

伊賀上野城(白鳳城)
この日も、終日雨予報ということもあり屋内で観光ができる場所を探す
上野公園の駐車場に駐めるといくつかの施設を巡ることができることを知った



いつもはGW後に出発し、梅雨に入ったら帰るという計画なのだが
家庭の事情で出発が遅れ、梅雨が例年より早くきてしまった
公園内の歩道もこのような状態になっている



初めて訪れる城なのでどこに何があるのかもさっぱり分からない
案内表示の通り歩いてみる



「城代屋敷跡」らしいがどのような建物があったのか想像もつかない






「台所門跡」も同じく想像がつかない



小さな石垣から城を眺める



上野台地の北部にある標高184mほどの丘に建てられた平山城である
現在、天守台にある3層3階の天守は昭和初期築の天守



近くに石垣があったので歩いてみる



「高石垣」が有名なようであるがここではなさそうだ



三つの天守閣についての説明があった
1. 筒井定次の城
 天正13年(1585年)に筒井定次が平楽寺・薬師寺のあった台地に伊賀上野城を築いた



2. 藤堂高虎の城
 慶長13年(1608年)徳川家康は、宇和島城主であった藤堂高虎に、22万石を与え国替えさせた
 家康の信任が厚く、築城の名手でもあり、大坂・豊臣方との決戦に備えるための築城であった



3. 現在の天守閣
 現在の復興天守閣は、代議士 川崎 克 が多くの支援者の協力を得ながら私財を投じて藤堂氏の天守台に建てたもの
「伊賀文化産業城」と名付けられた。その優雅な姿から「白鳳城」とも呼ばれている



映画『影武者』(1980年 監督 黒沢明)の舞台ともなった



甲賀と伊賀のみち『街道をゆく』(司馬遼太郎)より
徳川家康が大坂城の豊臣秀頼を攻める計画をたてたとき、万一敗北した場合の手当もしておいた。
その場合、嫡子の秀忠を近江の彦根城まで交代させ、自分はこの伊賀上野城まで後退して、攻撃再開の準備をするつもりだった。
その秘策も藤堂高虎にあかし、高虎をして堅固な城をつくらせた。
高虎は、信頼されたことをよろこび、五層の天守閣という、伊賀のような小国には大きすぎるものをつくった。



高石垣
藤堂高虎が本丸の西に築いた石垣
高さ約30メートルの高石垣は大阪城と並んで日本一の高さを誇っている
もっと良い場所があったのかも知れないが、高所恐怖症なので……



初めて訪れる城なので城内に入ることにした
登閣料は600円



「天守閣」は伊賀市有形文化財に指定されている



城内に入ると藤堂高虎像が迎えてくれる



「兜」も市の文化財



藤堂高虎の兜(三重県指定文化財)
現代でも通用するデザインの「唐冠形兜(とうかんなりかぶと)」
藤堂高虎が豊臣秀吉から拝領した兜で、高虎から藤堂玄蕃良重に与えられたもの









徳川葵御紋入軍扇



最上階



「天井絵巻」
1メートル四方の色紙 最上階の格天井には46枚の書画の色紙がはめ込まれている



天守閣竣成を祝って日本画家の横山大観はじめ著名な画家、書家、政治家などから寄贈されたもの



昭和10年(1935年) 衆議院議員であった川崎克の私財により模擬天守が建設された



撮影 令和3年5月21日
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姫路城<白鷺城>その2(兵庫県姫路市本町)

2021年01月28日 | 
訪問日 令和2年10月3日

世界遺産 姫路城 その2
城外に出た。正直な話し城内では何処を歩いているかも分からなかった



国宝の大天守は外から眺めると5階建てに見えるが、内部の造りは地上6階、地下1階の7階構成になっている
この場所は休憩用のベンチもありゆっくり眺めるには良い場所だ



石垣の形状を眺めながら下に下りて行く
石垣の積み方や加工は、羽柴氏時代は「野面積み」
池田氏時代は「打ち込み接ぎ」「算木積み」になっている






修理を終えたばかりの建物



遠くからは白が強調して見えるようになっている






「お菊井戸」
私の前を歩いていた若い女性が真剣に何かを覗いている
気になり近寄ってみるとあの有名な「播州皿屋敷」の井戸らしい



『番町(ばんちょう)皿屋敷』と覚えていたので、最初は聞き違いだったのかと思っていたが……
日本各地に「いちまーい、にまーい……」の怪談話があるようだ



「明治時代の鯱」



制作者名などが刻まれている。別の場所には明治43年の刻印



「昭和時代の鯱」



「平成時代の鯱」
並べて展示されているのを見ると、明治の職人が造ったものが一番だ



「扇の勾配」
開いた扇の曲線に似ていることから「扇の勾配」と呼ばれる石垣









「井戸」



「西の丸」の方に移動してきた

「武者溜まり」
集団で軍事行動をする兵士を一時的に駐屯させる場所






撮影スポットの表示のあった場所から撮る



西の丸



ソーシャルディスタンスと聞いても爺には何のことか分からないが「間合いをとる」ならすぐ理解できる



ここが入り口となる



「百間廊下」 300mもあるという



「廊下の大戸」
建物内の扉とは思えない頑丈な造りの大戸
この扉の内側は女性が居住していた場所であったため、毎夜閉ざして厳しい守りをしていた



廊下に面して納戸のある小さな部屋が並んでいる
これが長局で西の丸御殿で働く女中の住んだ部屋とみられている






千姫は徳川家将軍・秀忠の長女、家康の孫娘である。7歳の時に豊臣秀頼(11歳)に嫁いだ
「大坂夏の陣」で秀頼と淀殿は自害して果てたが千姫は救い出された。18歳の時である
有力な公家や武家との関係を深めるために婚姻は大事な手段である。千姫はうってつけの「政治の駒」だった
相手は夏の陣で大功を立てた臣下 本田忠政の息子 忠刻
千姫の意志が強く働いた結果だったという
実は千姫、大坂から江戸に戻る道中を護衛していた忠刻に一目惚れしていた



西の丸の化粧櫓や曲輪は千姫夫婦のために新築された
城に移った翌年、待望の第一子となる長女、さらにまた翌年には嫡子となる長男が生まれた
愛する夫とかわいい我が子に囲まれる生活は長くは続かなかった
長男がわずか3歳で、忠刻も31歳の若さで亡くなってしまった
千姫は娘・勝姫と共に本多家を出て、江戸に移り住む
落飾(髪を落として仏門に入ること)し、天樹院(30歳)となった



西の丸から天守閣を眺める






駐車場に戻ろうとすると突然眼前に忍者が現れた
私の母方の姓は「伊賀」 天守閣をバックにポーズをとるように命じた(笑)



「官兵衛普請の石垣」



黒田官兵衛は私の好きな武将の一人



無骨な感じがする野面積みだが現存しているのが嬉しい



約3時間も滞在したにもかかわらず頭の整理ができていない
途中から、また来ようと諦めた






撮影 令和2年10月3日
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姫路城<白鷺城>その1(兵庫県姫路市本町)

2021年01月27日 | 
訪問日 令和2年10月3日

世界遺産 姫路城 その1
遠くから眺めたり、車で近くを通り横目で見たりしてきたが何故か姫路城には一度も訪れたことがない



桜門橋
駐車場に駐めたが入り口がどこにあるか分からない
とりあえず、それらしい人の歩いている方向について行く



天守の姿が見えてきた



国宝の城は現在 全国に5つある
訪れた順でいうと、犬山城・彦根城・松江城・松本城そして姫路城となる



門扉も立派だ



「世界遺産 姫路城」



人の流れについて行くと、多くの人がここで記念写真を撮っている



美しい城だ



城を見ながら歩き、撮影場所を探す



青空だったらいいのにと思うが仕方がない



菱の門
櫓門と呼ばれる型式の二の丸の入口を固めた門でここから有料になる



両柱の上の冠木に木彫りの菱の紋(花菱)のあることから、この名前が付いている
門全体に安土桃山時代の様式を残しており、城内で最も大きな門



菱の門周辺からは違った角度からの天守を眺めることができる






歩を進めると石垣が見えてくる



石垣にはあまり興味がなかったが、私の大学の大先輩の影響を強~く受け石垣を撮るようになった






「姥ケ石(うばがいし)」



石垣の上方に欠けた石臼が「間詰め石」として積まれている(判別できない)









天守閣の入り口が見えてきた



水五門
姫路城には先の菱の門のほか、「いろは……る」の門、「水の一……六」門が現存している
写真の水五門はそのうちの一つ。他に21門が残っている



既にどこに立っているのか分からなくなっているが、「小天守(国宝)」内に居るようである






これまで国宝の城を回ってきたが、姫路城の規模の大きさには驚く



大天守「1/20軸組構造模型」



大天守二階









「武具掛け」



「天井の梁」



「武具庫」



大天守三階



「西大柱」
大天守の心柱は東西方向に2本並んで地下から6階床下まで貫いている
西大柱は従来の材が継がれたものであったため一本材に取り替えようとしたが、その際に折れてしまったので3階床下付近で継いでいる



「東大柱」
太さは根元で直径95cm高さ24.6mの木材が使用されている



「武者隠し」
武者隠と呼ばれる小部屋が数箇所設けられている



「内室(うちむろ)」



大天守四階



「武具掛け」



「高窓」



「破風の間」



「石打棚」
中段を窓際に設けて、屋根で高い位置に開けられた窓が使えるように高さを補っている






大天守五階



「刻み番付」
南北の破風の棟木に「番付の文字」が彫ってある
この部材がどこに使用されるかを示している



「東大柱」
創建当時からあるというこの東大柱はこの階の天井まで通っている



大天守六階



長壁(刑部)神社
長壁(おさかべ)神社が分祀されている









最上階からの景色






遠くから見ると白く見えるが間近でみるとこのような造りになっている



瓦は検査をした上で使える物は再利用し、再利用ができない分は新しい瓦に取り替えられた



「幻の窓」
6階は当初四隅に窓を設ける予定だったが、途中で設計を変更し窓を塞いだ



外に出る。この石の階段は創建当初のもの



次回に続く

撮影 令和2年10月3日
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二本松城跡<霞ヶ城>(福島県二本松市郭内)

2020年03月25日 | 
訪問日 令和元年11月8日
予定していた2つの寺社が駐車場の関係でキャンセル
コンビニ駐車場で「最寄りの観光地」で検索すると200m以内に「霞ヶ城」がヒットした

史跡 二本松城跡<霞ヶ城>
二本松市街地の北に位置し、麓の居館と、標高345mの「白旗が峰」に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城である
江戸時代は二本松藩主丹羽氏の居城となった



二本松少年隊群像<制作:橋本堅太郎>
戊辰戦争「二本松の戦いにおいて、藩の兵力は約1千人、それに対して薩摩・長州・土佐などの西軍は約7千人
徹底抗戦の末、慶応4・明治元年(1868年)7月、二本松城は炎上し、落城した









会津藩の「白虎隊」とは違って、二本松藩の場合は西軍が二本松城下に切迫する直前に、出陣を志願した13歳から17歳までの少年たちが緊急に各部隊へ配属されたため、正式な名称はなかった



戊辰戦没者の50回忌法要の際「二本松少年隊」と命名され、少年隊に対する公然的な顕彰が行われるきっかけとなった



城内案内板



現在は「霞ヶ城公園」として整備されており、石垣と再建された箕輪門がある



石垣・箕輪門
昭和57年(1982年)箕輪門と附櫓が復元された
平成5年(1993年)から平成7年にかけて本丸の修復、復元工事がなされ、天守台や本丸石垣が整備された






毎年10月~11月に二本松菊人形展が開催されている



箕輪門から城内に入る






振り返るとこのようになっている



「二本松菊人形展」の入り口付近



このように沢山の菊で飾られている



花には興味の無い私でも綺麗だなあと思う









この辺りまでは無料だが、「菊人形展」からは有料スペースになる






これだけでも十分満足できたので戻ることにした



箕輪門のアカマツ(二本松市指定天然記念物)















撮影 令和元年11月8日
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丸岡城(福井県坂井市丸岡町霞)

2019年04月19日 | 
丸岡城<別名:霞ヶ城>
今回2度目となる丸岡城。一度目は偶然近くを車で通ったため立ち寄った
夏休みで広場では子供たちがラジオ体操をしていた。その広場も今は立派な駐車場になり年月の流れを感じていた



その時は、早朝のため無料で城周辺を探索したことをよく覚えている



丸岡城天守(重要文化財)
現存天守閣では最古の建築様式を持つ平山城である



霞ヶ城の別名をもつ。由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説によるものらしい



お静慰霊碑(伝説「人柱お静」)






石垣
私の人生の大先輩に石垣に詳しい方がいる。そのことを知ってから、城を訪ねると必ず石垣を撮るようにしている



自然石をそのまま積み上げている「野面積み」手法だ



よく見ると石の色が違っている。1948年(昭和23年)の福井地震によって倒壊した影響かも知れない



急な石段を上り城内に入る



「石落とし」



かつての丸岡城の模型(現存しているのは天守)



階段の狭さや角度から、戦に備えての城だと云うことがわかる



1576年(天正4年) 織田信長の家臣で、柴田勝家の甥である勝豊により築城された



階段を上から見るとこのようになっている。上りと同じ姿勢で下りるのがベストの選択になる



城ブームということもあり、観光客が多い



八幡神社






牛ヶ島石棺









一筆啓上石碑
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」徳川家康の家臣本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てて送った手紙






この石碑が縁で、日本一短い手紙文の一筆啓上賞の起こりとなった









歴史民族資料館



撮影 平成30年10月23日
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高知城 その2(高知県高知市丸ノ内1丁目)

2018年03月07日 | 
高知城
鷹城(たかじょう)とも呼ばれている
天守の近くまできた。思っていたよりも小さく感じる。ここから有料(420円)になる

天守(重要文化財)
南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけた安土桃山時代の様式。四重六階天守、本瓦葺



「功名が辻」はNHK大河ドラマにもなっている
司馬遼太郎の小説はほとんど読んでいるが、この小説は印象が薄い



ドラマで仲間由紀恵が使用した着物が展示されていた



「御茶所」



「うちわけ波の欄間 (波の透彫欄間)」
作者は「土佐の左甚五郎」と称される、武市高朋(通称:甚七)



黒潮の波を表現している



「物見窓」 矢狭間塀に設けられた横連子の武者窓。初めて見たような気がする



「鉄砲狭間」



「竹の節欄間」



「上段の間・帳台構え」 藩主の御座所。武者隠しもある



「石落とし」



「高知城の模型」






天守から俯瞰するとこのようになっている
高所恐怖症なので辛い瞬間である



実は腕を伸ばして適当に撮っている



「漆塗りの高欄」 徳川家康の許可を得て造ったものといわれている






龍馬が着ていたという服(複製品)






西多聞(重要文化財)



天守を後にする



黒鉄門(重要文化財)



分厚い鉄門



詰門(重要文化財)



駐車場へ戻る道を、振り返りながら天守を撮る






四国には現存する天守を持つ城があと3つ(丸亀・松山・宇和島)ある



今回は雨で断念したが、次回訪れた時の楽しみに取っておくことにする



撮影 平成29年10月18日
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高知城 その1(高知県高知市丸ノ内1丁目)

2018年03月06日 | 
高知城
入浴施設が併設されている道の駅「土佐和紙工芸村」に宿泊。高知市から少し離れた所にある
四国には天守を持つ城が4城あることは知っていた。生憎の雨で訪れることができたのは高知城だけ
雨の降っていない朝を迎えたのは久し振りだったので、早めに行動し、駐車場にうまくたどり着けた

山内一豊の銅像
関ヶ原の戦いの功績により土佐一国24万石を与えられた。高知城の築城と城下町を整備した
信長・秀吉・家康三代の天下取りの間を生き抜いた



駐車場から右手にお堀を見ながら入口に向かう



遠くに天守が見える



追手門(重要文化財)
高知城の表門。櫓門、入母屋造、本瓦葺



門の入り口は枡形の巨大な石垣で囲まれていて、敵を3方から攻撃できるようになっている



追手門左右にある堅牢な鉄製の門



門扉が開かれている状態



板垣退助像
自由民権運動の父とされ、「板垣死すとも自由は死せず」の名言を残した



偉人の銅像を幾度か見てきたが、背景が高知城というのがとてもいい



石樋(いしどい)
高知県が雨が多いというのを、この地を訪れるまで知らなかった



16ヶ所あるなかで、一番大きい「石樋」



山内一豊の妻
本名は「千代」とも「まつ」ともいわれるが、定かではない



夫に馬を買わせるために大金を差し出した話など、内助の功によって、一豊は出世できたと言われている



ここで地元の男性の声を掛けられた
「普通の写真じゃ面白くない。ここから撮りなさい」と…
確かに面白いアングルだ。私にはこういった発想がないため、いつも、つまらない写真になってしまう



この男性は、毎日、高知城に散歩に来ているというので、案内をお願いした
この場所も天守を撮るにはいいと教えてくれた



城の石垣の写真を楽しみにしている方がいることを話すと、いい場所があると案内してくれた



「苔むした感じがとても良いと思うが」と石垣の説明までしてくれた



高知城の石垣も近江穴太出身の北川豊後定信が指揮を執った



日本の城の美しさを支えているのは、石垣だと思うようになってきた
「穴太衆」の石垣は芸術だ



色々な話しを聞きながら時間を過ごすことができた
男性は職人で仕事を辞めた後は、午前中の散歩、午後からの飲酒を毎日の愉しみにしているという



私は散歩も飲酒もしないが、人生の愉しみ方はよくわかる
方向音痴だというと、天守入口まで案内してくれた



旅をしていると人との出逢いがその土地の価値を高めてくれる
そのせいか高知県が好きになってきた感じがした



空も青い部分が多くなってきたような感じもする



撮影 平成29年10月18日
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松代城(長野県長野市松代町)

2017年11月27日 | 
史跡 松代城(海津城)
武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を競った川中島合戦で、武田側の拠点として築城された
千曲川の流れを外堀とする天然の要塞で、当時は「海津城」と呼ばれていた
江戸時代、真田が松代藩主となると、松代城を中心に城下町が発展し



太鼓門
本丸内では一番大きな門



太鼓門前橋



南の櫓門



少し高い場所から。枡形に石垣をまわし本丸を厳重に守っている



海津城址之碑



石垣
本丸周辺や出入口などの重要な部分に用いている



高さと勾配の美しさは、当時の石工の技術の高さ



十数年前に一度訪れたことがあるが、記憶にある景色とまったく違う



昭和56(1981)年、新御殿(真田邸)とともに国の史跡に指定された



その後、長野市により環境整備工事が行われ、平成16(2004)年に櫓門・木橋・石垣・土塁・堀などが復元された



史跡 真田邸
関ヶ原の戦いの際に、昌幸の長男信之は徳川方に、昌幸と次男信繁(幸村)は豊臣方についた
徳川方が勝利した結果、信之は沼田・上田・松代と領地を移しながら大名として生き残った



元和8年(1622)以降、明治維新まで約250年の間、真田10代にわたり松代藩10万石領有し続けた



表座敷
年中行事や訪問客との対面が行われた部屋と考えられている
唐紙は武家が好んだ菱形



杉戸
杉戸には「境界」の意味があり、奥の私的な空間と手前の公的な空間を仕切っている



御寝所
主人の寝室。天井は花鳥の唐紙、床は寒さを防ぐ二重床になっている






手洗いの間



庭園
9代藩主幸教に好まれた庭園は「水心秋月亭」と名づけられた






史跡 松代藩文武学校
江戸時代後期に創設された信濃国松代藩の藩校である



剣術所
剣術を指南する道場で、剣術各流派を学ぶことができた






東序(とうじょ)
序は校舎を意味する。軍学を主として教えられた校舎






文学所
漢学、兵学、躾方(小笠原流)



弓術所



西序(せいじょ)



明治6年以降、初等教育の場として昭和40年代まで使われた






公園に置かれているブロンズ像






真田宝物館
1966年(昭和41年)に、真田家12代当主・真田幸治が同家に伝わる大名道具などを埴科郡松代町(当時)に寄贈
真田家から譲り受けた収蔵品は武具・刀剣・調度品・絵画・古文書などで、特に古文書が多く総数数万点ともいわれる



撮影 平成29年5月24日
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小諸城址「懐古園」(長野県小諸市)

2017年11月21日 | 
小諸城址「懐古園」
布引観音で出逢った地元の方に「小諸城」に行くと話すと「懐古園」の無料券をいただいた
その時、話しが噛み合っていないと思っていたが、城跡は、市営公園「小諸城址懐古園」として整備され、有料で公開されていた



小諸義塾塾長 木村熊二
石垣にレリーフが嵌め込まれている。この人物についての知識はない



二の丸跡
上田合戦時の徳川本陣跡。上田城を訪れたとき敵側の城も行かなければならないと考えていた



第二次上田合戦の総大将は徳川秀忠。小説やドラマでは無能な人物として扱われることが多い
妻は信長の姪で浅井三姉妹の三女の江である



なかなか攻め落とせない上田城と家康からの圧力との狭間で、もがいていたのだろうなと想像しながら旗を見ていた



南の丸跡



小諸城は、武田信玄のころ山本勘助らにより現在の縄張りとし、豊臣秀吉天下統一のとき小諸城主となった仙石秀久により完成された城



周囲には地面が削られた掘割らしき跡が見える



懐古園稲荷神社



黒門橋



黒門跡



荒神井戸
寛保の大洪水の後に掘られた、城内唯一の井戸



藤村記念館
1899年(明治32年) かつての恩師木村熊二に招かれて小諸義塾の英語教師として小諸町に赴任し、以後6年過ごす
小諸で過ごした6年余の間に「雲」「千曲川のスケッチ」「旧主人」などが生まれ、大作「破戒」が起稿された



武器庫



緑一色の城内で花の名前は知らないが、ここだけ暖色の花が咲いていた



水の手展望台からの景色



周辺を歩く。野面石積みの石垣は400年前の当時の姿で残されている









鏡石
山本勘助が愛用したとの説明書き。確かに私の姿も写っている



天守台跡



懐古神社



必勝の字に誘われように祈願をする。私の場合はギャンブルだが



ここまでが有料施設となる
出口で「門」の場所を尋ねると何もありませんよと、その場所を教えていただいた
当時の建造物は石垣と現在の懐古園の入り口の三ノ門、市街地に存在する大手門のみが現存している

三の門(重要文化財)
1615年に建てられたが、1742年に起きた洪水によって大手門、足柄門と共に損壊
現存する三ノ門は1765年に再建されたもの



扁額は徳川宗家16代当主・徳川家達の筆によるもの






大手門(重要文化財)
三の門からJRに線路の下にある地下道を通り数分歩く



近年まで民家として利用されていたが、平成20年(2008年)に再び門として修復、復元された






地元の女子高生が一人歩いてくる。どのような反応を示すのか興味を持っていた
すると相手が立ち止まり「こんにちわ」と挨拶。狭い道ではなかったが譲ってくれている
清々しい気持ちで「ありがとう」と応えた。旅の思い出の一つになった

小諸宿本陣主屋
参勤交代の大名などが休泊。現在は歴史資料館に



長野県をよく訪れる知人から教えられた蕎麦屋の本店が三の門の近くにあったので入店
「ざる蕎麦」を注文し食べてみた



撮影 平成29年5月23日
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上田城跡(長野県上田市二の丸)

2017年11月18日 | 
上田城跡・真田神社
大河ドラマ「真田丸」人気で上田城跡に人が集まっていることはメディアを通して知っていた
放映も数ヶ月前に終わり、ほとぼりが冷めるまで時間をおいて、さらに週末を避けて訪れた

東虎口楼門
楼門付近でTV局の取材なのか、観光客に声を掛けマイクを向けている
真田丸は全て視聴し内容も覚えていたのだが、私の容姿がTV向きでないのか無視されてしまった



市の情報によると「おもてなし武将隊」というのが組織されているらしい
カメラを向けると幸村のカゲに「くの一」が隠れてしまった。隠遁の術か、見事に消えている



楼門の左右に南櫓(写真)と北櫓がある



天正11年(1583)真田昌幸によって築城された上田城は、第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城



真田石
真田信之が松代に移封を命じられた際に、父の形見としてこの石を持っていこうとしたが、微動だにしなかったという伝承がある



石垣に興味をお持ちの、大学そして人生の大先輩のために…



城を訪れたら必ず石垣の写真を撮るようにしている。



北櫓



受付をして南北櫓の内部に入る



武者窓



上田城金箔鯱瓦
真田氏の栄華と匠の技を後世に伝えるのを目的に復元したもの






北櫓



鉄砲狭間



火縄銃(種子島)保管庫



駕籠
旅の途中で死去した真田信之の妻大蓮院の遺骸を、上田まで運んだと伝える駕籠



この古写真を見て吃驚。昭和19年櫓は遊郭として使われていた



眞田神社
上田城本丸跡に鎮座し、真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を祭神としている。

手水鉢



鳥居
もともとは松平家の先祖を祀る御宮であり、松平(しょうへい)神社と称していた



拝殿



真田氏は上田城を築き、その武略によって上田城の名を高からしめ、仙石氏はその後をうけて上田藩政を発展されるとともに、関ケ原合戦後破却されていた上田城の復興にもあたった



昭和28年(1953年)に真田氏と仙石氏、そして松平氏の歴代全城主を合祀して、松平神社から上田神社と改称



昭和38年、初代城主である真田氏の名を冠して、眞田神社と再度改称し今日に至っている



真田井戸
ドラマでもこの井戸のシーンがあった



この井戸には抜け穴があって、敵に包囲されていても、抜け穴から兵糧を運び入れることも、城兵の出入りにも不自由しなかったという。



西櫓
立入禁止になっている



井伊の赤備え兜
大阪夏の陣で武具を赤で統一した。真田幸村が被った朱色で鹿角型の兜



東虎口櫓門の写真左に南櫓、右に北櫓



本丸土塁の隅欠(すみおとし)
鬼門除けのため、本丸の土塁は東北の角を切り込んでいる



堀や土塁の斜面が内側にへこんで見えるのはそのためである



この後、市立博物館に入館し(既に記憶にはないが)歴史を学ぶ

撮影 平成29年5月22日
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史跡若松城址・鶴ケ城(福島県会津若松市追手町)

2016年08月27日 | 
裏磐梯「五色沼」で知り合った二人の男性から喜多方ラーメンの有名店を紹介してもらった
店のおすすめという「ネギラーメンとギョーザ」を注文
ふだん「札幌ラーメン」に慣れ親しんでいる私にとっては、違和感のある味
店員の対応も酷く久し振りに嫌な時間を過ごした

そこで学生時代一度訪れたことのあり、良い思い出のある「鶴ケ城」を目指すことにした
ところが悪いことは重なるもので、ナビの案内通りに走っていたら鶴ヶ城公園に入る際、一方通行を逆走
早くもボケ老人の仲間入りをしてしまった



八重の桜の影響なのか公園内は観光客で賑わっていた
「はるか」と命名された桜の木



大河ドラマ「八重の桜」で山本八重、後の新島八重を演じた女優 綾瀬はるかのメッセージである



「鐘撞堂」
時守を置いて昼夜時刻を城下に報じていた堂
戊申の役で新政府軍の砲火により時守が相ついで斃れたが、開城の間際まで正確に時を報じ、大いに味方の士気を鼓舞した



史跡若松城址
地元では鶴ヶ城、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い
文献では黒川城、または単に会津城とされることもある



学生時代、会津若松駅で近くを歩いていた孫を連れたお婆さんに鶴ケ城までの道を尋ねると。親切にも城まで案内(約3km)してくれた
この時の感謝の気持ちは40年以上過ぎた今でも鮮明に記憶に残っている
その思い出を胸に再び会津の地に



武者走り
この石垣は、鶴ケ城の大手門の渡り櫓などへ簡単に「昇り」「降り」ができるように造られている



V字型に造られ「武者走り」とも呼ばれ鶴ケ城石垣の特色の一つ



「石垣」
鶴ヶ城で一番古いのが天守閣の石垣で、蒲生氏郷が築いたもの



「野面積み」という自然石を組み合わせて積み上げる
慶長16年(1611年)8月21日、会津盆地を震源とするマグニチュード6.9と推定される大地震が発生
民家2万戸が倒壊し、多数の死者も出る大惨事だったが、天守閣の石垣は持ちこたえたという



蒲生氏郷が豊臣秀吉の命令で会津を治め、七層の天守閣を築いた
江戸時代、地震で被害を受けて再建した天守閣は現在と同じ五層
幕末の戊辰戦争では西軍の猛攻に耐え難攻不落の名城と称えられたが、明治政府の命令で取り壊され、現在の天守閣は昭和40年(1965)に再建されたもの



城内の様子。再建された天守は若松城天守閣郷土博物館として利用されている









最上階まで上ってきた



天気にも恵まれ市街まで眺望することができた



この城は七層あった天守閣が地震で傾き五層になった
会津戦争では1か月の間持ちこたえ、板垣退助勢に、薩摩の援軍の助けをかりても遂に城は落ちなかった
ここからの眺めを見て熊本城で見た景色を思い出した



什の掟―じゅうのおきて(ならぬことはならぬものです)
 一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
 一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
 一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
 一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
 一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
 一、戸外で物を食べてはなりませぬ
 一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
   ならぬことはならぬものです

什の掟のいくつかを思い出しながら城を出た



茶室麟閣(福島県指定文化財)
千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられ、千家が茶の湯の世界から追放された
氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんでその子、少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に働きかけた



その結果、少庵は京都に帰って千家を再興し、千家茶道は一子、宗旦に引き継がれた
かくまわれている間、氏郷のために造ったと伝えられているのが「麟閣」



「寄付(よりつき)」



外露地に構えられる建物で、茶会に先立って客が連客と待ち合わせたり身支度を整えて、席入りの準備をする



「中門」
内露地の出入口に設けられた門で、高さが低く抑えられ、茶室の躙口同様、潜りの意味が込められている



「腰掛待合」
客が露地入りして亭主の迎えを待ったり、中立の祭に一旦露地に出て、後の席入りの合図を待つ建物



「蒲鶴亭」
戊辰戦争で会津藩が敗れ、明治初年、鶴ヶ城が取り壊される際、石州流会津怡渓派の森川善兵衛(指月庵宗久)は貴重な茶室の失われるのを惜しんだ
明治5年(1872)、自宅へ移築し、以来百二十年にわたり、森川家はその保全に努めた









茶室麟閣から見える鶴ケ城



学生時代、会津藩の選択した道に魅力を感じ訪れ、40数年後に再訪することとなった
昔、この城まで案内してくれたお婆さんのおもてなしの気持ちを忘れず生きてきた



そのお婆さんの年齢に近づこうとしている。この先、何ができるのか城を見ながら考えた



撮影 平成28年5月20日
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弘前城(青森県弘前市大字下白銀町)

2016年06月12日 | 
弘前城は現在天守台石垣の修復中である
この最先端の技術を持つ日本で、人が綱を曳いて城を現在地に動かしたのである

弘前城(重要文化財)
二代藩主津軽信枚が慶長15年に着手し、翌慶長16年(1611)に完成。寛永4年(1627)の落雷により焼失した
現在の天守は、文化7年(1810)に蝦夷地警備の功績が認められた九代藩主 寧親が隅櫓の改築をし再建された



津軽藩ねぷた村駐車場から、弘前中央高校前を横切り、東口発券所を目指す



桜で有名な弘前公園。時期的にあきらめてはいたが…



遅咲きの桜を見ることができた。青空に映える花びらが実に美しい



「鷹丘橋」から本丸に向かう。正直言って、花には興味はないが公園内は見事に整備されている



天守が目の前に見えてきた。 「小さな城」 これが第一印象である



城らしくない倉庫のような入口から城内に入る



三代藩主 津軽信義が使用した「駕籠」



駕籠には津軽家の家紋 「杏葉牡丹紋(ぎょうようぼたんもん)」



屋根には瓦が一般的であるが、木材の上に鉄板を葺き降雪の重量に耐えるよう軽量化を計っている



最上階は資料館になっている。ここで警備の方に城の歴史などを教えていただいた



江戸時代には築城が禁止されていた
そのため改築した際、検分に来た幕府の役人に物置と思わせるよう工夫したためこのような形になったという



違った角度からみると城の姿に



ここには人が暮らすことはなく、物置として使われていたという



近くに3m程の高さの櫓が組んであり、遠くに岩木山が見えるこの光景も今だけの貴重なもの



この場所に本来は天守がある



周囲の工事の状況をみることができる



さて、修理されるこの石垣。右側に比べると左側部分が全体に膨らんでいるのがわかる



天守台と東側石垣の膨らみ部分を「解体修理」。明治20年にも同じように修理をしている



「本丸井戸跡」 石製井戸枠
本丸石垣修理に伴いこの場所に移設。一辺136cmの正方形、高さ71cm 2.4t



公園内から岩木山がくっきり見える



本丸を後にして、公園内を散策する









「東内門」



「南内門」



二の丸羊申櫓(重要文化財)
敵を攻撃したり物見のために造られた。櫓の方向を十二支で示したもので、羊申は南西に当たる



二の丸辰巳櫓(重要文化財)
防弾・防火のため土蔵造りとなっている。この櫓で藩主が三の丸を通る弘前八幡宮の山車行列を見たという 



「玉鹿石」(青森県天然記念物)



「二の丸東門与力番所」



二の丸丑虎櫓(重要文化財)
軒下や出格子の木部は白木のままで飾り気がないが美しい



丑虎は北東に当たる



道の駅「ひろさき」にて…



入浴後、夕陽がきれいだったので撮ってみた



撮影 平成28年5月13日
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岡山城(岡山県岡山市北区丸の内)

2015年01月26日 | 
昨年は岡山県は通過しただけで何処にも立ち寄ることがなかった
車を走らせながら、岡山県で思いついたのは「後楽園と岡山城」の2つだった
時間の関係で選択したのは岡山城

史跡 岡山城
すでに午後4時、城近くの駐車場に車を駐め急ぎ城に向かった



最初に大きな石垣が目の前に現れた時、石垣の好きな大先輩の事が頭に浮かんできた



岡山城建設当時には、大名が勢威を誇る目的で石垣に巨石を集めて築くことが流行していたという



石垣の石は瀬戸内海に浮かぶ犬島などから運びこまれた



 





鉄門(くろがねもん)跡






不明門(あかずのもん)
天守閣のある本段(城主住居)全体の入口を固めた城門



普段はこの門は閉ざされていたことから「不明門」と呼ばれた



明治の廃城後取り壊されたが昭和41年に再建された



不明門を上がると左側に美しい城が見えてくる



戦国時代に宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われた



別名は烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)



城内に入るには入場料が必要になる。天守からの風景



時間に余裕がなかったので展示物をゆっくりみることができなかったが、岡山城の歴史を学ぶことができる












現在の天守は瓦に桐の紋が使われるなど、秀家当時のイメージで再建されている




 

天守閣の礎石
天守閣は戦災で焼失し元の位置に鉄筋コンクリートでさいけんされたため



礎石のみをここに移し、元の通りに配置している






六十一雁木上門



石段が61段あったことからこう呼ばれたらしい



夕暮れ間近の岡山城



目の前に不明門、来た道を戻る









石垣の工事を行っていた係の人に話を聞くと、石に印や番号を付け、それを写真に撮り元の位置に戻すそうだ



今の時代は重機で作業できるが、当時は人力でどのように行っていたのだろうか



城を後にする



駐車場の木々の間から見える天守閣。近くに後楽園もあるのだが時間も遅く次回の楽しみにとっておこう



撮影 平成26年10月27日
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