今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

津和野城跡(島根県鹿足郡津和野町後田)

2015年01月05日 | 
津和野城跡(史跡)
津和野城は津和野盆地の南西部に横たわる標高367メートルの山上にある山城である

津和野城には自然道を徒歩で行く方法もあるが、私は違う道を選んだ



「観光リフト」を利用するという楽な方法だ
多少の恐怖感はあるが、待ち時間もなく目的地の近くまで運んでくれる



堀切
尾根の方向に尾根続きを直交に遮断して敵の侵入や攻撃を防止することを目的として掘削した



中世の山城でよく用いられる手法で、吉見氏時代のもの



緑の木々に囲まれた遊歩道はとても気持ちがいい



先に進んでいくと「出丸か本丸か」の選択になる



ほんの少し上りがあるが、2~3分の我慢だ



出丸跡(別名:織部丸)
慶長5年(1600)吉見氏に代わり津和野へ入城した坂崎直盛が改築の時に築いた
弟で家老浮田織部指揮をとったことから「織部丸」ともいわれている



出丸が本城を守るための戦略上、防塁としての役割は必要不可欠であり、鉄砲に頼る実践的な戦術が進み、この場所を強化する必要があった






東西約18m、南北約45m 石垣に沿って堀が巡らされていた。本丸東門までの距離244m



出丸から本丸を目指す



「史跡 津和野城址」と刻まれた石柱
城址とは石垣だけが残っているということ



案内板には「中世山城 津和野三本松城跡」と書かれている



文永11年(1274)、弘安4年(1281)の蒙古来襲を受け、鎌倉幕府は吉見頼行に海岸防備を命じた
頼行は家来とともに能登から地頭として入り築城を始めた



その後、この山城は天文23年(1554)の「三本松の役」では、大内氏・陶氏・益田氏その他の大軍に包囲されながらも100日の籠城戦に耐えた

東門跡
石垣が三段になっているが、三段櫓跡となる



かつては三層の天守閣があった



馬立跡・台所跡
馬立は乗馬をつなぎとめておくところ



台所跡には石列による排水機能が見て取れる



西櫓門跡






天守台



三十間台



山の上から自分の目で見て確認したかったことがある。それは、屋根の色である



リフトの係の人に聞くと「石州瓦」独特の赤い色で、津和野が産地になっているそうだ

 

太鼓丸









津和野という地名の由来となっている「黄色のツワブキの花」



下りのリフトは初体験になるが、高所恐怖症の私には厳しい試練となった



撮影 平成26年10月24日
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彦根城 その3(滋賀県彦根市金亀町)

2014年12月02日 | 
名勝 玄宮楽々園
中国唐時代の玄宗皇帝の離宮をなぞらえて命名されたと考えられる廻遊式庭園の玄宮園



槻御殿の庭園部分を「玄宮園」と称している。遠くに彦根城天守が見える



「魚躍沼(ぎょやくしょう)」の右側の建物が「臨池閣(りんちかく)」



池の中央にある橋は「龍臥橋(りゅうがばし)」



人気の橋なのか多くの観光客が集まっている



「鶴鳴渚(かくめいなぎさ)」



「魚躍沼」沿いの歩道を歩いてその風景を楽しむ



「観月峯(かんげつほう)」からの風景






石の配置が絶妙。昔の人達が何を大切にしていたか少し理解できた気がする。



「井伊直弼大老像」



「一身に責負ひまして、立ちましし、大老ありてこそ、開港はなりぬ」 井伊文子(直弼の孫の妻)



NHK大河ドラマで井伊直弼の「花の生涯」の石碑
記憶違いでなければ、大河ドラマの第1回目がこの作品であったはず
子どもの頃家族で真剣に視ていたことを思い出す



彦根城の案内図をみるとまだ回っていない場所があるが、歩数計では15,000歩も歩いていることになり疲れてしまった
悔いは次の行動の原動力になるので、車に戻ることにした



撮影 平成26年10月26日
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彦根城 その2(滋賀県彦根市金亀町)

2014年12月01日 | 


天守を見たあと、かつて着見櫓があったという、「着見台」という展望台に足を運ぶ



軍師勘兵衛ではすっかり悪人になっている石田三成の居城があった佐和山が見える
先週の軍師勘兵衛放映後、私のブログ「観音護国寺」への訪問者が増えている



着見台から見える天守。ここからの姿も美しい



案内図を手に西の丸方向に歩いてみる。この場所は初めてとなる

西の丸三重櫓(重要文化財)
本丸の西側にある西の丸の一番はずれにある三重櫓
三層部分は、監視と見張り用に窓があるが、1・2層は攻撃用として城外側だけに窓がある



装飾的な破風などはないが、簡素で気品ある櫓となっている



櫓内部も公開されている。壁は防火や防弾のために厚い土壁になっている
三層部分は四方に見張り用窓がある



櫓の内面は柱を見せる「真壁造り」、外面は柱などを土壁で完全に塗り込める「大壁造り」



外から三重櫓を見るとこのようになっている



城外側から見ると、各層に攻撃用の窓が確かにある



石垣の高さも10m以上はある



大堀切
敵の侵入を阻止するため、屋根を断ち切るように大堀切が設けられている



私の前に歩いていた3人の女子高生に、教師が話していた内容を立ち聞きしてしまった。といっても石垣についてである



「石をよく見てご覧。削られたあとがあるよね。」「ホントだ」 
つい、私も「本当だ」と心で叫んでしまった。
この石垣は、石工集団として知られる「穴太衆(あのうしゅう)が築いたと伝えられている



黒門橋から内堀沿いを歩く。歩数計によるとすでに1万歩以上歩いている。



槻御殿(けやきごてん)
木材はすべて槻(ケヤキ)でその華麗さは各大名も驚嘆したという。井伊直弼はここで生まれた



 





「地震の間」
耐震構造の建物であるため呼ばれているが、当時は茶の湯用いる「茶屋敷」だった






堀を泳いでいた黒鳥。黒鳥を見たのは初めてだ。


 
撮影 平成26年10月18日
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彦根城 その1(滋賀県彦根市金亀町)

2014年11月30日 | 
この日は土曜日で、ある程度の覚悟はしていたが、それにしても人が多く城近くの駐車場も何故か閉鎖、交通規制もされていた
話しを聞くと「ご当地キャラ博in彦根2014」というイベントが駐車場で開催されているらしい

大手門橋から入城
 


人間慣れした鴨が迎えてくれる



天秤櫓(重要文化財)
大手門から坂を上がっていくと「廊下橋」が見える
この橋がなければ本丸へ侵入ができない。非常時には「落とし橋」となる



廊下橋を中央にして建てられているのが天秤櫓。天秤のような形からそう呼ばれる
この形式は日本の城郭では彦根城だけとなる



私の大学の大先輩に石垣が好きな人がいるが、その影響なのか、圧力なのか石垣にも目を向けるようになった
この天秤櫓左右の石垣の積み方が違う
幕末の寛永年間に積み替えた切石の「落し積み」



右手の高石垣
越前の石工が築いたと伝える築城当初の「牛蒡(ごぼう)積み」


 
櫓内に入る。侵入者を防ぐための工夫がなされている。明かり取りのような窓も
窓の格子木は弓や鉄砲で敵陣を広く狙えるように菱形の木材を使用している



櫓内に侵入しようとする敵が死角無く目視できる






櫓の壁は防火や防弾のために厚い(30cm超)土壁になっている
外は「大壁造り」、内面は柱を見せる「真壁造り」になっている



時報鐘(日本の音風景百選)
城全体に響くようにと鐘の丸から移され、今も定時に撞かれている。近くの聴鐘庵で茶を楽しめる



さらに石段を上がっていくと遠くに天守が見えてくる



 


太鼓門櫓(重要文化財)
本丸への最後の関門となる



「太鼓」が櫓の中に置かれ、登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかといわれている



さらに上に進むと周囲が賑やかになっている
彦根市のキャラクター「ひこにゃん」が登場するという
ゆるキャラブームの火付け役となった数年前に一度城内で見たことがあり可愛いと思ったので、柄にもなく列に加わることにした
彦根藩の2代目藩主・井伊直孝に縁ある1匹の白猫をモデルとしている



兜は井伊の赤備えとして有名な井伊家の伝来品をモデルとしているそうだ



天守(国宝)
姫路・松本・犬山とともに国宝4城の1つである



雲一つ無い青空に白色の城が映える






内部の様子(矢狭間と鉄砲狭間)







 

井伊直弼像



天井の立派な梁を見ているとあることを思い出す



一番高い場所に神様を祀っているということ



下の板戸の中は千鳥破風の屋根裏を使用して一室が設けられている
この日は観光客が多く上るのも降りるのも列に加わり順番待ちの状態
その通路にある隠し部屋を撮すに苦労したが、同じカメラを持っている人が止まってくれた



このように人がいない場所もある



武者溜(むしゃだまり)






近くにいた係の人が重要な鉄の扉だと話してくれたが



何が重要だったのかまったく思い出すことができない。



前回、訪れた時にはここで帰路についたが、案内図を見るとまだまだ見るところがある。



撮影 平成26年10月18日
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岡崎城(愛知県岡崎市康生町)

2014年11月16日 | 
岡崎城(岡崎市指定史跡)
岡崎城公園内にある大型駐車場に車を駐める
駐車料金は30分100円、岡崎城と家康館を見学しても1,000円で楽しむことができる

徳川家康の生誕地
家康は6歳で織田信秀、8歳で今川義元の人質となり、少年期を他国で過ごしたが、桶狭間の合戦で今川義元が戦死したことを契機に自立した
ときに19歳。以来、岡崎城を拠点に天下統一という偉業への基礎を固めた



現在の岡崎城二の丸能楽堂のある場所で、家康が誕生した



江戸時代には、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視されていた



足もとには竹千代と家康の石像が置かれている



明治維新を迎えると城郭の大部分は取り壊されてしまった
岡崎の象徴である天守閣がないままではしのびないとする市民の思いは強く、昭和34年(1959)に、ほぼ昔どおりの外観の天守閣が復元された



天守閣は2階から4階までが歴史資料館に、5階は展望室となっており、三河平野を一望することができる



堀と石垣が昔日の面影をわずかに伝えている



私の大学の大先輩に石垣が好きだといわれているので、無言の圧力ではないがついカメラを向けてしまう
積まれている石の色の違いが時代を現している



色々な人の刺激を受けながら、自分の知識が広がっていくことは本当に楽しいことだ



岡崎城を後にして、岡崎公園内を歩いてみることにする



公園内にある公衆電話



徳川家康公銅像



からくり時計塔
この場所を通った時に時報とともに時計の中から…… 



三河武士のやかた家康館
常設展示では徳川家の歴史を学ぶことができる



館内の様子であるが、先を急ぐ旅のため斜め読みで回ったがとてもわかりやすい









岡崎城の前にも石碑があるが、館内の出口に展示していた、徳川家康の遺訓の前で足が止まった



「人はただ身のほどを知れ草の葉の 露も重きは落つるものかな」



人の一生は重荷を負うて
遠き道を行くがごとし
いそぐべからず
不自由を常とおもえば不足なし
こころに望みおこらば
困窮したる時を思い出すべし
堪忍は無事長久の基
いかりは敵とおもへ
勝つ事ばかり知りて
まくる事を知らざれば
害その身にいたる
おのれを責て 人を責むるな
及ばざるは過ぎたるよりまされり


撮影 平成26年10月14日 
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熊本城(熊本県熊本市中央区本丸)

2014年03月20日 | 
熊本市での仕事が終わり、夕食後に熊本城がライトアップされていて見ることができるとホテルの従業員に聞いたので徒歩にて向かう
*H26.2.4付けのブログに二度目に熊本城を訪れた時の様子を紹介

夜の熊本城
仕事仲間の一人は堅く真面目な人で「夜の熊本嬢」とは絶対ならない人で、私が城にいる同時刻には本日2回のランニングをしている



熊本城は今回が初めてだが、夕暮れの中にくっきりと浮かび惹きつけられる魅力がある



写真全体の半分以上はこの角度から撮したもので、当時一番のお気に入りの場所だったようだ



しつこくもう一枚



ただ一番気になっていたのがこの「宇土櫓」 城内では一番古い建物だということを後で知った



大小の天守閣に見とれていたら、ぽつりぽつりと雨が降ってきた



天守閣に上がったが観光客は私一人
係の男性に城の歴史や見所などについて説明していただいた



雨が一段と強くなり、雨具もなく困っていると傘を持って行きなさいと親切にされた場所でもある



外に出ると真っ暗になり、ライトアップされた城がとてもきれいだ



旅では人との出会いがあり、その人の印象が想い出として残り、その土地の善し悪しが決まる
そして、良ければ、また訪れたくなる 


撮影 平成15年9月15日
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犬山城(愛知県犬山市大字犬山北古券)

2014年03月13日 | 
ブログの写真ネタがなくなり、古いHDを探すことにした
その中に平成15年、初めて犬山城を訪れたときの写真がそこにあった。改めて写真を見ると当時感動していた様子がわかる

名古屋駅から名鉄「犬山駅」で下車
案内板を見ながら歩いて城を目指すことにした



木曽川沿いを歩いていくと、それほど遠くとは思えない山頂に城が見えてくるが…



歩いても歩いてもなかなか目的地に近づいていくような感じがしない



しばらく歩くとやっと近くに青空によく映える天守閣が見えてきた



国宝 犬山城(別名:白帝城)
10年後に訪れた(H25.10.26ブログ公開済)昨年は、工事中で残念な思いをしたが、天守閣を見るには古い写真の方が雰囲気がある



 


正面から見上げる姿も堂々として実に美しい



観光客の姿も見える



普段はこのような写真は撮らないのだが



天守閣を意識し周囲を歩きながら撮影している



「どこから見てもいい」 当時の記憶が鮮やかに甦ってくる



この当時、城の持ち主は確か犬山市長の娘さんだったと思う



城の中に入り最上階を目指す



私は城を訪れるときに常に「敵側の視線」で見るようにしているが、この城も天然の要塞になっている



この方向にある道を通り帰ることになる



途中「からくり展示館」に立ち寄り帰路につく
辺りが急に暗くなり振り返って城の方を見るとまったく違った表情になっていた




撮影 平成15年11月12日
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松江城<千鳥城>( 島根県松江市殿町)

2014年03月07日 | 
山陰地方を訪れたのは今回(H21.7月)が初めてだが、親切な人が多く居心地がよい
松江城近くの駐車場の男性も「札幌」ナンバーを見て「遠くからよく来てくれた」と歓迎されたようないい気分になった

松江城<千鳥城>(重要文化財)
気持ちよく駐車場から松江城に向かう。途中、石垣の奥に天守閣が見えてきた



登閣料を納め城を眺める。1935年(昭和10年)「国宝保存法」により国宝に指定されたが、1950年(昭和25年)5月文化財保護法制定により、「重要文化財」となる



亀田山に1607年(慶長12年)から5年の歳月をかけ築城
1611年(慶長16年)に竣工。完成数カ月前に堀尾吉晴公死去(69歳)
孫の三之助(忠晴)(13歳)が城主となる



廃城令により、松江城諸建造物と三の丸御殿を民間に払い下げることとし、ことごとく取り壊された
天守閣は180円で落札されたが、出東村の勝部本右衛門、高城権八らにより資金を調達、買い戻され取り壊しは中止、保存されることとなった



「松江のシンボル松江城は、全国で現存する12天守のうちのひとつで、唯一の正統天守閣ともいわれている



人柱伝説:天守台の石垣が何度も崩れ落ち、人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間から出た
そこで、盆踊りを開催し、最も美しく、踊りの上手な少女が生け贄にされた。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたという
石垣は見事にでき上がり城も無事落成したが、城主の父子が急死し改易となった
人々は娘の無念のたたりであると恐れたため、天守は荒れて放置された
その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたという城の伝説が残る
また、城が揺れるとの言い伝えで城下では盆踊りをしなかった



石垣積は、築城工事にあたって、全体の半分以上の労力を要した
松江城は5年間で完成したが、そのうちの3年間を石垣に費やされた



興雲閣
松江城内に1903年(明治36年)に明治天皇行幸時の御宿所として建設された擬洋風建築の迎賓館 



日本の大工が欧米の建築を見よう見まねで建てたという擬洋風建築で、洋風スタイルの中に和の要素が織り込まれている
当時は「ロシア宮殿風」といわれ、迎賓館や博覧会場として使用されていた



松江城周辺には、小泉八雲記念館、小泉八雲旧居、武家屋敷の各施設があるが、5年前のこの日は、この後に一畑薬師、出雲大社、石見銀山を訪れていて、つまみ食いのような観光をしている

帰り際に撮った写真



駐車場に戻ると「いい物をあげようかな」と係の男性が笑顔で話しかけてきた
数回子どものようなやりとりの会話があり手に入れた「いい物」は松江市内の観光マップが書かれている「うちわ」であった
「使わないけどもらっていくわ」互いに笑顔で手を振りながら別れた  


撮影 平成21年7月30日
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彦根城(滋賀県彦根市金亀町)

2014年02月26日 | 
この当時、城にはあまり関心はなかったが4つある国宝の城で唯一訪れたことがなかったこともあり興味が湧いた

国宝・特別史跡 彦根城
滋賀県彦根市にある彦根山に、井伊氏の拠点として置かれた平山城(標高50m)
山は「金亀山(こんきやま)」との異名を持つため、城は金亀城(こんきじょう)ともいう



天守と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟が国宝に指定、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている



小さな建物に人が見えるが天守への出入口となる



美しくて思っていたより小さな城というのが感想だ



名勝 玄宮園 
延宝6年(1678年)に彦根藩4代藩主井伊直興が整備
江戸時代後期の文化10年(1813年)には第11代藩主井伊直中の隠居屋敷として再整備され、今日に近い形に整えられた






この日は雨模様であったがここから見える天守は絵になる









資料館のような所で「井伊直弼」についての資料を見ていると、遠くから賑やかな声が聞こえてくる
「ひこにゃん」であることを後で知ったが、仕草が可愛くて、つい見とれてしまった



2007年(平成19年)に築城400年を迎えた彦根城の記念イベント「国宝・彦根城築城400年祭」のイメージキャラクターとして登場し、全国規模で人気を博した
その「ゆるさ」が話題を呼び、近年の「ゆるキャラ」ブームの火付け役として知られている



城内の写真も撮した記憶はあるのだが残っていない
重文の「馬屋」の写真も残っていない、もう一度訪れてみたい




撮影 平成21年7月28日
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丸岡城<霞ヶ城>(福井県坂井市丸岡町霞町)

2014年02月15日 | 
丸岡城についての知識はなく、この周辺の道路を何度か通っていたが寄ることもせず通過していた
ところが「日本で一番古い……」と書かれてあった看板につい気持ちが動きこの日はハンドルを切ってしまった



丸岡城<別名:霞ヶ城>(重要文化財)
1576年(天正4年) 織田信長の家臣で、越前ほぼ一帯を領していた柴田勝家の甥である勝豊により築城



「霞ヶ城」の名の由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説による



小高い丘に位置し、五角形の内堀で囲まれた中に、本丸や二の丸があった



見所は現存する天守



屋根瓦には石瓦を使用しており、現存例は丸岡城だけ



現在の天守は1948年(昭和23)の福井大地震で倒壊後、旧材を使用して復旧した



本来なら城内の見学ができると思うが、訪れた時間が朝の6時頃(広場でラジオ体操をしていた)だったので叶わなかった



桜の名所としても知られている



周辺は整備されていて快適な気分になる

 




この城の横には墓があり、悲しい物語が書かれている



 


鯱(石製しゃち) 
もと木彫銅板張りであったが、修理の際に石製鯱に改められた。その当時は戦禍中で銅板の入手が困難だった



「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」 
日本で最も古い天守閣をもつ丸岡城に、この最も短い手紙文を刻んだ碑が立っている
徳川家康の家臣本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てて送った手紙として有名
「お仙」とは後の丸岡城主本多成重(幼名.仙千代)のこと



撮影 平成21年7月28日
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熊本城(熊本県熊本市中央区本丸)

2014年02月04日 | 
個人的には熊本城は二度目になる
前回はライトアップされた時間であったため、ほとんど見ていない。
らに途中からにわか雨に遭い、天守閣で困っていると係の人が傘を持って行きなさいと渡してくれた思いでの場所でもある

熊本城
加藤清正は、1591年(天正19年)から茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめる。1600年(慶長5年)頃には天守が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となる。1606年(慶長11年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めた

今、手元の案内図を見ると「須戸口門」から入園したことになる



不開門(重要文化財)  
古くから東北の方角は鬼門と呼ばれ、不浄の気の出入りするところと考えられた
築城にあたっても、この方向は塞いでも開け放ってもいけないとされていた
そこから不開門(あかずの)門と呼ばれ死人や不浄物の搬出時にだけ用いられた



熊本城の石垣は見事だがよく見ると大小様々な石が使われて組み込まれていることがわかる



天守閣
茶臼山の最高所、標高50mの天守台に築かれ、大小2つの天守からなる

 

大天守は外観3層内部6階地下1階で、石垣の上に大根太を張り出して建物がその上に乗っている
四面に優雅に反った千鳥破風を配し、最上階の南北には唐破風を据えている



日本三名城の一つ、他に名古屋城、姫路城、大阪城(4つになる)



私の三名城は姫路城、熊本城、松本城になる。松江城や犬山城も好きだ



小天守閣の中にも入ることができる



天守閣内部は熊本博物館分館となっており、1階は加藤家時代、2階は細川家時代、3階は西南戦争関連の資料を展示している 



最上階は展望所となっている



見えているのは「宇土櫓」



遠くに熊本市の街並みが見える



堀の深さからも防御の堅固さがうかがえる



本丸御殿大広間 
往時の本丸御殿には、藩主の居間、対面所(接客の場)や台所等の機能が備わっていたが、今回、大広間(対面所)、数寄屋(茶室)と大御台所(おおおんだいどころ)を復元
建築面積:約2,161平方メートル。建築費:約41億8千万円で復元

大御台所では巨大な小屋組みを見ることが出来る









障壁画の復元を行った「昭君之間、若松之間」









再び天守閣前へ。この場所が撮影するには最適と思われる



大小天守閣を裏側から見る

 

宇土櫓(重要文化財)
熊本城では大小天守を除いて最大の櫓である
高さ約19メートルあり、近世以前に建造された天守や櫓との比較では姫路城、松本城、松江城に次いで4番目の高さである



宇土櫓の名前の由来は宇土の小西行長が関ヶ原で滅んだ後、小西の家臣の一部を清正が召し抱えて宇土小路として現在に名前を残す
京町に住まわせ、櫓をこの一団に管理させたことから、こう呼ばれたのではないかと言われている



宇土櫓の屋根には鯱が乗り、大小天守閣と並んで三の天守と呼ばれることもあるが、この鯱は旧来からあったものではない
昭和2年(1927年)に陸軍が解体修理した際に城内に保管してあった鯱を取り付けたもの



宇土櫓天守閣から大小天守閣を見る






額縁を意識して撮ったのだが



人が見えている所が出入口になる



違和感のある廊下
この長い廊下を歩いていたときに、平衡感覚に違和感を覚えていた
一緒にいた一人が鉛筆のようなものをその廊下に置くとコロコロと転がっていく
それを見ていた係の人が近くに来て「おぬしできるな」ではなく「調べてきていますね」と声を掛けてきた



敵が刀を持って攻めてきた時に、その「しかけ」が発揮するように造っているそうだ
こちらに来て下さいと、立入禁止場所に案内してくれて隠し部屋なども見せてくれた 


撮影 平成23年10月1日
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安土城跡(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)

2013年12月05日 | 
昨夜、NHKの歴史秘話ヒストリアで、信長公記を書いた太田牛一が放映され、来週が安土城の特集になると予告していた。実にタイミングが良い。
学生時代に読んだ、司馬遼太郎の「国盗り物語」に出てくる織田信長に魅了され、歴史小説を読み始めるきっかけとなり、歴史に興味を持った。
その、原点ともなった安土城跡に立っている。

特別史跡 安土城跡 
安土城は、織田信長によって、現在の安土山に建造され、大型の天守(天主)を初めて持つなど威容を誇った。



石段を上がると間もなく左手に「伝羽柴秀吉邸跡」と刻まれた石柱が立っている



歴史上の人物がかつてこの地で生活していたということを考えるだけで楽しい



当時の間取りなども案内板に示されている



また、石段を挟んで右側には「伝前田利家邸跡」もある



信長は安土城への最も重要な道である「大手道」を秀吉と利家に守らせていたとも考えられる



「大手道跡の石仏」は築城の際に石材として使われた。
城普請に使用する石材は近郊の山々から採取したが、石仏や墓石も含まれていた



石段中央の色違いの石のように使われている



朝からの雨で石も滑るが、石段の幅の広狭や傾斜など不安定で、自分のリズムで上ることができない



しかも、初めての場所なのでどの程度上ればいいのか検討もつかない。
石垣が見えるとそろそろかと思うが、そんなに甘くはない



受付所の説明では、早い人で往復40分位と言っていたが、すでにその時間には達している



このあたりは、安土城中枢部の入口の一つである「黒金門跡」になる

 

二の丸址に近づいてきているのか



この仏足石(室町時代中期)は築城当時、単なる石材として集められ石垣に使われていた



手前に「織田信長公本廟」と刻まれた石柱がある






天主閣から見える廟。この地では「天守を天主」と表記している



すぐ横に大きな石があり、それを熱心に見ている人がいたので「何の石か」と尋ねてみると。「蛇石」じゃないかと。



「蛇石」という巨石は約10メートル、約112トンあったが、引き上げる途中で綱が切れ、横滑りした蛇石に150人余が挽き潰された。
その後蛇石は安土山頂まで引き上げられたはずだが、現在までに幾度の発掘調査を経ても、未だ発見されていない。



来週の歴史秘話ヒストリアでも「蛇石」の予告があったので結果が楽しみだ。
一般客が眼にする石の中ではこれが一番大きい。しかし、ここは天主閣ではないことも確かだ。

この石段の上に「天主閣址」の石柱が立っている



やっと天主閣に着いた。
完成からわずか3年後の1582年(天正10年)、家臣明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして何らかの原因によって焼失.
その後廃城となり、現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだ



永い年月、瓦礫と草木の下に埋もれていたが、調査の手が入ったのは昭和15年(1940)のこと



石垣の崩壊を防ぐための補強を加えられた他は、当時のまま現在に至っている



記録から地上6階、地下1階の高層建築物だったことがわかった



通常の天守は日常的な居住空間としては使用されなかったが、信長はこの天主で生活していたと推測されており、そのための構造と思われる。
こういった高層建築物を住居とした日本人は、信長が初とも言われている



天主閣址から見える風景



信長の「安土城」は、安楽浄土から名付けたといい、信長は、誰もが幸せになる平和で豊かな世界を目指していたといわれている



天主台南西の百々橋口付近に総見寺があるので下りていく






堂塔伽藍を備えた寺院が建てられているのは、後にも先にも安土城だけ









三重塔(重要文化財)
織田信長は、近隣の社寺から多くの建物を移築し、建立したようである。



享徳3年(1454年)建立。総見寺創建時に甲賀長寿寺より移築



雨が本降りとなり右手に傘、左手にカメラと不安定な姿勢で急な石段を下りる



この日は朝から強い雨が降り、休養日にしよう道の駅でのんびりしていた。
昼近くになり雨が突然止んだので重要文化財がたくさんある「長命寺」を目指すことに。
ところが、走行途中に「安土城跡」と書かれていた道路案内があり、気持ちが動いてハンドルを切ってしまった。
したがって、安土城跡は目指していた場所ではなく、偶然訪れた場所になる。
なお、長命寺はこのあと向かうのだが、入口の幅が狭くタクシーの幅でもぎりぎりだったので、ワイド車ではどうかなと、一応挑戦はしてみたが擦る可能性が高く、車の長命を考えあきらめることにした。
ただ、様子を見ていると観光客がかなり多い。当然、高齢者ばかりだが。 


撮影 平成25年11月10日
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竹田城(兵庫県朝来市和田山町竹田古城山)

2013年11月16日 | 
「三仏寺投入堂」に一緒させていただいた兵庫県のご夫妻から「竹田城」と琵琶湖周辺の「渡願寺阿弥陀堂」はいいですよと薦めがあったことは頭の中に入っていた。
しかし、最近は頭に入ったものがすぐ出て行くか、いつのまにか消えてしまう傾向にある。
この竹田城も移動中の道の駅で資料を見ていたときに思い出したものである。

竹田城(史跡)
この日の天気も小雨、晴れ男がずっと雨に祟られている。
いつもより早く道の駅を出発し朝の7時半頃には竹田城へと続く道にたどりついたが、車が渋滞していてというよりまったく動かない。
Uターンできる場所もなく、反対車線に入り強引に引き返した。



駅に観光案内があると聞いたので駅に向かう。
車の渋滞のことを話し、明日は平日なので大丈夫かと聞くと、最近は曜日に関係なく混雑していると説明してくれた。



その時、笑顔で話しかけてきたタクシー運転手が「営業車ならすぐいけますよ」と



竹田城跡ではなくパンフレットに出ている「天空の城」が撮れるスポットに案内を頼んだ



車で行ける場所は竹田城と同じ高さの場所で、その運転手は写真の撮れる場所まで案内してくれた



これまでの写真がその場所から望遠レンズで撮ったものだが雲が多く何も見えない



2・3分待ってもらったが雲の動きも悪く、とりあえず「ここに来た」という証拠にと連写した。
運転手の話では写真を撮る人たちは前日の夜から陣取っているようだ



帰り道で運転手が車を止め、電線がじゃまになるがここからも撮れますよと案内してくれた



町の無料駐車場で少し遅い朝食をとる。珈琲を飲んでいると空が明るくなってきた。



そして、目の前にあの竹田城跡がはっきり見えるではないか  



昨日は8,000人の観光客だったそうだ。
映画やテレビのロケ地、また日本の名城にも選ばれこの2・3年これまでにないブームになっているようである。



NHK大河ドラマ「黒田勘兵衛」のロケ地にもなっている



さらに空が明るくなってきて、紅葉まではっきり見える



私の写真では竹田城跡の良さはまったく理解できないが、今度は登山をする格好をして地元の交通機関を利用したいと思う。



室町時代から関ヶ原の戦いまで常に歴史の中にあった城のようである。 




撮影 平成25年11月4日 
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越前大野城(福井県大野市城町)

2013年10月28日 | 
名所旧跡を訪ねる旅

ダム見学後、近くの道の駅にて休憩、昼食を購入した。もみじ祭りの日と重なり駐車場は満車状態。
道の駅のパンフをなにげなく見ると越前大野城の写真が掲載されていた。
雲の上に天守閣が見えるという幻想的な写真で急に行きたいという気持ちが強くなりナビの目的地に設定した。



土井利忠は大野土井家7代目藩主。幕末期に藩政改革に着手、優秀な人材を登用し財政再建を成し遂げた。



天守閣が見えてきた。
1575年(天正3年)、織田信長より越前一向一揆を平定した恩賞として越前国大野郡の内の3万石を与えられた金森長近がその翌年、最初に居城とした戌山城の近くの亀山に城郭を築いたのが越前大野城の始まりである。



その後、越前松平家が3代続いた後天領となり、土井氏で定着するまで目まぐるしく城主が替わった。






城内の資料のなかで特に印象深かったのは「藩店 大野屋」を全国各地に展開させたことだ。



その他にも財政再建のため手を尽くしたが、もう一つ藩校明倫館にて人材を育成したことも重要だ。



そのようなことを考えているうちに、なぜここに来たのかということをすっかり頭から抜けてしまっていた。



あの雲の上に浮かぶ天守閣を見るには下に降りねばならない。



下から望遠レンズに換え撮ってみたが……。



今日はここでは終わりたくない。
同じパンフから面白いものを発見、新ジャンルに挑戦することにした。 


撮影 平成25年10月26日 
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犬山城(愛知県犬山市大字犬山字北古券)

2013年10月26日 | 
名所旧跡を訪ねる旅

以前犬山城を訪れたときは名古屋駅から電車で犬山駅まで。
駅から天守閣が見えたので川沿いを歩いて犬山城を目指した。
ところが、歩いても歩いてもなかなか城が近づいてきてくれない。
神社を越え坂を上ったところに城の入り口が見え、感激したことを思い出す。
今回は案内によると城まで5分という駐車場に車を駐めることにした。
あの苦労をしなくて済むなら500円は安い。駐車場の係員の対応がすばらしかったことも付け加えておく。

さて、入り口側がやけに騒々しい。何かなと思い輪に加わると和服を着た3人の女性が昔言葉で観光客に問いかける。
一瞬、モデル撮影会を思い出し、バシバシとシャッターを切っていた。気分が高揚してくる。



今日は城見学に来たのだと、気持ちを切り替えた。さて、この石の記憶が全くない。



城の石垣は日本の技術の高さを感じる



廃藩置県の際に払い下げられた建造物として城の門が各寺院に移築され現存している。 



入場券を購入して中に入ると「何と、工事をしている」ではないか。



天守閣から見える景色であるが、テンションが下がっているのがよくわかる。






工事をしていても入るのだが、事前にそのことを伝えてほしかった。



城の周辺を散策すると石碑が建っていた。徳川家から贈られたものらしい。



四季桜も咲いていた



工事は来年2月に終了するということで、その時を楽しみに、また来たいと思う。



ボランティアの人にこの周辺でいいところはないですかと尋ねると、国宝の茶室である「如庵」を紹介してくれた。 




撮影 平成25年10月24日 
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