訪問日 令和2年9月24日
磯長山(しながさん) 叡福寺
「聖徳皇太子磯長御廟」の石柱
空海・良忍・親鸞・日蓮・一遍など新仏教の開祖となった僧たちが、聖徳太子の墓所があるこの寺に参籠したことが知られている
令和3年は、聖徳太子が斑鳩の宮において薨去されてより1400年の聖記にあたる
南大門
天正2年(1574年)織田信長による兵火で焼かれ、慶長年間に再建
額には「聖徳廟」 内閣総理大臣 岸信介謹書とある
「仁王像」
叡福寺縁起
手水舎
宝塔(重要文化財)
承応元年(1652年)の再建
本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の三尊像、西面に金剛界の大日如来を安置
重文の多宝塔があるとは知らなかっただけに嬉しい
金堂(大阪府指定文化財)
享保17年(1732年)に再建 本尊は如意輪観音坐像
聖徳太子の本地が観世音菩薩であるという平安朝以来の信仰に基づいている
礼拝座
金堂前に「礼拝石」が置かれている
額には山号の「磯長山(しながさん)」
聖霊殿 <太子堂>(重要文化財)
聖徳太子16歳植髪等身像と南無仏太子2歳像が祀られている
今回の旅でいくつか訪れたいと思っている場所があった
その一つの「聖徳太子廟」が遠くに見える
二天門
四天王のうち二天が守護している
拝所
聖徳太子御廟
聖徳太子自らが廟所として選定された「磯長廟(しながびょう)」
大和から二上山を越えて河内に入った丘陵を利用した円墳(高さ7.2m、直径54.3m)で、内部は横穴式石室になっている
推古30年(622)太子が49歳で薨去された後、前日に亡くなった妃 膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)と……
2か月前に亡くなった母 穴穂部間人( あなほのべのはしひと)皇后と共に埋葬され、三骨一廟といわれるようになった
その思想は、阿弥陀三尊が人間の姿となりこの世に現れ人々を救うという、太子信仰の象徴となった
この御廟には、空海や親鸞、叡尊、良忍、一遍、證空、日蓮など諸賢聖のほか、名僧が参籠し、日本の大乗仏教の聖地として栄えた
このエリアのみ宮内庁管轄となる
彫刻も素晴らしい
周辺を散策してみる
念仏堂
弘法大師堂
本尊の弘法大師像(60歳)は、自ら三鈷をもって刻まれたと伝えられている
弘法大師は、太子廟参籠(弘仁元年・810年)の折、阿弥陀三尊を感得され、第三発光地の境地に至ったという
弘法大師像
見真大師堂
本尊は親鸞聖人坐像
聖人が88歳で御参籠の折、自らこの像を刻んで遺された
親鸞聖人は「迷える風愚範宴に、求通のみちを教えたまえ」とこの廟窟に祈願したと言われている
良忍上人(聖応大師)記念廟
経蔵
六角形の建物で、多くの写経典類が納められている
鐘楼(大阪府指定文化財)
聖徳太子廟に一礼して駐車場に戻る
撮影 令和2年9月24日
磯長山(しながさん) 叡福寺
「聖徳皇太子磯長御廟」の石柱
空海・良忍・親鸞・日蓮・一遍など新仏教の開祖となった僧たちが、聖徳太子の墓所があるこの寺に参籠したことが知られている
令和3年は、聖徳太子が斑鳩の宮において薨去されてより1400年の聖記にあたる
南大門
天正2年(1574年)織田信長による兵火で焼かれ、慶長年間に再建
額には「聖徳廟」 内閣総理大臣 岸信介謹書とある
「仁王像」
叡福寺縁起
手水舎
宝塔(重要文化財)
承応元年(1652年)の再建
本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の三尊像、西面に金剛界の大日如来を安置
重文の多宝塔があるとは知らなかっただけに嬉しい
金堂(大阪府指定文化財)
享保17年(1732年)に再建 本尊は如意輪観音坐像
聖徳太子の本地が観世音菩薩であるという平安朝以来の信仰に基づいている
礼拝座
金堂前に「礼拝石」が置かれている
額には山号の「磯長山(しながさん)」
聖霊殿 <太子堂>(重要文化財)
聖徳太子16歳植髪等身像と南無仏太子2歳像が祀られている
今回の旅でいくつか訪れたいと思っている場所があった
その一つの「聖徳太子廟」が遠くに見える
二天門
四天王のうち二天が守護している
拝所
聖徳太子御廟
聖徳太子自らが廟所として選定された「磯長廟(しながびょう)」
大和から二上山を越えて河内に入った丘陵を利用した円墳(高さ7.2m、直径54.3m)で、内部は横穴式石室になっている
推古30年(622)太子が49歳で薨去された後、前日に亡くなった妃 膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)と……
2か月前に亡くなった母 穴穂部間人( あなほのべのはしひと)皇后と共に埋葬され、三骨一廟といわれるようになった
その思想は、阿弥陀三尊が人間の姿となりこの世に現れ人々を救うという、太子信仰の象徴となった
この御廟には、空海や親鸞、叡尊、良忍、一遍、證空、日蓮など諸賢聖のほか、名僧が参籠し、日本の大乗仏教の聖地として栄えた
このエリアのみ宮内庁管轄となる
彫刻も素晴らしい
周辺を散策してみる
念仏堂
弘法大師堂
本尊の弘法大師像(60歳)は、自ら三鈷をもって刻まれたと伝えられている
弘法大師は、太子廟参籠(弘仁元年・810年)の折、阿弥陀三尊を感得され、第三発光地の境地に至ったという
弘法大師像
見真大師堂
本尊は親鸞聖人坐像
聖人が88歳で御参籠の折、自らこの像を刻んで遺された
親鸞聖人は「迷える風愚範宴に、求通のみちを教えたまえ」とこの廟窟に祈願したと言われている
良忍上人(聖応大師)記念廟
経蔵
六角形の建物で、多くの写経典類が納められている
鐘楼(大阪府指定文化財)
聖徳太子廟に一礼して駐車場に戻る
撮影 令和2年9月24日
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