蔵の街・喜多方より、本日市内、松山公民館に於いて公開講座・歴史学習会「会津の贋金づくり」についての講座が開かれました。画像が公民館2階の研修室です。約50名近かったと思います。講師は(会北史談会会長)の川口 芳昭先生。講座は松山公民館の遊学カレッジ(公民館の学習グループ)の8月講座です、本日は一般の方にも公開されました。大勢の方が受講されまして私もその内の一人です。
会津の贋金札について。 以下川口先生の資料より抜粋・引用です。
幕末の会津藩は京都守護職などで出費が嵩み藩財政が苦しくなります。(在京の藩兵1000名)幕府からは月1万両と米2000俵の支給の約束だったのですが、是も守られなかったそうです。当時の会津藩は23万石~後28万石。全国260余藩の中では大藩で加賀120万石や島津藩には遠く及ばずとも上位15位に在ったそうです。さらに親藩ですから、出費も嵩みます蝦夷地警護・三浦半島警護などの任務もありました。藩でも財政対策として年貢の増微や寸志金の強要など、寸志金上納額により、農民町民でも羽織を許す・脇差を許す・などがあり、5両でかみしも・20両で苗字・50両で帯刀御免などがあります。当人一代限りなそうです。
そこで、贋金造りがはじまります。幕府の許しを得てはじまったようです。文久3年(1863)~慶応3年(1867)明治元年(1868)にかけて会津藩では江戸深川下屋敷・若松城内西御丸蝋蔵に鋳造所を設け密造を行いました。その上納額は60万両に達し藩財政におおいに役立ちます。新政府になり、勿論禁止されます、全国で贋金造りは行われていたようで、各藩にたいしてはお咎めはなかったそうです。以後取り締まりが厳しくなり罰せられます。新政府は悪金回収の為、贋金引き換えを行いました。一人一回一度だけ・100両につき金札30両(太政官札)(民部省札)と引き換えを行いました。その時府藩県別・贋金引換え額が最も多かったのが、若松県です。次いで伊那・新潟・柏崎・岩鼻・と続きます。(岩鼻・・聞いたことないので誤字でしょうか?教えてください)全国にまたがります。その時に若松県民から出された贋金総額は18万両近くそれが引換金札額5万3000両と換金されます。
贋金造りはその後も各地、民間でも続きますが簡単に鋳造型が出来たようです。取り締まりも厳しくなり、偽造処罰者(偽造及び行使)が多く出ます。明治3年には若松県だけで、死罪約65名・流罪約60名と多くの処罰者が出ました。4年以降は少なくなります。
会津の贋金札について。 以下川口先生の資料より抜粋・引用です。
幕末の会津藩は京都守護職などで出費が嵩み藩財政が苦しくなります。(在京の藩兵1000名)幕府からは月1万両と米2000俵の支給の約束だったのですが、是も守られなかったそうです。当時の会津藩は23万石~後28万石。全国260余藩の中では大藩で加賀120万石や島津藩には遠く及ばずとも上位15位に在ったそうです。さらに親藩ですから、出費も嵩みます蝦夷地警護・三浦半島警護などの任務もありました。藩でも財政対策として年貢の増微や寸志金の強要など、寸志金上納額により、農民町民でも羽織を許す・脇差を許す・などがあり、5両でかみしも・20両で苗字・50両で帯刀御免などがあります。当人一代限りなそうです。
そこで、贋金造りがはじまります。幕府の許しを得てはじまったようです。文久3年(1863)~慶応3年(1867)明治元年(1868)にかけて会津藩では江戸深川下屋敷・若松城内西御丸蝋蔵に鋳造所を設け密造を行いました。その上納額は60万両に達し藩財政におおいに役立ちます。新政府になり、勿論禁止されます、全国で贋金造りは行われていたようで、各藩にたいしてはお咎めはなかったそうです。以後取り締まりが厳しくなり罰せられます。新政府は悪金回収の為、贋金引き換えを行いました。一人一回一度だけ・100両につき金札30両(太政官札)(民部省札)と引き換えを行いました。その時府藩県別・贋金引換え額が最も多かったのが、若松県です。次いで伊那・新潟・柏崎・岩鼻・と続きます。(岩鼻・・聞いたことないので誤字でしょうか?教えてください)全国にまたがります。その時に若松県民から出された贋金総額は18万両近くそれが引換金札額5万3000両と換金されます。
贋金造りはその後も各地、民間でも続きますが簡単に鋳造型が出来たようです。取り締まりも厳しくなり、偽造処罰者(偽造及び行使)が多く出ます。明治3年には若松県だけで、死罪約65名・流罪約60名と多くの処罰者が出ました。4年以降は少なくなります。
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