マクロス外伝大本営 新統合軍極東太平洋軍管区司令部

マクロスやロボット大好きなブログです。二次創作などを主にやります。

公式ではなく非公式です。

コタツ買いました

2017-11-08 17:31:24 | 日記
自分は出したというより親に買ってあげました。
バイト代で。

結構暖かく家族愛用の品になっております。
1万円ぐらいで購入しました、使いやすくていいですよ。
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小笠原長時

2017-11-08 17:27:56 | 戦国武将・戦国姫図鑑
小笠原長時
【諱】
長時
【苗字】
小笠原
【朝臣】

【生没】
1511年ー1583年
【通称】
又二郎
【父親】
小笠原長棟
【母親】
浦野弾正忠の娘
【兄弟】
小笠原信定
小笠原清鑑
小笠原洞雪斎
小笠原統虎
妹(藤沢頼親室)
【正室】
仙操院殿
【子息】
小笠原長隆
小笠原貞次
小笠原貞慶
【解説】
信濃守護小笠原長棟の嫡男として生まれる。
信濃守護だけではなく小笠原流弓馬術礼法宗家でり、信濃四大将の一人である。
父の出家に伴い家督を相続し、小笠原一族を率いるようになる。
同じ年に家督を相続した同族である武田晴信が信濃へ進攻する。
高遠頼継・藤沢頼親ら国人を攻めたて、親戚である藤沢頼親を支援した事で武田家と交戦する。
龍ヶ崎城で抵抗するが武田家重臣板垣信方の軍勢により攻め落とされる。
小笠原流弓馬礼法宗家もあり優れた武将である長時であるが、統率に欠けたのが敗因のようである。
村上義清が上田原の戦いで武田家を撃退し村上義清や仁科盛能、藤沢頼親と共に攻勢に出る。

しかし

塩尻峠の戦いで敗退し居城林城を失い没落するが同族である京都小笠原氏の小笠原稙盛を介して将軍足利義輝に馬を献上している。
しばらくは同行は不明だが、同族である三好長慶と共に上洛し。
当時人質であった細川昭元に馬術を教えている。
先祖伝来の小笠原流弓馬術礼法の伝統を絶やさないために同族で赤沢経直こと小笠原貞経を教えるが。
小笠原流が二つに分裂する事になる。
三好義継と松永久秀らが擁立した将軍足利義栄に献上するが織田信長が上洛し足利義昭が将軍になり。
本圀寺の変で弟の信定が参加し、戦死している。
その後上杉家につかえ上杉景虎の使者になるが、上杉景勝が当主になり織田信長に転向する。
更に蘆名盛氏に仕え軍使的役割に徹する。

同地で亡くなるが、息子貞慶が残り本能寺の変後に徳川家康に追従し譜代大名として小笠原氏は復活し幕末に続く。
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村上義清

2017-11-08 11:34:10 | 戦国武将・戦国姫図鑑
村上義清
【諱】
義清
【苗字】
村上
【朝臣】

【生没】
1501年ー1573年
【父親】
村上顕国
【母親】
斯波義寛の娘
【正室】
小笠原長棟の娘
【子息】
村上義利
村上義勝
村上義照
村上義邦
山浦景国
女子(村上義満室)
女子(内山清宗室)
女子(村上義房室)
女子(高梨頼治室)
女子(会田清幸室)
女子(屋代政国室)
【解説】
源為国を祖とする信濃源氏村上氏の嫡流、村上顕国の嫡男として生まれる。
14歳で元服翌年に従五位下に叙位.佐渡守に任官する。
父より葛尾城を譲られ19歳で信濃村上氏の当主になる。
越後長尾氏と関係の深い名族井上氏や水内郡の高梨氏と争い関東管領と縁が深い海野氏を抑え込むなど抗争を繰り広げる。
佐久郡の大井氏を抑え込んだ武田信虎と諏訪大社の諏訪頼重と手を組み海野平の戦いで海野棟綱・真田幸綱を駆逐。
信虎を追放した後の武田信玄こと・・武田晴信と対立、上田原の戦いで板垣信方と甘利虎泰.才間河内守を討ち取って武田軍を撃退する。
なおこの戦いで義清自ら初鹿根伝右衛門を討ち取る戦果を得ている。
更に砥石崩れで横田高松や郡内衆の渡辺雲州を始め、1000名の死傷者の損害を武田軍に与え撃退圧勝し武田氏は一時期低迷期を迎える。

しかし

海野平合戦により上野に亡命しかつては駆逐した真田幸綱は晴信への家督交代後に武田家に仕官し村上勢の武将切り崩し、調略を行う。
その結果、幸綱により砥石城は攻略され。砥石城の足軽大将で幸綱の弟は矢沢薩摩守頼綱に内通していたためであった。
これにより義清の影響力は一気に低下し、家臣の動揺を招く事になる。
なんとか常田の戦いで勝利を収めるも、家臣団の動揺は抑え難く土豪・大須賀久兵衛尉が謀反したばかりか室賀氏、屋代氏、石川氏など村上方の諸将が武田氏に降伏し一気に村上家は戦力低下し武田家優勢になり。
義清は葛尾城を一時脱出し再度体勢を整え、すぐに奪還に成功している。
流石の晴信もこの攻勢には対応しきれず甲斐へ退却してる。

しかし

態勢を整えた晴信は大軍を率いて甲府を出発し義清は窮地に追い詰められた。
抗戦能力の無くなった義清は長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後に亡命.既に小笠原長時などの小笠原氏は他国に亡命しているため信濃を制する事になるが。
信濃の長尾の影響かに接する事となり長尾氏との決戦が決定的になり川中島の戦いへの導火線となった。
義清は根知城主となり、嫡男の国清とともに上杉家臣となる。
国清は謙信の養子に迎えられて山浦姓を名乗り、上杉家第2位の地位を与えられている。
第4次川中島の戦いにおいて、義清は信玄と名前を変えた晴信と再びまみえ、信玄の弟・武田信繁を討ち取ったとされる。
信繁は仲が悪かった信玄の嫡男義信との仲介役でありまとめ役であり、討ち取った事に内紛を起こし。
信玄が今川を攻撃し北条氏と関係悪化、武田家滅亡の遠因を作る事となる。

越後根知城にて病死、享年73。
仇敵・信玄の死の5か月前であり復讐を果たす事ができなかった。
1582年に武田勝頼が自害し、武田義清や菊姫や武田信道などの一族が離散し穴山信君の子穴山信治が武田氏の後継者になるなど甲斐武田氏は事実上滅亡する。
義清の嫡男・国清は海津城代に任命され、村上氏は旧領に復帰した。
がその後主家上杉氏が東北へ移ると従い以後は山浦上杉氏として存続する。

【人物・逸話】
自ら先陣を切って敵に突撃するという逸話もあるほど武勇に長けている突撃隊長型の武将であり、家臣の中にも勇将が多く武田家を苦しめた。
実際に武勇の話は事実であり義清は武田信繁などの武田家の将を討ち取っている。
義清は長槍による槍衾戦法を得意している、他にも長槍を活用した人物はほかに斎藤道三がいる・・・
道三と並び義清は槍戦術の創始者の一人に数えられている。
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