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昭和35年1月11日(月)晴(10歳)
ぼくは、前おった西上浦小学校のほうがよいと思った。S小学校は、勉強はできるかもしれないけど、おこないは、大へんわるい。一番わるいのは、そうじだ。Y君やT君やH君などは、先生がおらないとそうじをなまける。なまけるどころか、人のじゃまをする。一番目についたのは、Y君がS君のせなかにのっていることだ。S君が、そうじをしていいたら、せなかにのって、「あっちへ行け、こっちへ行け」とY君がいったら、S君がそのとおりにする。S君は、Y君にかなわないからだろう。勉強はできてもおこないのわるいのは、大きらいだ。
昭和35年3月4日(金)曇(10歳)
四時間目の理科の時間に、電池の事をした。電池のちょくれつつなぎと、へいれつつなぎがどうして二つに分けているのだろうか、分からなくて、先生に聞いてもぼくの考えている事を言っていない。休み時間など、おしえてもらったが、まだ、まだわからない。先生から理科の事が、くわしくかいている本をかしてもらい、「ここを読んで」と言われた。よんだけどわからない。一番上のお兄さんに聞いて、やっとの事でわかり、答えがかんたんなので、ばかばかしかった。
以上は私の小学校4年生の時の日記の一部である。当時は食べる物がなくて、おなかをすかして泣いていた大きな子もいた。いじめは昔もひどかった。私自身も精神的にはしばしばいじめられたが、相撲が強かった為か、二人の兄以外から物理的にいじめられることはさほど多くなかった。鶴谷中学の時に一人で城山に登っていたら、全く知らない二人組から突然何回もなぐられた(自分の担任がその生徒をなぐったという理由で)。その時、春休みであった為か、学校もそのことで全くとりあってくれなかった。兄二人は、「校長の子かと思っていばっちょる」ということでよくいじめられていた。それでも、そのいじめた人が鶴城高校に入学する時、「保証人になって欲しい」とその父親が深々と頭を下げてきていた。つまり、いじめがあっても、親が公に口に出すことはまずなかったし、多くの場合は子ども同士で解決していた。大家族で、兄弟が多く、多くの人が貧乏で、その為子ども達は自然を大いに愛し、一日中よく遊んでいた。その上、親は、今ほど教育熱心でなかった。お金持ちになりたい、親孝行したい、いじめられたくない、勉強はしたくないなど、全く今の子どもの心境と一緒である。自分の場合、小さい時から欲のかたまりみたいなもので、夢が一杯あった。今この日記を読むと、感無量となる。その時のいろんな思いが今の自分の基礎を作ったと思う。(20年以上前に、西田病院月報に載せた内容のままです)