日本の心・さいき

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続々・とりとめのない話

2008-07-20 10:36:18 | Weblog
 今までに、いろんな試練があった。
 私の吃音(どもり)は、いつに始まったのかはっきりしない。小学校1年生の時には、どもっていなかった様だが、小学校2年生頃からどもりだした様で、全く精神的なものであっった。つまり、人前では話せないものの、家に帰って話す時とか、緊張していない時には、全くどもらないのである。人前で話す時にしても、パターンはいろいろ変わり、本を読む時には全くどもらないのに、人前で喋る時には全く話せなくなる。そうかと思うと、本を読む時にどもり、人前で話す時には、全くどもらなかったりと、パターンが変わるのである。緊張していなければどんな状態にあっても全くどもらないのはいつも同じだった。
 佐伯小学校の時、(塾には全く行かなかったが)成績のよかった自分は、人前で話したり役員にならないといけないことが多く、クラスの委員長になることが最も苦痛であった。それでも、委員長になることが多く、何度恥をかいたことか。
 小学校6年生の時、あまりにも自分のどもりがひどいので、担任の先生から、専門家の矯正を受けてはとも言われた。親は、深呼吸をしてとか、ゆっくり喋ればいいとか、いろんなアドバイスをしてくれたが全く無効であった。
 今考えれば、以上の治療法は、自分に関して言えば全て誤っていたのであり、その時、周りがほったらかしておいてくれたなら、永いこと苦しまなくてもよかったのにと思う。つまり、子どもがどもりを意識した時から、どもりを治そうした時から、どもりが始まるのであり、自分がどもることを意識させないようにうするのが本当の治療であったのだ。
 どもりはマンモス校の鶴谷中学に入っても、全く治らず、中学1年生の時に、社会の先生が、教科書を全員に読ませていたが、これが学校での最もいやなことであった。それで、社会は、小学校の時には最も好きで得意な科目であったのに、最も嫌いな科目となってしまった。国語も読むことが多い為に、嫌いであった。
 人前で普通に話せたらどんなにいいだろうかと、延々と思ってきた。高校の時には、全く人前で読めない状態になってしまった。医者になって、学者になれば(自分としては、医学部は難しいので、浪人してまで医学部に行く気はなかった)、人前で話すこともないし、いい研究さえしておれば、それで自分の能力が発揮できるだろうと思って、医学部を受験したのである(国立以外に受けなかった。それも、6回目でやっと2期校に合格したのであるが)。
 浪人生活の中では、あてられて読ませられて、見知らぬ人の前で恥をかくのが、何よりも苦痛であった。大学の時には、代読というのが簡単に出来る為(出欠の返事も、代弁が状態化していたが)、英語の時間に自分が読むようにあてられたら、代わりに読んでくれと頼んだこともあった(頼んだ人とは、今も懇意にしていて、自分の結婚式の時に、祝辞を述べて頂いたが)。
 女性から、自分がどもることを知られるのがいやでたまらなかった。服や車やその他の外見で自分を飾っても、喋ればすぐにばれるとの認識のもとに、自分を外見で飾る習慣が付いてなく、それが今でも続いている?(自分の価値を知ってもらっても)自分が女性にもてるなどと思ったことは、結婚するまでは全くなく、本当の自分の姿を知ればどんな女性も逃げてしまうと堅く信じていた。自分がある人を好きになっても、自分の言語障害を知れば、その女性は必ずいやになると思っていた。それで、いつも片想いであった。今の自分の妻には、自分のこのハンディーを言ったのに、(鹿児島出身の武士の家系の出の妻は、この時、鶴丸高校→鹿児島県立短大→養護学校の寮母をしていたが)全然気にしていない様子で、本当に気にしていないのか、気にしていない素振りを見せているだけなのか、それがいつも気がかりであった。どもる自分を本当に好きになってくれていることを知った時、自分の価値が本当に分かる女性がこの世にいると思い、本当に愛されていることを知って、この人以外にないと思った。
 県病の時も宮医大の時も、読むとどもる為に、学会発表では原稿を持っていても、それを見ることはなかった。宮医大の時には、しばしば(卒後1年半にして、既に文部教官になっていた為)医学生の講義をし、いつも原稿なしであった(あるとどもって話せなくなる為に、全て頭の中に入れて話す訓練が続いた)。私の講義はすこぶる好評で、「第二外科の富田教授と田原先生の講義が一番うまい!」と医学生から言われた時、そして、医学生から胴上げをされた時、自分の生きる道は、大学に残っての医学生の為の教育だと思った(小児科病棟で、宮医大生の一人一人に、手取り足取り、聴診や触診や打診を教えていた)。
 教師とは、教師が身を持って示すのが本道だと思っていたので、「医師とは、患者の為に存在するもの、若い時に医師が患者の為に最高に出来ることとは、研究ではなく、そんな暇があれば、体力があるのだから、急患の一人でも診た方が世の中の為になる」との価値観のもとに、(新生児・未熟児医療を含む小児の救急医療が最も遅れていると思われる)大分県南の自分の故郷佐伯に帰ることにした。しかし、その時、自分の最も好きな直に医学生に教える教育と言うものを捨てなければならなかった為、残念でならなかったが、人間何かをしようとする時には、必ず何かを捨てなければならないとも思い直して、佐伯に帰ってきたのである。県南で最も遅れている新生児・未熟児を含む小児救急と大学で学んだ先天性心疾患の早期発見を体の続く限りしようと思って、大学を去ったのである。
 平成2年5月12日に、佐伯カトリック幼稚園で、「21世紀をよりよく生きる為に」と題して、親御さんの前でペラペラと自分を例にとって講演をした。幸せであった。


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続・とりとめのない話

2008-07-20 10:34:32 | Weblog
 医師として自分が適確か、これに自分は悩んでいた。大学に入学した当時は、自分も受験の落とし子だったかなあと思っている。専門1年と2年で基礎医学を学んでいる時は、医者よりも大学に残って学者になりたいと思っていた様だったが、専門3年と4年で臨床修練をする様になると、臨床医にも憧れる様にもなった。正直、入学時には、クラスの半分近くが、(自分も含めて)医師としてどうかなあと思っていた。
 二期校コンプレックスで、もう一度受け直すと言う人が結構いた(夏休みが終わる頃になると、少なくなったが)。まかり間違ってここに来てしまったって感じで言う人もいた(が、教養1年での前期の試験が終わった頃になると、それも消失)。いつまでも、自分は秀才だと言い続けていた人もいた(が、専門課程でしばしば追試を受けることが多くなると、ピタッと言わなくなっていたかな)。しかし、時間と共に、受験により作られた間違った呪縛が、次第に崩れて行った。
 医学部の場合、6年間もあると、出来る人と出来ない人の差、大きい。(実技のない)医師国家試験の実力と、実際の力は、私自身は、余り関係ないと思っている。例えば、心電図は読めても、コミュニケーションの取り方や患者さんの受けは、別物。医師の場合、病名が付かなくてもそれなりに決断しないといけないことが多い。
 医師になり、30年経って、久し振りに同窓会で会ってみると、何やかんや言っていろんな問題があっていた人も、スッキリと水に流された感じで、皆、立派な医師になっていた。昔スゴイ秀才だった人も、何年も留年し続けていた人も、殆ど関係なしって感じになっていた。つまり、長い年月を伴ったいろんな体験が立派なプロたらしめているのだ。
 勤務医は勤務医で、開業医は開業医で、研究医は研究医で、それなりにプライドを持っている。性格が暗かった人も、別人の様に明るくなっていた。
 教師にしても、同じだと思う。いろんな現場の経験から、一つずつモノにしていけると思う。同僚の教師よりも、受け持ちの生徒から学べることの方が多いはず。出来る子よりも、落ちこぼれの子どもから学べることの方が多いはず。そして、親御さんからも沢山学べるはず。その時に大切なことは、自分が絶対に正しいと思うことをせずに、沢山の人から聴く耳を持つことだと思う。相手の立場に立って考えられるゆとりを持てることが大切だと思う。
 自分が中学の時は、1学年500人以上もいて、県南では最大数の学校だった。11クラスもあったせいか、クラス毎の成績を気にする教師が多かった。
 自分のクラスの担任は、技術家庭科のK先生だったが、野球部の監督をしていて、それに一生懸命って感じの先生だった。数学には、新米のM先生が教えに来た。初めの先生の自己紹介の時間に、黒板に、趣味の所に「パチンコ」と書いていたのを、グルグル回って見に来ていたH校長(その後、佐伯鶴城高校の校長になる)が、サッとその部分を消して何も言わずに立ち去ったのを今でもしっかりと覚えている。この新米のM先生、数学では、採用試験で1番だったとの噂だったが、黒板を見て話し、それも早口で言うので分かりにくかった。授業が終わると自分が質問すると思って走って逃げていて、自分はそんな先生をよく追い掛けていた。で、トレイに入り込んで、出てくるのを待っていたこともあったが、人のいい先生で、尋ねると親切に早口でいつまでも教えてくれていた(クラスでの評判は最悪であったが)。
 隣の担任の先生で、社会が専門のK’先生がいた。自分の社会のY先生も学年長でいい先生だったが、このK’先生の授業は素晴らしいと受け持たれていた隣のクラスの(自分の友達の)S君(彼は、その後、附属中学→上野丘高校→東大→大学教官と進み、今も毎年、個性的な年賀状を頂いているが)が、しばしば話していた。黒板に書かれたのを書き写した彼のノートを見て、凄いなあと感心していた。自分は軟式テニスに入っていたが、このK’先生は、テニス部の顧問で、自分とははるか遠い存在の様に思っていた。案の定、翌年、附属の先生として転勤されて行った。
 学校がマンモス校だけに、警察沙汰になったり、いじめがあったり、いろんなことがあった。そんな中でも、学べることが一杯あったと思う。新米の先生の中でも、理科の第2分野のH先生、初めの試験問題、時間も足りなくて、問題も良くなかったけど、飛躍的に進歩をして、1年後には、全く違った感じの先生に変身していたなあ。
 教師から教えてもらった教科の具体的な内容のことは殆ど覚えていないが、今でもはっきりと思い出せるのは、個性的な先生。それ等の先生の生き方(意気込みや個性的な動作など)が、しっかりと脳裏に刻まれている。


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