今までに、いろんな試練があった。
私の吃音(どもり)は、いつに始まったのかはっきりしない。小学校1年生の時には、どもっていなかった様だが、小学校2年生頃からどもりだした様で、全く精神的なものであっった。つまり、人前では話せないものの、家に帰って話す時とか、緊張していない時には、全くどもらないのである。人前で話す時にしても、パターンはいろいろ変わり、本を読む時には全くどもらないのに、人前で喋る時には全く話せなくなる。そうかと思うと、本を読む時にどもり、人前で話す時には、全くどもらなかったりと、パターンが変わるのである。緊張していなければどんな状態にあっても全くどもらないのはいつも同じだった。
佐伯小学校の時、(塾には全く行かなかったが)成績のよかった自分は、人前で話したり役員にならないといけないことが多く、クラスの委員長になることが最も苦痛であった。それでも、委員長になることが多く、何度恥をかいたことか。
小学校6年生の時、あまりにも自分のどもりがひどいので、担任の先生から、専門家の矯正を受けてはとも言われた。親は、深呼吸をしてとか、ゆっくり喋ればいいとか、いろんなアドバイスをしてくれたが全く無効であった。
今考えれば、以上の治療法は、自分に関して言えば全て誤っていたのであり、その時、周りがほったらかしておいてくれたなら、永いこと苦しまなくてもよかったのにと思う。つまり、子どもがどもりを意識した時から、どもりを治そうした時から、どもりが始まるのであり、自分がどもることを意識させないようにうするのが本当の治療であったのだ。
どもりはマンモス校の鶴谷中学に入っても、全く治らず、中学1年生の時に、社会の先生が、教科書を全員に読ませていたが、これが学校での最もいやなことであった。それで、社会は、小学校の時には最も好きで得意な科目であったのに、最も嫌いな科目となってしまった。国語も読むことが多い為に、嫌いであった。
人前で普通に話せたらどんなにいいだろうかと、延々と思ってきた。高校の時には、全く人前で読めない状態になってしまった。医者になって、学者になれば(自分としては、医学部は難しいので、浪人してまで医学部に行く気はなかった)、人前で話すこともないし、いい研究さえしておれば、それで自分の能力が発揮できるだろうと思って、医学部を受験したのである(国立以外に受けなかった。それも、6回目でやっと2期校に合格したのであるが)。
浪人生活の中では、あてられて読ませられて、見知らぬ人の前で恥をかくのが、何よりも苦痛であった。大学の時には、代読というのが簡単に出来る為(出欠の返事も、代弁が状態化していたが)、英語の時間に自分が読むようにあてられたら、代わりに読んでくれと頼んだこともあった(頼んだ人とは、今も懇意にしていて、自分の結婚式の時に、祝辞を述べて頂いたが)。
女性から、自分がどもることを知られるのがいやでたまらなかった。服や車やその他の外見で自分を飾っても、喋ればすぐにばれるとの認識のもとに、自分を外見で飾る習慣が付いてなく、それが今でも続いている?(自分の価値を知ってもらっても)自分が女性にもてるなどと思ったことは、結婚するまでは全くなく、本当の自分の姿を知ればどんな女性も逃げてしまうと堅く信じていた。自分がある人を好きになっても、自分の言語障害を知れば、その女性は必ずいやになると思っていた。それで、いつも片想いであった。今の自分の妻には、自分のこのハンディーを言ったのに、(鹿児島出身の武士の家系の出の妻は、この時、鶴丸高校→鹿児島県立短大→養護学校の寮母をしていたが)全然気にしていない様子で、本当に気にしていないのか、気にしていない素振りを見せているだけなのか、それがいつも気がかりであった。どもる自分を本当に好きになってくれていることを知った時、自分の価値が本当に分かる女性がこの世にいると思い、本当に愛されていることを知って、この人以外にないと思った。
県病の時も宮医大の時も、読むとどもる為に、学会発表では原稿を持っていても、それを見ることはなかった。宮医大の時には、しばしば(卒後1年半にして、既に文部教官になっていた為)医学生の講義をし、いつも原稿なしであった(あるとどもって話せなくなる為に、全て頭の中に入れて話す訓練が続いた)。私の講義はすこぶる好評で、「第二外科の富田教授と田原先生の講義が一番うまい!」と医学生から言われた時、そして、医学生から胴上げをされた時、自分の生きる道は、大学に残っての医学生の為の教育だと思った(小児科病棟で、宮医大生の一人一人に、手取り足取り、聴診や触診や打診を教えていた)。
教師とは、教師が身を持って示すのが本道だと思っていたので、「医師とは、患者の為に存在するもの、若い時に医師が患者の為に最高に出来ることとは、研究ではなく、そんな暇があれば、体力があるのだから、急患の一人でも診た方が世の中の為になる」との価値観のもとに、(新生児・未熟児医療を含む小児の救急医療が最も遅れていると思われる)大分県南の自分の故郷佐伯に帰ることにした。しかし、その時、自分の最も好きな直に医学生に教える教育と言うものを捨てなければならなかった為、残念でならなかったが、人間何かをしようとする時には、必ず何かを捨てなければならないとも思い直して、佐伯に帰ってきたのである。県南で最も遅れている新生児・未熟児を含む小児救急と大学で学んだ先天性心疾患の早期発見を体の続く限りしようと思って、大学を去ったのである。
平成2年5月12日に、佐伯カトリック幼稚園で、「21世紀をよりよく生きる為に」と題して、親御さんの前でペラペラと自分を例にとって講演をした。幸せであった。
私の吃音(どもり)は、いつに始まったのかはっきりしない。小学校1年生の時には、どもっていなかった様だが、小学校2年生頃からどもりだした様で、全く精神的なものであっった。つまり、人前では話せないものの、家に帰って話す時とか、緊張していない時には、全くどもらないのである。人前で話す時にしても、パターンはいろいろ変わり、本を読む時には全くどもらないのに、人前で喋る時には全く話せなくなる。そうかと思うと、本を読む時にどもり、人前で話す時には、全くどもらなかったりと、パターンが変わるのである。緊張していなければどんな状態にあっても全くどもらないのはいつも同じだった。
佐伯小学校の時、(塾には全く行かなかったが)成績のよかった自分は、人前で話したり役員にならないといけないことが多く、クラスの委員長になることが最も苦痛であった。それでも、委員長になることが多く、何度恥をかいたことか。
小学校6年生の時、あまりにも自分のどもりがひどいので、担任の先生から、専門家の矯正を受けてはとも言われた。親は、深呼吸をしてとか、ゆっくり喋ればいいとか、いろんなアドバイスをしてくれたが全く無効であった。
今考えれば、以上の治療法は、自分に関して言えば全て誤っていたのであり、その時、周りがほったらかしておいてくれたなら、永いこと苦しまなくてもよかったのにと思う。つまり、子どもがどもりを意識した時から、どもりを治そうした時から、どもりが始まるのであり、自分がどもることを意識させないようにうするのが本当の治療であったのだ。
どもりはマンモス校の鶴谷中学に入っても、全く治らず、中学1年生の時に、社会の先生が、教科書を全員に読ませていたが、これが学校での最もいやなことであった。それで、社会は、小学校の時には最も好きで得意な科目であったのに、最も嫌いな科目となってしまった。国語も読むことが多い為に、嫌いであった。
人前で普通に話せたらどんなにいいだろうかと、延々と思ってきた。高校の時には、全く人前で読めない状態になってしまった。医者になって、学者になれば(自分としては、医学部は難しいので、浪人してまで医学部に行く気はなかった)、人前で話すこともないし、いい研究さえしておれば、それで自分の能力が発揮できるだろうと思って、医学部を受験したのである(国立以外に受けなかった。それも、6回目でやっと2期校に合格したのであるが)。
浪人生活の中では、あてられて読ませられて、見知らぬ人の前で恥をかくのが、何よりも苦痛であった。大学の時には、代読というのが簡単に出来る為(出欠の返事も、代弁が状態化していたが)、英語の時間に自分が読むようにあてられたら、代わりに読んでくれと頼んだこともあった(頼んだ人とは、今も懇意にしていて、自分の結婚式の時に、祝辞を述べて頂いたが)。
女性から、自分がどもることを知られるのがいやでたまらなかった。服や車やその他の外見で自分を飾っても、喋ればすぐにばれるとの認識のもとに、自分を外見で飾る習慣が付いてなく、それが今でも続いている?(自分の価値を知ってもらっても)自分が女性にもてるなどと思ったことは、結婚するまでは全くなく、本当の自分の姿を知ればどんな女性も逃げてしまうと堅く信じていた。自分がある人を好きになっても、自分の言語障害を知れば、その女性は必ずいやになると思っていた。それで、いつも片想いであった。今の自分の妻には、自分のこのハンディーを言ったのに、(鹿児島出身の武士の家系の出の妻は、この時、鶴丸高校→鹿児島県立短大→養護学校の寮母をしていたが)全然気にしていない様子で、本当に気にしていないのか、気にしていない素振りを見せているだけなのか、それがいつも気がかりであった。どもる自分を本当に好きになってくれていることを知った時、自分の価値が本当に分かる女性がこの世にいると思い、本当に愛されていることを知って、この人以外にないと思った。
県病の時も宮医大の時も、読むとどもる為に、学会発表では原稿を持っていても、それを見ることはなかった。宮医大の時には、しばしば(卒後1年半にして、既に文部教官になっていた為)医学生の講義をし、いつも原稿なしであった(あるとどもって話せなくなる為に、全て頭の中に入れて話す訓練が続いた)。私の講義はすこぶる好評で、「第二外科の富田教授と田原先生の講義が一番うまい!」と医学生から言われた時、そして、医学生から胴上げをされた時、自分の生きる道は、大学に残っての医学生の為の教育だと思った(小児科病棟で、宮医大生の一人一人に、手取り足取り、聴診や触診や打診を教えていた)。
教師とは、教師が身を持って示すのが本道だと思っていたので、「医師とは、患者の為に存在するもの、若い時に医師が患者の為に最高に出来ることとは、研究ではなく、そんな暇があれば、体力があるのだから、急患の一人でも診た方が世の中の為になる」との価値観のもとに、(新生児・未熟児医療を含む小児の救急医療が最も遅れていると思われる)大分県南の自分の故郷佐伯に帰ることにした。しかし、その時、自分の最も好きな直に医学生に教える教育と言うものを捨てなければならなかった為、残念でならなかったが、人間何かをしようとする時には、必ず何かを捨てなければならないとも思い直して、佐伯に帰ってきたのである。県南で最も遅れている新生児・未熟児を含む小児救急と大学で学んだ先天性心疾患の早期発見を体の続く限りしようと思って、大学を去ったのである。
平成2年5月12日に、佐伯カトリック幼稚園で、「21世紀をよりよく生きる為に」と題して、親御さんの前でペラペラと自分を例にとって講演をした。幸せであった。