日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

久し振りの看護学校講義

2006-09-08 19:29:56 | Weblog
 久し振りの看護学校の講義だった。14時50分から始まって、16時30分まで、途中数分休んで、いつもの様に、ビッチリした。
 始まる前に、いつもの様に、1学期の最後にした悪性腫瘍の内容の試験を10問、その後、スライドを80枚使用し、途中で、自分の取ったテープで、クループの咳と猫泣き症候群の泣き声を聞かせた。最後に、20問の国師類似の試験。
 スライドは、まだ、1学期の11回の講義で、一度もしていなかったので、今日は、総論のスライド。看護学校にある器械でしたのだが、写りは、もう一って感じ(佐伯から、自分のを持って来た方がいいのか?)。40人の中で、寝ている人が、3人いた。
 3人の妊婦(真ん中が家内)でのショット写真、ちょうど1年後、同じ場所で、三人共、子どもを抱いて、6人でショット(並ぶ家族の順番は、常に同じ)。その後、私が佐伯に帰ったので、更に1年後、何と、子どもが又、一人増えて、7人でショット。3年後、更に4人子どもが増えて、11人でショット。学生、笑っていた。又、お産直前の自分の緊張した顔を出したら、大笑いだった。発達を自分の子どもを使って、説明。自分で見ていて、懐かしかったし、楽しかった。
 県病院での症例(入院169例)、大学病院での症例(入院135例)、西田病院での症例(入院8.956例)、統計を出して、説明。12月まで、残り10回、こんな感じでスライド中心での講義が続くのだが・・・。


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ある統計

2006-09-08 11:59:39 | Weblog

 昭和52年の大分県の乳児死亡率11.6、新生児死亡率8.9、周産期死亡率18.7は、それぞれ、全国で、ワースト4位、ワスト1位、ワースト2位であった。常に、大分県は、ワースト10に入っている感じであった(統計の取り方が、今と、若干違っているが)。
 (大分県環境保険部による資料によれば)大分県の中で、市別に見てみると、昭和49年~昭和53年の周産期死亡率(乳児死亡率)の平均では、大分市16.8(10.7)、別府市18.8(11.8)、中津市14.8(9.3)、日田市20.9(7.4)、佐伯市22.7(12.0)、臼杵市20.0(10.0)、津久見市28.4(19.4)、竹田市18.1(17.4)、豊後高田市20.7(10.4)、杵築市15.6(11.9)、宇佐市15.4(8.6)であった。
  それが、昭和55年3月末から、医療法人西田病医に、ベビールームに代わって、「新生児・未熟児センター」が、創立され、大分医大が、昭和56年の暮れより診療を始め、その後、しばらくして、県病の新生児・未熟児センターが次第に充実して行き、昭和60年には、何と、大分県が乳児死亡率4.2で、全国1位、新生児死亡率2.3で、全国1位、周産期死亡率8.0で、全国5位の快挙となった。
  佐伯市だけについて言えば、昭和61年には、周産期死亡率が、何と、0.00になってしまった。西田病院の新生児・未熟児センターだけに付いて言えば、昭和60年~平成2年のまる5年間では、年間約500の新生児・未熟児の内、死亡数わずか、5名であった(奇形児や26週未満の場合、どうしても、救えない)。

追加:県病の新生児・未熟児医療が、どんどん充実して行き(医師同乗の新生児用のベビーカーが、365日24時間、県下中、要請可能となった)、自分の体力の限界も感じる様になったので、平成2年11月に、西田病院を辞職して、開業した。佐伯市長さんが、公の席で、「大分県は、今、赤ちゃんの成績が、全国でも、トップクラスになっていますが、その中でも、佐伯市が一番いい成績になっています」と言われた。

更に追加:その後、平成4年に、乳児死亡率が、ワースト1位、新生児死亡率が、ワースト2位、周産期死亡率が、ワースト18位となり、その原因を巡って、県の方で、会合が開かれた。
(現在、日本の乳児死亡率、新生児死亡率、周産期死亡率は、世界トップレベルとなっている)




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ある子どもの死

2006-09-08 07:59:25 | Weblog
医師になって、1年半経った頃、私の勤務先が宮崎の県病から宮崎医科大学に移ってしばらく経った或る初秋の日、私が県病で主治医として見ていた女児(入院当時、3歳)の両親から、次の様な手紙を頂いた。

父親より(原文のまま)
 早速のお手紙ありがとうございました。私は来年の一月に宮崎医大に入院するのを期待していたのですが、それも叶わず残念でなりません。田原先生に全てを託していたのに、最後は、○○先生に見とられて永眠したことが悔やまれてなりません。○○先生も最善を尽くしたことには感謝しております。
 しかし、○子が白血病と診断された時に、一応はあきらめもしましたし、覚悟もできていました。しかし、あのように一命をとりとめ寛解の状態にまでなり、自宅療養で動物園等へも行けたのも全て田原先生のおかげだったと思っております。だから私も○子も全てを田原先生に託したのであり、最後も先生に見とられてと考えていました。死んだその日にも、田原先生が研究のために○子が必要であれば、献体してもいいと家内と話したものです。
 しかし、すべてはもう終わりました。
 今ようやく、四十九日を済ませ、なんとか通常の生活にもどりつつあります。今後も、いろんな苦難が待ち受けているかも知れませんが、○子を亡くしたことを考えれば、どういう苦難も乗り越える自信がつきました。
 田原先生には、本当にお世話になり、何とお礼を言っていいのかわかりませんが、○子みたいな子供ができないように研究に頑張って下さい。まずは、お礼まで。

母親より(原文のまま)
 立冬というだけのことはありまして、急に寒くなりました。
 ○子の四十九日をすませて、ようやく、あたりを見まわす余裕ができました。田原先生から、さっそくお便りがいただけて、すぐにでも返事を書こうと思いながら・・・反面書きたいことがあまりにも多すぎて気持ちの整理ができずに、返事をずるずると延ばしておりました。
 チアノーゼが腕に出ていたので、酸素テントをしてもらいました。○子は少し楽になったか、大きく目を開きました。死がそんなにも近くに来ているとは夢にも疑わす、我が子だけは助かるんだという確信で平静でした。時おり、吐くだけで苦しがりもせず、静かに静かに死の世界へ歩んだようです。一瞬目をそらしているすきに呼吸が止まりました。部長先生も心臓マッサージ(?)をして下さいました。主人が部屋についた時と同時に死の決定がありました。
 いろいろ考えると悔やまれることもありますが、痛みの期間が短かったので、○子はしあわせだったかもしれません。強いてそのように考えることにしています。あと一週間○子の様子が変化しなければ、私は仕事を止めて看病に専念する覚悟もできていましたが、教育の仕事を懸命に努力せよという○子の意志だったのかもしれません。奥様にもよくしていただいてありがとうございました。

 白血病で約一年間、全く再発しなかったこの子どもの死は、かけだしの私にとっては、かなりショックであった。この子どもの死を知った日、私は、布団の中で一晩中泣いていた。
 この子どもが亡くなる前の残暑見舞いが、両親の名前で多くの人に出されたらしく、私の家内宛にも届いている。

残暑お見舞申し上げます。
立秋とはいえ暑さが続いていますが、如何お過ごしでしょうか。
さて、今年の一月、娘の○子が病に倒れ、県病で入院生活を続けておりましたが、先月二十日に、二カ月間の家庭療養が許可され、六カ月ぶりに一家団らんの生活をしています。現在は、家族一同最上の幸福を感じています。まだ長引きそうで合うが、ここまで快復したのも皆様の激励のたまものと思っております。
今後とも最善を尽くして看病にあたりたいと思います。暑さ厳しい折御自愛を祈ります。

 その印刷のハガキにペンの添え書きで、「雲天の午後、子供の国に連れていきました。元気にとびまわって親を安心させてくれました」と、親の愛情がしるされていた。
 この子どもの死ほど、私に主治医というものの重大さを感じさせたものはなかった。どんなに医学が進もうと、患者が医師を信じることこそ、医療の原点だと思った。そして、医者たるものの第一条件は、患者の身になって命懸けで医療に取り組むことだと痛感した。
 今まで、いろんな経験をしてきたが、この時の出来事が、今でも、脳裏にしっかりと焼き付いている。


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相手の身になって

2006-09-07 17:02:09 | Weblog
 ある動物園に、人気者のカバ君がいました。ところが、このカバ君、どうした訳か、毎日、夕方になると、暴れる様になったのです。
 あれこれ調べるも、原因が分からない。誰かがいたずらする訳でもないし、食べ物のことでもない。身体の具合が悪い様にも見えない。
 思い余って、飼育係りの若い人が、「よし、それなら、ひとつ、カバ君の身になってみよう」と言って、その日の夕方、カバ君の檻の中に入って手を付き、四つんばいになって、カバ君と同じ位置に目を置いて見ました。
 するとどうでしょう、沈まんとする夕陽が、向こうにできた大きなビルのガラスに反射して、まともに顔に照りつけるではありませんか。これでは、ギラギラとまぶしくて、たまったものではありません。カバ君がイライラ、ウロウロするのも、当然だったのです。
 高い所に顔のある人間たちにとっては、低いところで味わっているカバ君の苦しみは、理解できなかったのです。カバ君と同じことをしてみて、初めて、カバ君の気持ちが理解できたのです。
 人間同士でも、同じことが言えそうです。相手の身になって物事を考える思いやりが、潤いのある人間関係を作る基本ではないでしょうか。

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私も、緊張しました。

2006-09-06 18:20:10 | Weblog
  紀子さんに、無事、待望の男児が生まれた。出生時体重2.558g、身長48.8cm。今日は、テレビは、朝から、それ一色って感じで、日本全国、お祝いムードだ。
 女女男なので、一層、嬉しいだろう。天皇陛下も、北海道にいて、車の中で、心底から嬉しそうな顔をされていた。
 秋篠宮、生まれる前の顔、緊張していた。皆、父親たるもの、同じなのだ。その時の心境を思い出した。
 第一子は、大学勤務時代、都農町立病院に出張していた時に、生まれた。早朝、医局長から、言葉少なく、「田原君、女の子だよ。元気だよ」と電話連絡があった。宮医大の産婦人科に帰ってみると、8人ほどの新生児がそこにいたが、一人だけ、保育器に入っている子がいて、それが、我が子であった。口をポカンと開けていて、色の黒い、2360gの女の子であった。
 第二子は、骨盤位で、帝王切開で生まれるはずであったが、院長が手洗いをしている時に、手術室で、生まれた。生まれた時、逆子の為、E.T.みたいな顔で、これでまともな女の娘の顔になるのだろうかと、ひどく心配したものである。
 第三子は、家内が、22時過ぎに、「まだだと思うけど、ひょっとしたら、生まれるかも知れないから」と言いだし、西田病院に電話すると、直ぐに来て下さいと言われ、行った後、全く連絡がなく、0時過ぎに、助産師さんから、「坊ちゃんですよ、先生、見に来て!」と言われたが、子どもが家に二人もいて、身動きが出来ない。この日に限って、両親のいる家に電話するも、深夜、ずっと通じず(6時過ぎにやっと通じて)、しばらくして、病院に行くと、手足の細い、二重まぶたの、口元の引き締まった、ほっそりした感じの、ハンサムな、色の白い、3.270gの男児であった。
 生まれる前、秋篠宮と同じ感じで、緊張していた。いや、家内が3番目を妊娠してから、ずっと緊張していたと思う。一人目が、小さく、二人目が骨盤位であったので、三番目に、何があっても不思議でない感じがしていた。沢山の奇形児を見てきている関係で、その心配が、日毎に、大きくなっていた。もしも、ハンディを負った子であっても、自分の子であるからして、しっかりと育て様と思って、待っていたのだ。男女の区別など、どうでも良かった。そして、生まれて来た子が、元気で、立派な姿だった為に、思わず、笑顔が出た。

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男か女か

2006-09-06 05:41:35 | Weblog
 秋篠宮家第3子が、今日の午前中に、愛育病院で生まれる。秋篠宮家では、3番目の子。多くの人が、男児と期待している。
 皇室の場合、男児が生まれるとしたら、41年振りだ。女系にするか、男系ににするか、小泉さんも、皇室典範の改正に意気込んでいたが、紀子さんが懐妊したとたん、嘘の様に、トーンが落ちてしまった。
 紀子さん、妊娠37週目に入り、部分前置胎盤な為、安全をとって帝王切開をされるさそうだが、さぞかし、男児だと、将来の天皇陛下になるだけに、スタッフも、緊張するだろうなあ。
 今まで、男女、どちからとのことで、いろんなケースを見てきている。
 一人目男、二人目男、次も男となると、父親、礼の言葉も少なく、笑顔も少ない。しかし、一人目女、二人目女、最後が、男となると、「バンザーイ」何て言って、その喜び様は、想像以上である。
 一人目女、二人目女で、三人目も女と、超音波で判断が付いていると、父親、仕事で来ていない(一人目と二人目は、しっかりと、仕事を休んで来ていたのに)。
 一人目女、二人目女で、次は、双胎で、初めに、女児が出て来た。まだ、一人いるのに、お母さん、りきむ元気がなくなってしまった。やっと、気を取り戻して、産んだ双胎のも一人は、男であった。母親、涙を流して喜んでいた。
 こんなに、生まれる時から、差があっていいのかなと思う。その気持ちを、生まれてくる子ども達は、言わないだけで、しっかりと感じ取っていると思う。
 私の子どもの場合、一人目は、女児、次も女児、で、三人目、自分としては、どちらでも良かったのだが、周りは、どうしても男児が欲しいって感じになっていた。で、その為の知恵を、母が、家内に授けていたみたいだが、・・・結果的に、男であり、周りの反応は、大きかった。と言うのも、私の両親の孫10人の内、一番初めが男で、次から、皇室みたいな感じで、ずっと9人目まで、女が続いていたから。
 私の息子は、母の住んでいる家に行くと、まず、線香をあげる。で、母は、「この子は、神様が授けてくれた子、何も言わなくても、真っ先に線香をあげる孫は、この子だけ」何て言って(他の孫も、同じことをしていると思うのだが)、喜んでいる。で、息子も、母が作った料理を食べて、「おばあちゃんの作ったのは、世界一おいしい」何て言って、母を喜ばせている。
 中医学では、妊娠初期に、脈診で、滑脈(子どもでは、頻回にある)となり、それに左右差があって、それで、男女の区別が、ある程度わかるとも言われている。超音波が発達して、高い確率で、男か女かが、わかる。ある国では、女であれば、妊娠初期で、命を絶たれるケースもあると聞く。
 しかし、ここの産科の先生、生まれるまでは、どちらか、自分から言うことは、決してしないし、積極的に教えない。それが、正解だと思う。子どもは、神聖なものであるからして、男女で、親の寵愛に差があってはいけないと思う。
 私の場合、両親は、男男女で、次は、女であって欲しかった様だ。経済的なことで、余り欲しくなく、妊娠中も、どうするか悩んでいた様だが、父親の一言「せっかくだから、産んだら」とのことで、私が生まれた様だ。父は、正に、私の命の恩人で、父が亡くなった時は、何度も、涙した。
 母は、次の子は、もう、生まれない様にと、卵管を結んでしまった。又、母の母乳が沢山出る為に、隣の家の子(その母親の母乳がでなかったので)と一緒に、私は、飲んでいたとのこと。
 私が医学部に合格した時、長兄は、母に言った(今でも、私は、はっきりと覚えている)、「お母さん、産んでて良かったなあ」と。

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小脳トレーニング

2006-09-05 07:01:47 | Weblog
 平成18年9月3日(日)の「あるある大辞典」より

 バランス力が衰えると、いろんな症状が出てくる。バランスの衰えに大きく関わっているのは、小脳で、小脳の機能が衰えると、身体の重心を本来ある位置に維持すること出来なくなる。その結果、太りやすくなり、肩が凝り、疲れやすくなる。そうならない様にする方法(小脳トレーニング)が、紹介されていた(毎日、以下の3つをする)。


1、目つむりタッチ」・・・左の腕を真っ直ぐに前に出して、左手をパーにして、目をつむり、右手を頭上まであげて、1本ずつ指先を触って行き、小指まで行ったら、逆に戻り、左右とそれぞれの手で、2往復する。

2、「コンイはさみ」・・・・コインを3枚用意し、手を縦にして指を広げ、指の間に(第一関節付近)コインを挟み、水平にして5秒間キープ、その動きを3回繰り返す。(実際にやってみると、コインの種類によって、難易度が違う。簡単な方から言うと、1円玉、10円玉、500円玉、5円玉、50円玉、100円玉。100円玉が、一番難しい。左手よりも、右手の方が、自分には、難しかった。どうしてかなあ・・・?)

3、「飛行機ポーズ」・・・雑誌を頭に乗せ、片足をあげ、体を前傾姿勢にとって飛行機のポーズを10秒間し、足を入れ替えて、又、10秒間する。左右の足で、2回ずつ。

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モーツアルト

2006-09-04 07:28:23 | Weblog
(平成18年9月2日のNHKのプレミアム10より)

 檻の中に2匹のネズミを入れると、いつまでも2匹が動き回っているのに、モーツアルトの曲(アイネクライネナハトムジーク)を聞かせたネズミでは、2匹とも、しばらくすると、大人しくなっている。

 乳牛に聞かせても、乳の出が良くなり、ニワトリに聞かせても、卵を良く産む様になる。それも、ベートーベンやバッハの曲よりも、モーツアルトの曲の方が効果的な結果が出ている。指揮者の人に聞いても、モーツアルトの指揮をした後は、癒される感じになっていると言う。

 理由は、モーツアルトの曲を聞くことで、神経の伝達物質であるドーパミンの分泌が盛んになるから。ヒトの場合でも、ドーパミンが、記憶力や認知力や集中力を増加させ、意欲や学習能力と深く関わっていることが、証明されている。

 音には、不規則で不快に感じる音と規則的な音があり、その中間の音として、「f分の1(1/f)なる、ゆらぎ」の音がある。自然界の音には多く、風や波や雨だれの音がそうで、それ等は、確かに、ヒトに心地よさを与える。電車の中でついつい眠くなるのも、子どもがあやされて眠くなる時も、この「1/fゆらぎ」が大いに関係している。

 今年は、モーツアルト生誕250年に当たり、世界中で、モーツアルトの曲の癒し効果が見直されている。

 モーツアルトは、1956年1月27日(余談だが、私の家内の誕生日も、1月27日で、私に、今も、癒し効果を与えている?!)、オーストリアのザルツブルグに生まれた。

 父親レオポルトは、バイオリンの奏者で、宮廷の指揮者であった。モーツアルトは、3歳にして、姉のクラヴィーア(ピアノの前身)が演奏するのを見て、クラヴィーアを弾き始め、5歳にして、文字もまだ書けないのに、作曲を始めた。

 父親は、息子のその天才振りに驚き、これを開花せずにおれないと思った。それを決行する為に、3年9カ月間もの長い間、ウィーン・パリ・ロンドン・ミラノなどのヨーロッパ大演奏旅行に家族ぐるみで出掛けた。その先々で、モーツアルトの神童振りが披露され、多くの王侯貴族からの絶大なる称賛を受けることが出来た。

 モーツアルトは、8歳で、交響曲を創り、12歳で、本格的なオペラ曲を創り、13歳では、宮廷楽団のコンサートマスターに任命された。

 モーツアルトの恋愛遍歴も、人並みではなく、まず、17歳の美貌に恵まれた若きソプラノ歌手である「アロイジア・ヴェーバー」に恋し(この時、まだ定職に付いていないモーツアルトは、全く、相手にされなかったが)、次に、アロイジアの妹である「コンスタンツェ・ヴェーバー」と結婚し、次に、ロンドン出身の人気歌手である「ナンシー・ソトーラス」に恋し、更に、人妻である有名なソプラノ歌手「ヨーゼファ・ドゥーシェク」に恋し、その後、ベルリンのチンの若きソプラノ歌手「ヘンリエッテ・バラニクス」に恋するなどして、その都度、愛の証として、素晴らしい曲を創って捧げた。

 5歳~35歳のわずか30年間に、700曲も作曲し、それも、手直しが無く、世間話をしたり、手紙を書きながら、書いていた様である。

 モーツアルトの1日のスケジュールは、6:00に、洗顔して着替え、7:00から2時間、作曲し、9:00から、生活の為に、音楽を教え(個人レッスンで)音楽を教え、13:00から、貴族と食事を共にし、17:00から演奏会に出席し、23:00から作曲し、1:00に就寝と言うパターンであった。

 つまり、1日わずか4時間足らずの作曲生活であった。恐らく、数多くの素晴らしい曲が、瞬間的にパッと閃いていたのであろう。そのエネルギーの源は、少年の様な純粋さと恋心だったと思われる。

 そんな生活も、戦争やフランス革命で一変し、作曲依頼も少なくなり、借金の取立てで苦しむこととなる。モーツアルトの妻は、悪妻?だったとの噂があり、モーツアルトの死にも、不可解な点が多い。インフルエンザに罹って、亡くなったとも言われている。

 レクイエムの曲を完成することなく、1791年12月5日の午前0時55分、ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトは、享年35歳(1756-1791)で、永眠された。

 しかし、彼の創った曲は、今も、世界中の多くの人に愛され続けている(私も、毎日、CDで聴いています)。



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職員の定着率の悪さで悩んでいる事務長様

2006-09-03 14:29:35 | Weblog
その1、女性とつなぎとめておくには、その時点で、満足させておかなくてはいけない。
 将来のことを言って、つなぎ止めようとしても無理で、女性は、今、満足しているかどうかが問題。そこが決定的に男性と違う所。「今は苦しくても我慢してくれ、これを乗り越えれば何倍もの楽しみがあるから」と言っても、女性には、通用しない。

その2、女性は、常に、褒め続けなければいけない。
 男性は、社長に1回褒められれば、何年でも覚えている。定年まで覚えている場合もある。しかし、女性では、今日褒めても明日になればゼロになってしまう。男は、1回、女は、90回、これをある人は、「1対90の法則」と言う。男性の場合、何回も褒めると、何か別の意味があるのではと、却って不審を抱く。しかし、女性の場合には、全くその心配はいらない。くどいくらいに、繰り返し繰り返し褒めれば、その効果は、驚くほど上がる。退社率の高い会社を見ると、賞賛のシステムの出来ていない職場が多い。しかし、注意すべきは、人前で一人だけ女性を褒めると、他の女性が嫉妬する。女性を褒める場合は、人前で褒めないこと。

その3、女性には、誤りをはっきりと指摘しないこと。
 皆の前で注意することは避けるべき。始末書を書かせることなど、もってのほか。本人が誤りに気付いていれば、さりげなく、言うこと。そして、女性を叱っても、最後は、必ず、花を持たせること。仮にその女性の誤りの指摘が正しくても、いや、むしろ指摘が正しければ正しいほど、怒りはつのってくる。男性社会の中では、自分が一方的に損をしてけじめを付け、責任を取る訓練が出来ているが、女性の場合、謝罪させてけじめを付けるさせるのは、百害あって一利なしである。

その4、女性の不可侵領域を守ること。
 一般に、日本女性の場合は、90センチ四方に入って来られると、自動的に警戒信号を出す。90センチ以内に入れるのは、肉親と恋人だけ。男性の場合、この距離は、かなりいい加減で、わりと簡単に接近を許すところがある。だが、女性の場合は、そうでない。女性は、「これ以上私には近付かないで」という一種の防衛本能が強い。それが特に強い女性は、自分の戸を開けることも拒む。会社で女性社員が安心して仕事が出来るのは、机の奥行最低70センチがあるからである。近くまで行っても、絶対にその領域には近付かない、そう言う礼儀を心得た男性は、間違いなく女性から信用を得ることが出来るはず。例えば、後ろで着替えをしていても、絶対に振り向かないでくれるという安心感。「大丈夫、これから先は、踏み込まないよ」という部分を相手に与えることは、これから女性と付き合って行く上でとても大切なことである。


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フィレンツェ紀行

2006-09-03 07:27:51 | Weblog
 平成17年の4月18日~5月17日まで、イタリアの中部にあるフィレンツェに滞在しました。そこにある、語学学校で、イタリア語の勉強をし、暇を見て、観光をしました。フィレンツェだけでなく、フィエゾ一レやロ一マやシエナやピサにも行きました。イタリアには、一人だけで行き、イタリアでの初めの2週間は、昨年の9月からの今までの旅行の中で、一番楽しいはずが、一番、心苦しいものとなりました。
 まず、着くと、語学学校の人が迎えに来てくれていて、ホッとしましたが、朝の食事がない。ホ一ムステイと言っても、滞在中、全く、家主さんからは、何も出ないし、一緒の食事も、全くなかった。てっきり、タイのチェンマイやインドネシアのバリの様に、24時間オ一プンのコンビにがあると、思っていたのが、大きな違いだった。おまけに、自分の場合、月曜の夕方過ぎに着いたものだから、月曜の午前中にあるべきオリエンテ一ションを受けてなかった。
 同じ家でホ一ムステイをして、同じ学校に通うもう一人の日本人は、午前のクラスで、彼は、1年間、既に、イタリア滞在の経験があるので、今の自炊の生活を選んで、自分と同じ環境に置いている。家主の人は、一人暮らしの女性で、朝早くから、仕事で不在。日本語は、全く出来なく、ありがとうと言う言葉も、知らなかった。英語も、うまく通じない。
 着いた翌日の朝、お腹がすき、食事が近くで出来る所を探すが、ない。又、フィレンツェは、ちょっと歩くと、迷路。そうでなくても、自分は、生まれつきの方向音痴。何度も迷い、心もズタズタ。イタリアでは、沈黙は、何も困っていないと同意語らしく、困った状態で、初めの2週間が過ぎた。
 自分の場合、○○○会社の手違いで、レッスンを2週間でするはずが、1週間でしてしまい、仕方なく、後の1週間分は、又、追加料金を出してレッスンを受けた。「生活の手引きなる」小雑誌があったのに、それをもらったのは、何と、4週間目の初め。それにことごとく丁寧に書かれていて、初めにもらっていたらなあと悔やむことしきり。
 当然、当初、異常なまでのストレスにさいなまれた為に、体調がおかしくなる。アレルギ一性鼻炎が起きたが、薬をもってきていない。日本より遅れて、この頃、イタリアでは、アレルギ一性鼻炎がひどくなるそうだが、幸いに、余りひどくならなかった。ヘルペスが口の周りに出来たが、1週間もしなくて、完治した。朝、いきなり異常に沢山食べたものだから、生まれて始めて、胃痙攣を経験して、この時ばかりは、死ぬ思いをした。イタリアの一般家庭には、日本の様な電子レンジはないことを、ここに来て、初めて知る。又、ホ一ムステイの場所が駅の近くで、部屋が道路に面している為に、深夜も騒音で、最後まで悩まされ続けた。おまけに、そのホ一ムステイ先も、日本に帰るのが火曜日の為、月曜からは、学校での語学研修が終わってると見なされて、日曜日に出ないといけなかった。
 皮肉なことに、最後の二日は、駅近くにある安い2つ星のホテルを自分で探して、泊まったが、これが、実に静かで、スタッフも良くて、いいホテルだった。
 多くの店の開店時間は、自分の生活リズムとは、全く違っていた。つまり、自分の場合は、朝の5時過ぎに起き、6時30分までに朝食を済まし、夕方の7時には、もう、寝ると言うパタ一ン。イタリアの多くの店は、14時から19時頃ぎまでは、休んでいる。仕方なく、本格的に、自炊を始めた。お米を食べるのに、日本のレトロト食品の感覚で、炊く時間を短くして食べたものだから、インプラントの部分が欠けてしまった。
 この時ばかりは、ガックリきて、立ち直れない状態。フィレンツェに着いた時に迎えに来てくれた日本人の人から、救急の時には、電話する様に言われていたので、夕方電話するも、何度しても留守。翌朝も留守。不安一杯の状態で、朝早くから、学校に行くと、「イタリアは、まず、直ぐには、診てもらえないし、お金も、凄く取られるし、日本に帰っても、そのお金は、戻ってこない」と、言われた。この時、もう、日本に帰ろうと思った。
 しかし、どうしたことか、その日の午後、歯科医から診てもらえるとの返事。午後の講義が終わって、予約の16時30分の時間に行く。実際に診てもらえたのは、18時前。こんなことは、イタリアでは、普通との事。しかし、本当に、驚いたことには、日本に帰ってちゃんと治療をすると言ったものだから、「今は、何もする必要はない。大丈夫」と言われて、、全く、お金は要らなかった。感激した。
 イタリア語の個人レッスンは、どんどん進み、宿題も、どっさり。多い時には、プリント6枚も出たが、自分の場合、全て、ちゃんとしていった。初めの2週間は、全くどこにも行かずに、かって、韓国の釜山での20日の様に、猛勉強をした。
 その甲斐あってか、3週間目からのグル一プでのレッスンのクラス分けでは、かなりレベルの高い人と受けることになった。
31歳の青年で、仕事は、コックさんで、既に、8カ月間、イタリアで生活して来ている人と友達になった。彼と、ロ一マとフィエゾ一レとシエナに一緒に行った。驚いたことに、彼は、一般の会話は、殆ど理解できている。1年近く住んでいる人の多くは、そんな感じで、言っていることは、殆ど、理解出来ているのだ。
 自分の場合、新しい文章は、簡単であれば、何とか作れるのに、聴けない状態。しかし、レッスンが終わる頃、何とか、簡単なイタリア語であれば、聴ける様になった。クラスのある人から、それだけ出来れば、もう困ること、ないでしょうと言われて、本当に、嬉しかった。クラスに、フランス人がいたので、少しフランス語で言うと、凄く喜んでくれた。
 シエナに行った時、ドイツ人がいたので、ドイツ語で言うと、「イタリア語と英語は、どちらが上手ですか」と尋ねられた。しかし、その質問が、イタリア語でされたのに、何語が、初め、理解出来なかった。
 イタリア人は、遊ぶ為に、仕事をしている。ホ一ムステイの家主さんに、帰る時に、質問したら、「10月にまる1カ月休暇がある」と言われた。
 フィレンツェに住んでいる日本人が言った、「日本人がイタリアで一番住むのに適している所は、フィレンツェ。一度長期に住んだ人は、又、ここに住みたくなって、必ず、戻っている。イタリアでそんな所は、このフィレンツェだけだよ」と。
 イタリアで多くのことを学んだ。イタリア人の人生を楽しんでいる生き方。ミケランジエロのダビデ像、ローマのコロセウムなど。素晴らしい世界遺産の数々。
 その中でも、予想しなかったことは、料理の楽しさ。同じホ一ムステイ先にいた日本人の学生と、一緒にロ一マなどに行ったコックの人から、料理の仕方を教わったこと。これは、意外だった。

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