日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

「ニーカ」ちゃん

2008-07-24 16:36:30 | Weblog
 骨董品の鑑定士でしばしばテレビに登場する「中島誠之助」さんのお宝が、何と、横に歩くカニ。カニちゃんと言っていたのが、いつの間にか、逆の「ニーカ」ちゃんと言う言い方になり、彼は、何と17年間も、小さい時に手にしたその「ニーカ」ちゃんを、どこに行くのにも、プラスチックの箱に入れて同席していていたとのこと。今は、天命を全うして、冷凍庫にいるとか。
 驚いたのは、彼が、その「ニーカ」ちゃんの抜け殻を丁寧に保管していること。ニーカちゃんに限らず、カニは、カルシウムで出来た抜け殻を、それから出たら直ぐに食べてしまうとのこと。で、直ぐに「ニーカ」ちゃんからその抜け殻を奪って、ティッシュで丁寧に水分を除いて乾燥させて、何と、10個も完全な形で大切に保管している。
 それも、脱皮は、毎年1回だけで、夏至の頃で、しかも、朝の4時頃と決まっているそうで、彼は、その1時間前から、「ニーカ」ちゃんから食べられない様に、いつも起きて見張っていたとのこと。彼には、長い間の「ニーカ」ちゃんとの付き合いから、以心伝心で、いつ脱皮するのかがだいたい分かるとのこと。
 ある時、「ニーカ」ちゃんの大きな爪が取れて、食べられなくなってしまった。それで、爪が出てくるまで、彼自らの手で餌をあげていたとのこと。
 兎に角、カニが17年も生きること自体が珍しく、専門家も、そんなに生きるとは知らなかった様で、殆どのカニは、他の生き物に食べられて死んでしまうとのこと。
 で、中島氏は、次の様に今日のNHKのテレビで言っていた(再録)、「お金で買えないモノが、本当のお宝ですね」と(納得、納得、充分に納得)。


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子どもの教育はいつから始まるのか?

2008-07-24 08:28:54 | Weblog
 ある人が、マカレンコ(教育者)に質問したことがある。
 「子どもの教育は、いつ頃から始めたらいいのでしょうか?」と。
  この質問を読まれた各位は、どんなお考えで、いつ頃から始められているのでしょうか?」。

 A:小学校1年生から。
 B:幼稚園から。
 C:保育所から。
 D:乳児から。
 E:ゆりかごから。
 F:胎児から(胎教)。
 人によって、それぞれ異なったお考えで始められ、努められていると思います。
 マカレンコの答えは、予想以上にさかのぼっていた。
 「教育は、生まれる20年前から始めなければならない」と。
 これは、親から育てられ、成人して、新家庭を営むようになるまでの20年間が、やがて生まれてくるであろう子どもの教育を決定する、という意味を含んでいると思われる。(おおよそ、人間は、親から育てられた様に、その子を育てるものである)
 20年が、40年、60年、80年の教育ともなれば、子どもを教育するということは、孫を教育し、更に、ひ孫の教育へ作用して行くことにもなる。
 温かいきれいな心を持った両親からは、温かいきれいな子どもが育ち、その血は、次に流れて、世代の続く限り、きれいに流れて行くのと同じ様に、濁った心の両親からは、濁った血が渦を巻いて流れて行く。
 きれいな血と濁った血が交われば、濁った血の方が勢力を増すもので、これが現世の姿である。濁りが澄んできれいになるまでには、長い年月の苦労がいる。(白を黒に塗り変えるのは、易しいが、黒を白に塗り変えるのは、難しい)
 戦争時代、子どもまで戦争にかり込み、終戦後は、衣食住と知識偏重に全精力を消耗し、右往左往し、子どもの教育に自信と努力を怠った天罰が、60年後の今日に至って猛威をふるい、毎日、日本中のどこかで、世人を痛めつけている。因果の理で、この事実を誰も否定することは出来ないであろう。
 明治時代の先覚者福沢諭吉の精神は、明治の子である大正を経て、昭和の孫、平成のひ孫に引き継がれ、21世紀を迎えている現代っ児の乳となって、補給されている。
 これ等21世紀の我らのひ孫、更には、ひ々孫の世代を開発する為に、自分たちにのみ都合のいい人作りでなく、世界に誇り得る真の人作りを、お互いの力によって推し薦めて行きたいものである。

 ドイツの諺:「母親の全てのものが、その乳と共に、子どもの口に注ぎ込まれる」

*父(明治45年生)の遺稿より引用。


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良心の呵責

2008-07-23 11:53:03 | Weblog
(平成20年7月23日、読売新聞)
 大分県の教員採用汚職事件を巡り、同県警は22日、小学校長や教頭3人が元県教委義務教育課参事・江藤勝由被告(52)(収賄罪で起訴)に渡した商品券計110万円分は昇任のためのわいろだったとみて、3人の自宅や勤務先の小学校などを贈賄容疑で捜索した。
 3人のうち、50万円分の商品券を贈った男性教頭(50)は、読売新聞の取材に「合格するのはコネのある人ばかり」「まともにやってはダメという気持ちだった」と打ち明け、「子供にうそをつき続けるのは限界だった」と苦しい心境を吐露した。
 同県佐伯市内の小学校の男性教頭は今月8日、市内の別の小学校の女性校長(53)や女性教頭(49)とともに商品券を贈った事実を警察に説明したが、その前日に取材に応じた。女性教頭も50万円分、女性校長は10万円分の商品券を贈っていた。
 男性教頭は2003年度から管理職任用試験を受け始め、今年3月に教頭昇進の内示を受けるまで4回連続で不合格だった。「他の合格者と答え合わせをしても自分のほうが成績が良かった。でも合格するのは県教委幹部と釣りやゴルフに行く人ばかり。まともにやってもダメだと思った」
 昨年11月に1次試験を終えると、一緒に勤務したことがある元同課参事の矢野哲郎被告(52)(贈賄罪で起訴)から「自宅で試験勉強を教えてやる」と誘われた。
 そこで「江藤さんに口を利いてやる」と言われ、思わず応じると、「それなりの金が必要だ」と5本指を開いて示されたという。
 4月1日付で教頭になったものの、先月、勤務先の小学校で事件を説明する緊急集会が開かれ、後ろめたさに耐えきれなくなった。
 「何くわぬ顔で集会の司会者を務め、頭がおかしくなりそうになった。子供たちに毎日うそをつき続けるのは限界だった」
 男性教頭は教え子たちに「教頭は誘惑に負けた悪い人間です。君たちは正しい行いをできる勇気ある人になって下さい」という書き置きを残してきた。以来、出勤していない。18日の終業式でも教頭がなぜ姿を見せないのか学校側から児童に説明はなかったという。

 ムーッ、次から次へと真実が暴露されている。大変いいことだと思います。この際、一気に出してしまうべきです。それを、まだ、蓋をしようとしている上からの圧力。人間、何もかもなくしてもいいと思えば、強いものです。どんなにごまかしても、自分はごまかせない。嘘で固めた教育なんて、教育ではない。ホントは、それを教育者自らこの様な形で明らかにしてもらいたかった。糸口が、金券ショップでの警察の指摘だったとは、情けない。
 教育を根本的に変えないといけない。ペーパー試験だけでは、適性は見れない。全国の21カ所で、発表前に、県議や代議士への通知があることが明らかになっている。合否に関係なかったら、その必要は、ないはず。関係するから、合否の前にしている。そんなこと、子どもでも分かること。それをしれっとして、関係ないと言う体質こそ、問題だ!!

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日本の将来は・・・?!

2008-07-23 10:05:12 | Weblog
 官僚の在り方が問われている。官僚の人達にとっては、大臣はしばしば代わるので、大臣が自分らのトップとは思っていないらしい。社長は、事務次官なのだ。次官が付いているから大したことはないと思ったら大間違いで、各省では、正にトップの存在なのだ(同じ次官の付いた政務次官とは大きな違いかな)。
 で、それになれるのは、ホンのホンのひと握りと言うことになる。で、それにもれた人は、天下りせざるを得ない構造になっているらしい。本心は、天下りしたくないのだが。しかし、自分の将来を考えるとそうせざるを得ないのだ。
 それもそうだろう、がんじがらめの自分の裁量が発揮できない狭い世界でずっと仕事をしてきて(それも、安月給で)、40代の終わりにでもなれば、自分の実力や将来性が自ずと見えてくるはず。国家公務員であるからして、首には出来ないはず。しかし、実力やコネがなければ、例え定年までいても、それこそ窓際族で、自分の部下や年下が上に立ち、寂しい思いをすることになるだろう(高学歴であればあるほど)。で、定年一杯まで官僚の立場でいても、その先、どこも就職するところがなければ、・・・。
 そんな中で、今の変化の激しい時代にマッチしたアイデアを出してのいい行政が出来る何て、思われない。まず、自分の先々の就職先を考えての仕事となる。そんな土壌から、学閥やコネ(や時に賄賂)が自然発生的に生まれる気もする。
 地方の長が霞ヶ関に出向いて、お金の配分を自分の地方にと陳情にしばしば行っている。パイは決まっている訳だから、その分、どこかが少なくなる。その努力を惜しまず出来る政治家が、有能な政治家だとしても、何か、割り切れない感じだ。
 官僚の体質は、そのまま地方にも行っているのでは。何故なら、地方のトップの知事の半分が、官僚出身だから。
 いっそ、無駄使いを思い切ってなくし、公平にするべきなのだが、それが出来ないのが今の官僚と政治家(とそれに住民)の姿かな。
 かって北海道に家族旅行した時に、大きな道路がずっと続いていたが、殆ど車とすれ違わず、途中に「熊に注意!」の看板を何度も見た。どこかの市の様に、市のお金を使って大きな建物を造ったのに、しばらくして又壊して、別な物を造っている。土建業者は、潤うだろうが。
 今の時代、もっと、根底から日本人も、考え直した方がいい感じだ。日本人は、もっと賢かったはずだ。日本人は、もっと倹約家だったはずだ。日本人は、もっと倫理観があったはずだ。日本人は、もっと他人への優しさがあったはずだ。ある人の言葉に、「奪え合えば足りず、与え合えば余る」との言葉がある。今や、世界で5人に1人しか3食摂ることが出来ないのに、食べ物自給率が39%で、その3分の1が無惨にも捨てている国になっている。
 日本も、このままで行けば、後100年したら、今の半分以下の4.800万の人口になるそうだ。開きの直って考え方を変えて・・・そうなってしまえば、国際化して、素晴らしい日本になっているかも知れないかな。私は既にもうこの世にはいないけど。

*日本では、有能なエリートが官僚を目指している感じだが、アメリカでは、官僚に行かずに、会社の社長を目指して事業を始める人が多いとか。又、アメリカの医療や大学の変革は、上からの力でなく、大衆の力で変えて来ているとのこと?!

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医療機関がないと不安・・・

2008-07-22 12:26:12 | Weblog
 7月21(月)の朝、家内が「ギックリ腰」になった感じで、腰をかがめて歩く感じになった。やっと歩ける感じで、これは困ったことになったなあと思っていて、旅先のホテルから出て横断歩道を通った後に、どうかした途端に、少し歩ける感じになった。  で、無事にバスとタクシーで、宿舎に帰れた。これで良くなるかなあと思ったら、甘くなく、今日の朝も、なかなかどうして痛がって、始めに痛くなった時と同じ感じになっている。明日、同じ感じであれば、病院に行かないといけないかなあ。取り敢えず、湿布と漢方薬を飲んでいるが、少し心配。  
 いざと言う時には、宿舎の前に病院があるし、整形の先生もいるので、何かの時は安心。田舎で(ここも、ど田舎だが)病院がない所、医者のいない所だと、さぞかし不安だろうなあ。同じ医療保険料を毎月払わされていても、必要な時に時に、周りに医療機関がなくてそれなりの医療が受けられないなんて、矛盾している。  思うに、いざと言う時に掛かれるけど、何とか間に合っているので掛からないのと、いざと言う時に全く医療機関に掛かれないのでは、不安の度合いは、雲泥の差だ。ドクターが一人診療所のへき地に行った時、ドクター自身の体の調子がおかしい時には、とても不安になるとのこと(充分に納得)。  
「魔法の杖」の話を思い出した。以下は、その内容。  
魔法が使えるとしたら、人はどんな欲望を満たそうとするでしょうか?ある人はお金を、ある人や地位や名誉を、ある人は健康を、又、ある人は自分の子どもの為に、又、ある人は貧しい人や病んだ人を救う為に・・・。  
 ある静かな山村に、正造という木こりの一家が住んでいました。正造の家は貧しいながらも、みんなが健康で明るい家庭でした。  
 今日も一日山仕事を終えて、楠の切り株に腰掛けて、一服していました。山の端にかかる太陽も沈みかけ、辺りはほの暗くなりかけていました。  
 そろそろ家に帰ろうかなと、起き上がりかけた時、誰かが正造の名を呼ぶ声がしました。そら耳かなといぶかりながら、後ろを振り向くと、そこに白髪長髯の老人が立っているではありませんか。正造は瞬間、背筋がぞおっとして身震いと腰の抜けるような恐怖に襲われました。しばらくして正造はようやく落ち着きを取り戻しました。それは、その老人の何と優しい眼差しと、苦悩も歓喜も全てを超越した顔のしわ。これはまさしく噂に聞く仙人なのかも知れないと正造が思ったからです。
「おじいさん、オラに何か用ですかい?」 立ち上がりながら、おそるおそる正造は尋ねました。すると老人は懐から何やら小さな棒きれのようなものを取り出して、
「これ正造、これをお前に進ぜよう。この杖は、お前の願いごとを、生涯にたった一度だけ叶えてくれる魔法の杖じゃ。願いごとをする時、この杖を天にかざし、大きく三回回しながらその間にお前の願いごとを言うがよい」  
しかし、欲のない正造は、
「おらあ、今のまままで充分だから、これ以上の願いごとはない」 と断りましたが、老人は、
「いやいや、人間は何時どのような病気になるかも知れぬ、またどのような災難に襲われぬとも限らぬ。この杖はそんな時、きっとお前の力になってくれるはずだ」
と言うと、老人はその小さな杖を正造の前に置いたまま、煙のようにすうっと消えるようにその場から立ち去ってしまいました。  
 さて、正造はこの魔法の杖で何時、使ったのでしょうか?子どもが重荷を患った時に使ったのでしょうか。いや、その時は使わずに治すことができました。妻が倒れて病床にある時も、この魔法の杖を手にしかけましたが、待て待て、自分の真心で治してみせると頑張って、その杖に頼ることをしませんでした。  そして、それから幾十年が過ぎ去りました。
 正造は95歳という高齢の誕生日を迎えました。お祝いに駆け付けた子どもや孫や曾孫達と炉を囲んで楽しい一時を過ごしていました。  
 正造は、ふと忘れかけていた魔法の杖のことを思い出して、みんなにこの話をしてやりました。 「これがその杖だよ」 と、大切にしまっていた杖を取り出して見せると、一人の子どもが言いました。
「おじいさん、その杖に、おじいさんが100歳以上も生きられるようにお願いしたらいいのに」
正造は、優しい子どもの言葉にうれし涙を見せながら、
「ありがとうよ、お前のその気持ちだけで充分だ。私は、これ以上の欲は言うまい。これまでで充分幸せであったからね」 正造は、人間の天命までもかえてしまうようなことは良くないことだと、子ども達に話すのでした。  
 そして、この魔法の杖は、生涯使うことなく、正造の家の宝として大切にしまわれていました。  
 でも、正造は、この魔法の杖があることによって、使おう使おうと思いながら、生涯一度しか叶えてくれない大切な魔法の杖だからと、いろいろな苦境や困難を自分の真心と精神力で乗り越えてきました。  
 実は、それが何回となく魔法の杖をつかったことになるかも知れませんね。

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続々・とりとめのない話

2008-07-20 10:36:18 | Weblog
 今までに、いろんな試練があった。
 私の吃音(どもり)は、いつに始まったのかはっきりしない。小学校1年生の時には、どもっていなかった様だが、小学校2年生頃からどもりだした様で、全く精神的なものであっった。つまり、人前では話せないものの、家に帰って話す時とか、緊張していない時には、全くどもらないのである。人前で話す時にしても、パターンはいろいろ変わり、本を読む時には全くどもらないのに、人前で喋る時には全く話せなくなる。そうかと思うと、本を読む時にどもり、人前で話す時には、全くどもらなかったりと、パターンが変わるのである。緊張していなければどんな状態にあっても全くどもらないのはいつも同じだった。
 佐伯小学校の時、(塾には全く行かなかったが)成績のよかった自分は、人前で話したり役員にならないといけないことが多く、クラスの委員長になることが最も苦痛であった。それでも、委員長になることが多く、何度恥をかいたことか。
 小学校6年生の時、あまりにも自分のどもりがひどいので、担任の先生から、専門家の矯正を受けてはとも言われた。親は、深呼吸をしてとか、ゆっくり喋ればいいとか、いろんなアドバイスをしてくれたが全く無効であった。
 今考えれば、以上の治療法は、自分に関して言えば全て誤っていたのであり、その時、周りがほったらかしておいてくれたなら、永いこと苦しまなくてもよかったのにと思う。つまり、子どもがどもりを意識した時から、どもりを治そうした時から、どもりが始まるのであり、自分がどもることを意識させないようにうするのが本当の治療であったのだ。
 どもりはマンモス校の鶴谷中学に入っても、全く治らず、中学1年生の時に、社会の先生が、教科書を全員に読ませていたが、これが学校での最もいやなことであった。それで、社会は、小学校の時には最も好きで得意な科目であったのに、最も嫌いな科目となってしまった。国語も読むことが多い為に、嫌いであった。
 人前で普通に話せたらどんなにいいだろうかと、延々と思ってきた。高校の時には、全く人前で読めない状態になってしまった。医者になって、学者になれば(自分としては、医学部は難しいので、浪人してまで医学部に行く気はなかった)、人前で話すこともないし、いい研究さえしておれば、それで自分の能力が発揮できるだろうと思って、医学部を受験したのである(国立以外に受けなかった。それも、6回目でやっと2期校に合格したのであるが)。
 浪人生活の中では、あてられて読ませられて、見知らぬ人の前で恥をかくのが、何よりも苦痛であった。大学の時には、代読というのが簡単に出来る為(出欠の返事も、代弁が状態化していたが)、英語の時間に自分が読むようにあてられたら、代わりに読んでくれと頼んだこともあった(頼んだ人とは、今も懇意にしていて、自分の結婚式の時に、祝辞を述べて頂いたが)。
 女性から、自分がどもることを知られるのがいやでたまらなかった。服や車やその他の外見で自分を飾っても、喋ればすぐにばれるとの認識のもとに、自分を外見で飾る習慣が付いてなく、それが今でも続いている?(自分の価値を知ってもらっても)自分が女性にもてるなどと思ったことは、結婚するまでは全くなく、本当の自分の姿を知ればどんな女性も逃げてしまうと堅く信じていた。自分がある人を好きになっても、自分の言語障害を知れば、その女性は必ずいやになると思っていた。それで、いつも片想いであった。今の自分の妻には、自分のこのハンディーを言ったのに、(鹿児島出身の武士の家系の出の妻は、この時、鶴丸高校→鹿児島県立短大→養護学校の寮母をしていたが)全然気にしていない様子で、本当に気にしていないのか、気にしていない素振りを見せているだけなのか、それがいつも気がかりであった。どもる自分を本当に好きになってくれていることを知った時、自分の価値が本当に分かる女性がこの世にいると思い、本当に愛されていることを知って、この人以外にないと思った。
 県病の時も宮医大の時も、読むとどもる為に、学会発表では原稿を持っていても、それを見ることはなかった。宮医大の時には、しばしば(卒後1年半にして、既に文部教官になっていた為)医学生の講義をし、いつも原稿なしであった(あるとどもって話せなくなる為に、全て頭の中に入れて話す訓練が続いた)。私の講義はすこぶる好評で、「第二外科の富田教授と田原先生の講義が一番うまい!」と医学生から言われた時、そして、医学生から胴上げをされた時、自分の生きる道は、大学に残っての医学生の為の教育だと思った(小児科病棟で、宮医大生の一人一人に、手取り足取り、聴診や触診や打診を教えていた)。
 教師とは、教師が身を持って示すのが本道だと思っていたので、「医師とは、患者の為に存在するもの、若い時に医師が患者の為に最高に出来ることとは、研究ではなく、そんな暇があれば、体力があるのだから、急患の一人でも診た方が世の中の為になる」との価値観のもとに、(新生児・未熟児医療を含む小児の救急医療が最も遅れていると思われる)大分県南の自分の故郷佐伯に帰ることにした。しかし、その時、自分の最も好きな直に医学生に教える教育と言うものを捨てなければならなかった為、残念でならなかったが、人間何かをしようとする時には、必ず何かを捨てなければならないとも思い直して、佐伯に帰ってきたのである。県南で最も遅れている新生児・未熟児を含む小児救急と大学で学んだ先天性心疾患の早期発見を体の続く限りしようと思って、大学を去ったのである。
 平成2年5月12日に、佐伯カトリック幼稚園で、「21世紀をよりよく生きる為に」と題して、親御さんの前でペラペラと自分を例にとって講演をした。幸せであった。


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続・とりとめのない話

2008-07-20 10:34:32 | Weblog
 医師として自分が適確か、これに自分は悩んでいた。大学に入学した当時は、自分も受験の落とし子だったかなあと思っている。専門1年と2年で基礎医学を学んでいる時は、医者よりも大学に残って学者になりたいと思っていた様だったが、専門3年と4年で臨床修練をする様になると、臨床医にも憧れる様にもなった。正直、入学時には、クラスの半分近くが、(自分も含めて)医師としてどうかなあと思っていた。
 二期校コンプレックスで、もう一度受け直すと言う人が結構いた(夏休みが終わる頃になると、少なくなったが)。まかり間違ってここに来てしまったって感じで言う人もいた(が、教養1年での前期の試験が終わった頃になると、それも消失)。いつまでも、自分は秀才だと言い続けていた人もいた(が、専門課程でしばしば追試を受けることが多くなると、ピタッと言わなくなっていたかな)。しかし、時間と共に、受験により作られた間違った呪縛が、次第に崩れて行った。
 医学部の場合、6年間もあると、出来る人と出来ない人の差、大きい。(実技のない)医師国家試験の実力と、実際の力は、私自身は、余り関係ないと思っている。例えば、心電図は読めても、コミュニケーションの取り方や患者さんの受けは、別物。医師の場合、病名が付かなくてもそれなりに決断しないといけないことが多い。
 医師になり、30年経って、久し振りに同窓会で会ってみると、何やかんや言っていろんな問題があっていた人も、スッキリと水に流された感じで、皆、立派な医師になっていた。昔スゴイ秀才だった人も、何年も留年し続けていた人も、殆ど関係なしって感じになっていた。つまり、長い年月を伴ったいろんな体験が立派なプロたらしめているのだ。
 勤務医は勤務医で、開業医は開業医で、研究医は研究医で、それなりにプライドを持っている。性格が暗かった人も、別人の様に明るくなっていた。
 教師にしても、同じだと思う。いろんな現場の経験から、一つずつモノにしていけると思う。同僚の教師よりも、受け持ちの生徒から学べることの方が多いはず。出来る子よりも、落ちこぼれの子どもから学べることの方が多いはず。そして、親御さんからも沢山学べるはず。その時に大切なことは、自分が絶対に正しいと思うことをせずに、沢山の人から聴く耳を持つことだと思う。相手の立場に立って考えられるゆとりを持てることが大切だと思う。
 自分が中学の時は、1学年500人以上もいて、県南では最大数の学校だった。11クラスもあったせいか、クラス毎の成績を気にする教師が多かった。
 自分のクラスの担任は、技術家庭科のK先生だったが、野球部の監督をしていて、それに一生懸命って感じの先生だった。数学には、新米のM先生が教えに来た。初めの先生の自己紹介の時間に、黒板に、趣味の所に「パチンコ」と書いていたのを、グルグル回って見に来ていたH校長(その後、佐伯鶴城高校の校長になる)が、サッとその部分を消して何も言わずに立ち去ったのを今でもしっかりと覚えている。この新米のM先生、数学では、採用試験で1番だったとの噂だったが、黒板を見て話し、それも早口で言うので分かりにくかった。授業が終わると自分が質問すると思って走って逃げていて、自分はそんな先生をよく追い掛けていた。で、トレイに入り込んで、出てくるのを待っていたこともあったが、人のいい先生で、尋ねると親切に早口でいつまでも教えてくれていた(クラスでの評判は最悪であったが)。
 隣の担任の先生で、社会が専門のK’先生がいた。自分の社会のY先生も学年長でいい先生だったが、このK’先生の授業は素晴らしいと受け持たれていた隣のクラスの(自分の友達の)S君(彼は、その後、附属中学→上野丘高校→東大→大学教官と進み、今も毎年、個性的な年賀状を頂いているが)が、しばしば話していた。黒板に書かれたのを書き写した彼のノートを見て、凄いなあと感心していた。自分は軟式テニスに入っていたが、このK’先生は、テニス部の顧問で、自分とははるか遠い存在の様に思っていた。案の定、翌年、附属の先生として転勤されて行った。
 学校がマンモス校だけに、警察沙汰になったり、いじめがあったり、いろんなことがあった。そんな中でも、学べることが一杯あったと思う。新米の先生の中でも、理科の第2分野のH先生、初めの試験問題、時間も足りなくて、問題も良くなかったけど、飛躍的に進歩をして、1年後には、全く違った感じの先生に変身していたなあ。
 教師から教えてもらった教科の具体的な内容のことは殆ど覚えていないが、今でもはっきりと思い出せるのは、個性的な先生。それ等の先生の生き方(意気込みや個性的な動作など)が、しっかりと脳裏に刻まれている。


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息抜き

2008-07-19 20:32:51 | Weblog
 昨日(7月18日)の夕方、何とか都合を付けて、熊本市民会館での「DJ OZMA」の公演に間に合う様に行って、家内と一緒に見た。全く「DJ OZMA]に付いての知識がなく、それは家内も同じで、一人7.500円の当日券を買った。それには、3歳未満入場不可と書かれていた。会場では、若い女性が大半で、自分の様な50歳過ぎの男性は、一人見つけたかな?!
 で、18:30開場が、18:40の10分遅れで始まり、いきなり立っての見学となり、何と21:15まであった。で、私はずっと若者に合わせて座ることなく立って、皆に合わせて体を動かしていた。で、翌朝(今日)、起きると足首が痛かった。内容に、ちょっと和太鼓演奏があったのには、驚いた。カナダのトロントで見た「ブルーマン」と、かって中州のゲイバー(最高に面白かったかな)で見たものを足して2で割った感じの内容であったかな。もう、還暦前のこの歳にもなると、自分の場合は、何でも面白く思ってしまうかな?!
 今日(19日)は、午前中、熊本城に行って、新装の「大丸御殿」を見に行った。肝心の所は、写真が撮れなくて少し残念だった。又、秋にゆっくりと来ようと思った。その足で県立美術館に行って、そこにあるレストランで昼食を摂り、まず、「夢とサーカスの世界」に行った。そこでの3つ目の部屋に、シャガールの版画集の「サーカス」の作品が並べられていた。
 それから、本格的に並べられているシャガールの作品展を見た。500円出しての音声ガイドを聴きながら。シャガールのことが実によく理解できた。シャガールは、ロシア生まれのユダヤ人で、故郷ロシアを離れてパリでまず勉強している。それから、ロシアに戻り、結婚している。で、又、ベルリンにちょっと寄ってからパリに行っている。そこでユダヤ人とのことで迫害に会い、アメリカに行き、アメリカでは愛妻を亡くし、そのショックでしばらく仕事を辞めている。娘の勧めで再婚し、離婚して、又、3度目の結婚をしている。
 97歳まで生き抜き、実に沢山の作品を残している。驚いたのは、先の「サーカス」の作品が、何と彼が80歳の時の時に描いたものなのだ。メルヘンチックに、人生の愛と希望と失望などを折り込んだ作品を、彼は、60歳を過ぎても、いや、80歳を過ぎても、精力的に描いている。シャガールの作品をつぶさに観察して見ると、彼の心の中がよく作品に現れていることが理解できる。
 それから、同じ敷地内で、「細川コレクション」を見た。これも、無料の音声ガイドでじっくりと見て行った。この音声ガイド、何と骨伝道式であった(初めての体験)。で、それも自分の場合、iPod toutchで場面に合う感じの音楽を聴きながら、楽しく。
 夕方は、有機栽培でのヘルシーメニューの所で、夕食を摂った。カロリーや健康を考えた食事だと、そうでない場合と比べると、どうしてもちょっと味が落ちる感じかな・・・。

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とりとめのない話

2008-07-18 08:47:47 | Weblog
 ぼくは、大きくなったら小学校の先生になるんだ。お金をいっぱいかせいで、お父さんやお母さんに、三分の二ぐらいおくってやるのだ。今、お父さんやお母さんは、くるしいけど、十年後にはらくにしてやるのだ。テレビも、せんぷうきも、いろいろな物を買ってやるのだ。・・・ぼくは大きくなったら、さけもたばこものまないで、お金をためるのだ。すこしでもせつやくをして、ちょ金をするのだ。一おく円ぐらいためて、てっきんこんくりいとの家を建てるのだ。こんなぼろ家ではないぞ。・・・十年後には、大変なお金持ちになると思う。お父さんがかせぐ、お兄さんがかせぐ、兄さんがかせぐ、ぼくがかせぐ、そして、お母さんがかせぐ。毎月、十万円にはなるだろう。毎月、ぼうなすみたいなものだ。・・・でも、お金をかせぐには、頭がよくなければだめだ。頭がよくなるのには、勉強が第一だ。・・・勉強をするのは、大変いいことだと知っている。おおきくなった時、大へんらくになるには勉強だ。勉強は、大変よい事だと知っていてもしない、すこしはするがあんまりしない。それは、だいいからだ。お兄さんたちは、小学校の時に勉強をしとけばよかったなーと言っている。勉強するのは、たいへよい事だと知っていてもあんまりしない。だいいからだ。・・・お兄さんや兄さんからげんこつを大へんうたれる。それで、大へんなく日が多くなった。お兄さんや兄さんたちは、自分の方が悪くてもぼうりょくをふるう。何年か先になったら、お兄さんや、兄さんは、じいさんだ。その時には、うってうってうつんだ。そして、あんあんなかすのだ。そしたら、むねがスーとするだろう。とても楽しみがいい。だけど、今は苦しい。・・・ぼくが一番ねがっている事は、どもらないことだ。勉強時間など、手はあげるが、ひやひやしてあげる。どもるのをきかれたくないからだ。話し合いの時などこれを言おうかな、どもりそうだからほかのことを言おう、というときが多い。いいたいけど、どもるからはずかしい。だから言わないというのが多い。S君も、ぼくににてどもる。W君やH君などは、げらげらわらう。どもるのをわらうのはぼくはきらいだ。ぼくもそんな事があるからだ。S君などは、かわいそうだ。ぼくも自分でかわいそうだと思う。どもりがなおったら、ほんとうにいいなー。思った事はすぐにいえるし、どもらない人がうらやましい。

昭和35年1月11日(月)晴(10歳)
 ぼくは、前おった西上浦小学校のほうがよいと思った。S小学校は、勉強はできるかもしれないけど、おこないは、大へんわるい。一番わるいのは、そうじだ。Y君やT君やH君などは、先生がおらないとそうじをなまける。なまけるどころか、人のじゃまをする。一番目についたのは、Y君がS君のせなかにのっていることだ。S君が、そうじをしていいたら、せなかにのって、「あっちへ行け、こっちへ行け」とY君がいったら、S君がそのとおりにする。S君は、Y君にかなわないからだろう。勉強はできてもおこないのわるいのは、大きらいだ。
昭和35年3月4日(金)曇(10歳)
 四時間目の理科の時間に、電池の事をした。電池のちょくれつつなぎと、へいれつつなぎがどうして二つに分けているのだろうか、分からなくて、先生に聞いてもぼくの考えている事を言っていない。休み時間など、おしえてもらったが、まだ、まだわからない。先生から理科の事が、くわしくかいている本をかしてもらい、「ここを読んで」と言われた。よんだけどわからない。一番上のお兄さんに聞いて、やっとの事でわかり、答えがかんたんなので、ばかばかしかった。

 以上は私の小学校4年生の時の日記の一部である。当時は食べる物がなくて、おなかをすかして泣いていた大きな子もいた。いじめは昔もひどかった。私自身も精神的にはしばしばいじめられたが、相撲が強かった為か、二人の兄以外から物理的にいじめられることはさほど多くなかった。鶴谷中学の時に一人で城山に登っていたら、全く知らない二人組から突然何回もなぐられた(自分の担任がその生徒をなぐったという理由で)。その時、春休みであった為か、学校もそのことで全くとりあってくれなかった。兄二人は、「校長の子かと思っていばっちょる」ということでよくいじめられていた。それでも、そのいじめた人が鶴城高校に入学する時、「保証人になって欲しい」とその父親が深々と頭を下げてきていた。つまり、いじめがあっても、親が公に口に出すことはまずなかったし、多くの場合は子ども同士で解決していた。大家族で、兄弟が多く、多くの人が貧乏で、その為子ども達は自然を大いに愛し、一日中よく遊んでいた。その上、親は、今ほど教育熱心でなかった。お金持ちになりたい、親孝行したい、いじめられたくない、勉強はしたくないなど、全く今の子どもの心境と一緒である。自分の場合、小さい時から欲のかたまりみたいなもので、夢が一杯あった。今この日記を読むと、感無量となる。その時のいろんな思いが今の自分の基礎を作ったと思う。(20年以上前に、西田病院月報に載せた内容のままです)

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子ども達にどう伝えるべきか・・・

2008-07-17 08:16:46 | Weblog
  大分の採用試験での合格者の取り扱い、既に答案用紙が破棄されてはいるが、パソコンからのデータで、不正合格者は、不採用にするとかなんとか言っているが、破棄したことに対しての教育長の言葉がない?!逃げ腰だ。自主申告する人は、まずいないだろう。皆、自分がかわいいから。しかし、公僕の身、ある程度のタガが必要だ。土台、ペーパーだけで決まること自体が不自然。生徒の前で1年間過ごして、それなりに立派になった新米先生もいるはず。しかし、いい成績で入っても、教師と言う仕事に自分は向いてなかったと思った人もいるはず。一本道でなく、いろんな道が選択できる様にするべきだ。1回のペーパーだけで、全てが決まってしまう感じのそのシステムこそ、国の力で是非変えて欲しいと思う。
 取り敢えず、今は、子どもの心のケアーが大切だと思う。現場では、どの様に対処しているのだろうか?子ども達が尊敬していた先生が、採用の時に不正をしていた。これを知った子ども達の心の傷は、深刻だ。しかし、これを上手にケアー出来れば、それ以上の教育効果があると私は思っている。
 教師の言ったりしたりしていることが100%正しい訳ではない。親の言ったりしたりしていることが100%正しい訳ではない。人間は、過ちを犯す者。それを子ども達は如実に悟ったと思う。しかし、小学生に入ったばかりの子どもには、そんな難しいことを言う必要はないと思う。
 いい先生だったけど、お父さんもお母さんも大好きな先生だったけど、いろんな事情でそうなってしまったと、そんな感じで今はいいと思う(性教育が年齢に応じてその内容がなされるのと同じ原理で)。真実を言うべき時に嘘を言うことなくちゃんと言えばいいと思う。
 他人のことだと、悪いことは悪いと言えるのに、自分のことになると、別の次元になるのが人間だ。そして、こと自分の可愛い子どものこととなると、盲目になり、自分だけでなく、他人もしているからと言う変な理論が生まれてしまう。
 例えば、人間を学歴や学校で差別してはいけないと言う人がいるとする。しかし、大学出の自分の娘が結婚する場合、相手の男性が、家庭の事情で高校しか出ていなかったりすると、娘の親が敬遠する傾向になってしまうことが多い。
 親の価値観が急には変わらない。それから正すとなると、かなりの歳月を要することになる。
 私が小学校1年生の時に入学したのは、子ども2人の為に400万払った校長のいる正にその小学校だった。1年生の1学期に受け持たれた○○○子先生、それはもう、自分にとっては神様みたいな先生だった。父がその学校の校長をしていて、父の教育は、「父兄は学校の先生の悪口を子どもの前で決して言うべきではない。特に、小学校では」との方針であった様だ(私の推測だが)。私が新学期で誰に持たれるか、校長である父親と言えども、全く教えてもらえなかった。
 で、私が尊敬するその神様みたいな先生が教室に来なかった時があった。その時、クラスの一人が、先生の家を知っていると言うことで、クラスの半分くらいが走って家まで行ってしまった記憶がある(私は、先生は遅れても来ると思っていて、行かなかったが)。実は、先生は、深刻な個人的な問題があって来てなかった。それを84歳で亡くなった父親の口から最後まで教えてもらえなかった。しかし、母親から数年前にちょっとしたことで教えてもらった。驚いた。しかし、この歳になると、余り驚かなくなっている自分にも驚いた。
 1年生の二学期からは、○口○子先生と言う立派な(恐らく臨時採用の)先生になった。しかし、自分は初めの先生に憧れていた(自分の場合、幼稚園も行っていなかったこともあり)。
 父は、遠回しに、その憧れの先生のことを私に次の様に言ったことがあった、「授業は、誰が見ても、ピカ一の素晴らしい教え方をしていたが・・・(後、言ってもらえなかったが)」。

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