「連休中は野良仕事をしていた」と書ければカッコ良いが、野良仕事と書くには烏滸がましいほどの庭をうろうろして過ごした連休だった。
猫の額ほどの庭でも四季折々の景色とストーリーがある。
昨年の今頃、花水木にまでうどんこ病が広がり樹がすっかり弱ってしまったせいもあるが、御大は何故かあまり花水木が好きではないので、「これを機会に切り倒し、他の木を植えよう」とさかんに言っていた。だが、まず我が家の庭師さんが枯れてない木を切るのを好まれないし、他の家族は花水木に愛着があるため、なんとなく生き延びてきた花水木。
春先そこに又うどんこ病らしきものが確認できたので、いよいよ御大が枝を大がかりに切りはじめたのだが、その時ふと家人が「この前、ワンコが花水木の根元に帰ってきた夢をみたんだけどな。ワンコはいつも花水木を見ながら昼寝してたな」と呟いた。これを聞くなり御大は、持っていたノコギリをヘラのような物にかえ、丁寧に丁寧にうどん粉病らしきものを削ぎ始めたのだ。あれほど嫌っていた花水木を愛おしむように撫ぜ、うどんこ病を削いていく姿を見ると、ワンコをうしなった御大の悲しみが痛いほどに伝わってきた。
その花水木にわずかだが、今年も白い花が咲いた。
雀さんの落し物である我が家の花水木は、野生種ゆえか花が少なくまた華やぎもない、それを面白味がないと言う人もいるが、私はその素朴な佇まいが好きだ。
そんな花水木が今年も無事に咲き、花水木の白に引き立てられた牡丹と石楠花の赤が連休中は美しかった。
これだけ書けば多少は風流だが、今庭は風流とはほど遠い、ドラキュラ伯爵も真っ青な状態である。
昨年の秋、野菜が高いことに怒った家人が「何でもよいから収穫できるものを植えるべし」と無茶を言ってきた、その時’’日焼けのなすび’’で植えたのがニンニクだった。
夏野菜はそこそこ収穫が楽しめるのだが、私が下手なのか、秋冬物はさっぱりだ。
大根を植えたはずがゴボウのようなものしかできず、聖護院の大カブのはずがラディッシュのようなものしかできず、ほうれん草や春菊も霜にやられ、なかなか上手く収穫できないので、近年冬は堆肥作りと称して休業を決め込んでいたのだが、「収穫できるものを植えるべし」との鶴の一声。
何を植えるにも時期があり・・・・・手遅れの状態で植えたのが、ニンニクと二袋100円で買った春菊とカブの種だった。 「祝ノーベル賞受賞 ブラボー北里研究所!」
それが何と大豊作。
カブはカブの大きさに育ち、漬物やお吸い物の具として大活躍したし、春菊も胡麻和えとして何度も食卓に上った。
こうなってくるとニンニクのデキにも欲がでてくる、’’春先から大きくなあれ’’と呪文をかけながら見守ってきたが、なにせ箱庭のこと、そうそう見守ってばかりはいられない。
ニンニクが植わっているプランターを夏野菜のために空けなければならないし、葉もすっかり黄ばんできたので、ものの書によると掘り起こすにはまだ早そうだが、掘り起こしてみた。
うぉーうぉー
青森産ホワイト六方種と見粉うばかりの見事なニンニクがごろごろ収穫できたのだが、これを晴天のもと庭で干していたのだから、ドラキュラ伯爵もまっさおである。
こうなると調子に乗ってしまうのが私で、性懲りもなく今年もまた茄子に挑戦することを決意し、高級な苗を上等の堆肥に植え’’大きくなあれ、立派な実をつけろ’’と呪文をかける日々が始まった。「千に一つの不出来を恥じる」
この記録は追々と。
ところで、芳しい臭い漂う庭におおよそ似つかわしくない可憐なピンクの薔薇の蕾が4つあった。
日頃は薔薇の花は切らないし、まして仏壇にあげたりはしないのだが、大嵐がくるというので、棘をすべて取ったうえでワンコ・水飲みオアシスに活けて仏壇の前(ワンコスペース)に飾った。
今にも咲かんばかりにぷっくりと膨らんだ蕾を活けたはずが、一夜明けると、しどけなく花弁が開き、あの初々しい姿が何処にもないのを見て、受験生の頃に出会い強く印象に残った映画と本で繰り返し語られていた詩を思い出し、久しぶりに「今を生きる」(N・Hクラインバウム 訳・白石朗)を手に取った。
この詩の朗読に続けてキーティング先生はいう。
『’’薔薇の蕾をつむのならいま’’』
『こうした感情を、ラテン語では’’カルペ・ディエム’’という』
『我々が経験できる春や秋の回数には、しょせん限りがあるからこそなんだ。
今はまだ信じがたいかもしれない。
だが我々は、誰もが一人残らず、何時の日にか呼吸をやめ、冷たくなって死んでいく』
『カルペ・ディエム』
『今日を楽しめ。自分自身の人生を忘れがたいものにするのだ』
今再び読み返してみると、受験生の頃に初めて読んだ時とは全く印象が異なっていることに驚いている。
Carpe diem
Carpe diem! ワンコが耳元でささやいている
猫の額ほどの庭でも四季折々の景色とストーリーがある。
昨年の今頃、花水木にまでうどんこ病が広がり樹がすっかり弱ってしまったせいもあるが、御大は何故かあまり花水木が好きではないので、「これを機会に切り倒し、他の木を植えよう」とさかんに言っていた。だが、まず我が家の庭師さんが枯れてない木を切るのを好まれないし、他の家族は花水木に愛着があるため、なんとなく生き延びてきた花水木。
春先そこに又うどんこ病らしきものが確認できたので、いよいよ御大が枝を大がかりに切りはじめたのだが、その時ふと家人が「この前、ワンコが花水木の根元に帰ってきた夢をみたんだけどな。ワンコはいつも花水木を見ながら昼寝してたな」と呟いた。これを聞くなり御大は、持っていたノコギリをヘラのような物にかえ、丁寧に丁寧にうどん粉病らしきものを削ぎ始めたのだ。あれほど嫌っていた花水木を愛おしむように撫ぜ、うどんこ病を削いていく姿を見ると、ワンコをうしなった御大の悲しみが痛いほどに伝わってきた。
その花水木にわずかだが、今年も白い花が咲いた。
雀さんの落し物である我が家の花水木は、野生種ゆえか花が少なくまた華やぎもない、それを面白味がないと言う人もいるが、私はその素朴な佇まいが好きだ。
そんな花水木が今年も無事に咲き、花水木の白に引き立てられた牡丹と石楠花の赤が連休中は美しかった。
これだけ書けば多少は風流だが、今庭は風流とはほど遠い、ドラキュラ伯爵も真っ青な状態である。
昨年の秋、野菜が高いことに怒った家人が「何でもよいから収穫できるものを植えるべし」と無茶を言ってきた、その時’’日焼けのなすび’’で植えたのがニンニクだった。
夏野菜はそこそこ収穫が楽しめるのだが、私が下手なのか、秋冬物はさっぱりだ。
大根を植えたはずがゴボウのようなものしかできず、聖護院の大カブのはずがラディッシュのようなものしかできず、ほうれん草や春菊も霜にやられ、なかなか上手く収穫できないので、近年冬は堆肥作りと称して休業を決め込んでいたのだが、「収穫できるものを植えるべし」との鶴の一声。
何を植えるにも時期があり・・・・・手遅れの状態で植えたのが、ニンニクと二袋100円で買った春菊とカブの種だった。 「祝ノーベル賞受賞 ブラボー北里研究所!」
それが何と大豊作。
カブはカブの大きさに育ち、漬物やお吸い物の具として大活躍したし、春菊も胡麻和えとして何度も食卓に上った。
こうなってくるとニンニクのデキにも欲がでてくる、’’春先から大きくなあれ’’と呪文をかけながら見守ってきたが、なにせ箱庭のこと、そうそう見守ってばかりはいられない。
ニンニクが植わっているプランターを夏野菜のために空けなければならないし、葉もすっかり黄ばんできたので、ものの書によると掘り起こすにはまだ早そうだが、掘り起こしてみた。
うぉーうぉー
青森産ホワイト六方種と見粉うばかりの見事なニンニクがごろごろ収穫できたのだが、これを晴天のもと庭で干していたのだから、ドラキュラ伯爵もまっさおである。
こうなると調子に乗ってしまうのが私で、性懲りもなく今年もまた茄子に挑戦することを決意し、高級な苗を上等の堆肥に植え’’大きくなあれ、立派な実をつけろ’’と呪文をかける日々が始まった。「千に一つの不出来を恥じる」
この記録は追々と。
ところで、芳しい臭い漂う庭におおよそ似つかわしくない可憐なピンクの薔薇の蕾が4つあった。
日頃は薔薇の花は切らないし、まして仏壇にあげたりはしないのだが、大嵐がくるというので、棘をすべて取ったうえでワンコ・水飲みオアシスに活けて仏壇の前(ワンコスペース)に飾った。
今にも咲かんばかりにぷっくりと膨らんだ蕾を活けたはずが、一夜明けると、しどけなく花弁が開き、あの初々しい姿が何処にもないのを見て、受験生の頃に出会い強く印象に残った映画と本で繰り返し語られていた詩を思い出し、久しぶりに「今を生きる」(N・Hクラインバウム 訳・白石朗)を手に取った。
’’To the Virgins, to Make Much of Time’’(ロバート・ヘリック)
薔薇の蕾をつむのならいま
時の流れはいと速ければ
きょう咲き誇るこの薔薇も
あすは枯れるものなれば
時の流れはいと速ければ
きょう咲き誇るこの薔薇も
あすは枯れるものなれば
この詩の朗読に続けてキーティング先生はいう。
『’’薔薇の蕾をつむのならいま’’』
『こうした感情を、ラテン語では’’カルペ・ディエム’’という』
『我々が経験できる春や秋の回数には、しょせん限りがあるからこそなんだ。
今はまだ信じがたいかもしれない。
だが我々は、誰もが一人残らず、何時の日にか呼吸をやめ、冷たくなって死んでいく』
『カルペ・ディエム』
『今日を楽しめ。自分自身の人生を忘れがたいものにするのだ』
今再び読み返してみると、受験生の頃に初めて読んだ時とは全く印象が異なっていることに驚いている。
Carpe diem
Carpe diem! ワンコが耳元でささやいている