本仲間から「読んだら絶対に買いたくなる」と言われて借りた「暗幕のゲルニカ」(原田マハ) ~『 』本書より引用~
本書の帯より
『私は信じる絵画(アート)の力を。反戦のシンボルにして20世紀を代表する絵画、ピカソの<ゲルニカ>。国連本部のロビーに飾られていたこの名画のタペストリーが、2003年のある日、忽然と姿を消した・・・。大戦前夜のパリと現代のNY、スペインが交錯する、華麗でスリリングな美術小説』 http://hon.bunshun.jp/articles/-/4807
「暗幕のゲルニカ」を読み終えたところで、この歴史的瞬間に立ち会えたことに何かしらの意味を見出し考えを深めなければならないと思っている。
<米大統領が現職で初めて広島訪問、慰霊碑に献花 核なき世界訴え> ロイター 5月27日(金)18時30分配信
[広島 27日 ロイター] - オバマ米大統領は27日、現職大統領として初めて広島を訪問し、原爆慰霊碑に献花した。
献花後のスピーチで大統領は「亡くなった方々を悼むために訪れた。あの悲惨な戦争のなかで殺された罪なき人々を追悼する」と述べた。
その上で「歴史の観点で直視する責任を共有する。このような苦しみを繰り返さないために何をすべきか問う必要がある」とし、核保有国は核なき世界を追求する勇気をもつ必要があると語った。
大統領はその後、被爆者と握手し対話、原爆ドームを見学した後、平和記念公園を離れた。
http://jp.reuters.com/article/obama-hiroshima-idJPKCN0YI12M
現職大統領として初めて被爆地広島を訪問したバラク・オバマ氏は、ただ偏に個人の想いで訪問されたのであって、それがアメリカの総意ではないことや、戦争であるかぎり原爆投下だけを盾にして被害者的立場に立つのは違うのだとは分かっているが、それでもあの<ゲルニカ>が、人類史上初の無差別空爆に抗議して製作されたと知れば、日本中に雨あられと降りそそいだ焼夷弾と原爆投下の悲惨さと甚大な被害に改めて怒りを覚えずにはおられない。
日本中に焼夷弾が落とされる数年前にゲルニカを襲った空爆への憤りから生まれたピカソの<ゲルニカ>。
それまで政治的な思想を持たず政治的発言をしてこなかったピカソが<ゲルニカ>を作成したのは、母国スペインの内戦が無関心ではいられないほど混迷を深めていたところに、「ゲルニカ空爆」の一報が入ったからだ。
1937年4月29日付のパリの「ユマニテ」紙に掲載された英「ザ・タイムス」の記者の記事は衝撃的だった。
『スペイン内戦始まって以来、もっとも悲惨な爆撃
バスク地方最古の町、文化の伝統の中心ゲルニカは、昨日に午後、反乱軍の空爆により徹底的に破壊されつくされた。』
この見出しで始まる記事の内容は、日本中に落とされた焼夷弾の惨禍を思い出させる。
3時間15分の攻撃の間、五百キロ級を最大とする爆弾と、三千発を越すと思われるアルミ製一キロ弱の焼夷弾を市中に投下し、かたや戦闘機は市街中心部から低空に舞い降りて、周辺野原に避難した市民に機銃の弾を浴びせたという。
このゲルニカ攻撃について、ジョージ・L・スティア記者は記している。
『1936年に勃発したスペイン内戦は、クーデターを起こしたフランコ将軍率いる反乱軍が、スペイン共和国軍を劣勢に追い込みつつあった。ドイツとイタリアのファシスト政権の圧倒的な支援を取り付けた反乱軍は、一気に政権転覆を狙って、ついに無差別攻撃という、人類史上類を見ない暴挙に出た。その標的となったのがゲルニカであった。』
この暴挙に憤ったピカソが、それまでの政治的沈黙を破って描いたが<ゲルニカ>なのだ。
パリ万博のスペイン館の最大の見せ場として製作された縦約350センチ、横約750センチの<ゲルニカ>は、隣のパビリオンがドイツ、向かいにはイタリア館やソビエト館が並んでいるというという状況で展示されたため、その誕生直後から険しい道を歩むことは決定づけられていた。
このパビリオンでは、ナチスの将校に「この絵を描いたのは、貴様か」と詰問されたピカソが、鋭い視線で将校を見返し「この絵の作者は、あんたたちだ」と言い返す印象的な場面がある。これは後に<ゲルニカ>の帰属をめぐって争いが生じた時に、主人公が「<ゲルニカ>はあなたのものでも、私のものでもない。私達のものだ」と叫ぶ言葉に重なっていくように私には思えたし、作中の芸術の擁護者の「人類と戦争」という捉え方に重なっていくようにも感じられた。
そして、それこそが作者・原田マハ氏が本作に込めた想いなのだと考えている。
『あの絵は<ゲルニカ>とタイトルが付けられているけれど、ピカソはナチスのゲルニカ空爆・・・・・つまりスペイン内戦だけを批判しているわけじゃない。個人の欲望や国益やイデオロギーや、あるいは宗教的対立・・・さまざまな目的や理由から、人類は戦争を繰り返してきた。その愚かさこそを批判しているのではないかと。』
『ピカソはゴヤ(プリンシペ・ビオの丘での銃殺の反戦画)を超えて、もっと普遍的に、戦争の恐ろしさ、愚かさを<ゲルニカ>に込めたのだと思う。彼は、単なる負の記録としてあの一作を描いたわけではない。あの絵は、画家の―つまり僕たち人類の抵抗なのです。
戦争をやめない一方で、戦争に苦しみ続けるのもまた人類なのです。苦しみから逃れるためには、戦争をやめるほかはないのです。
無慈悲で無差別な殺戮は、ゲルニカのみならず、世界のどこででも起こりうることであり、明日にも来年にも、もっともっとずっと未来にも、起り得る悲劇です。
もうやめろ、とピカソは叫んでいる。
殺すな。戦争をするな。負の連鎖を断ち切れ。取り返しがつかなくなる前に―と。
あの絵は、反戦の旗印です。ピカソの挑戦であり、マニュフェストです。』
万博閉幕後、スペイン館で展示された作品の数々は海路スペインへ運ばれることになっていたが、戦乱の混乱のなか送り出された作品のほとんどは紛失してしまった。
だが、その積み荷の中に、<ゲルニカ>は入れられてなかった。
その後<ゲルニカ>はヨーロッパ各地を廻り、ピカソの大回顧展を企画していたMoMA(ニューヨーク近代美術館)へ貸与されるため、1939年アメリカへ渡る。
ピカソがその条件に提示したことは、ただ一つ。
『展覧会が終わったあとも、そのまま、あの作品をMoMAに留めて欲しい。
スペインが真の民主主義を取り戻すその日まで、決してスペインには還さないで欲しい。
それだけが、たった一つの条件だ―』
その日から42年後の1981年、民主化のもと初の総選挙をへて国会が機能し始めたスペインに、<ゲルニカ>は返還され、現在はレイナ・ソフィア芸術センターに収蔵されている。
この数奇な人生を歩む<ゲルニカ>の原寸大のタペストリーが、国連本部のロビーにかけられているそうだ。
国連安保理議場ロビーには、会議を終えた各国の関係者を、記者たちが囲み取材するポイントがあり、そのバックに<ゲルニカ>のタペストリーがかけられているという。
だが、2003年のある日「イラク空爆やむなし」と発言する国務長官の背後に<ゲルニカ>はなかった。
そこには、<ゲルニカ>ではなく、暗幕が下がっていた
・・・・・ここから全ての物語は始まるが、その帰結を書くのは難しい。
それは、出版からさほど時を経ていない本書がミステリーの要素を強く有しているというだけでなく、本の最後のページには『本作は史実に基づいたフィクションです』とあるからだ。
大戦前夜のゲルニカ創作過程の記述と、9・11からイラク戦争へ向かうアメリカの記述の、どこまでが史実でどこからがフィクションなのか、その境界が分からないほどに本作は現実感に溢れており、現代史にも美術史にも疎い私が感想を書くには難しすぎると感じるからだ。
ただ、今日現職の大統領としては初めて被爆地広島を訪問するという決断をしたオバマ大統領の行動力から更に一歩進めて考えるとき、ゲルニカと同じく焼夷弾に散った日本各地の多くの罪のない一般市民の命についても思いをめぐらせなければならないと思う。そして、それと同時に、戦争である限り日本も多くの命を奪った、その事実からも目を背けてはならないのだと思っている。
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『あの絵は<ゲルニカ>とタイトルが付けられているけれど、ピカソはナチスのゲルニカ空爆・・・・・
つまりスペイン内戦だけを批判しているわけじゃない。
個人の欲望や国益やイデオロギーや、あるいは宗教的対立・・・・・
さまざまな目的や理由から、人類は戦争を繰り返してきた。
その愚かさこそを批判しているのではないかと。』
『ピカソは~r略~もっと普遍的に、戦争の恐ろしさ、愚かさを<ゲルニカ>に込めたのだと思う。
彼は、単なる負の記録としてあの一作を描いたわけではない。
あの絵は、画家の―つまり僕たち人類の抵抗なのです。
戦争をやめない一方で、戦争に苦しみ続けるのもまた人類なのです。
苦しみから逃れるためには、戦争をやめるほかはないのです。
無慈悲で無差別な殺戮は、ゲルニカにもならず、世界のどこででも起こりうることであり、
明日にも来年にも、もっともっとずっと未来にも、起り得る悲劇です。
もうやめろ、とピカソは叫んでいる。
殺すな。戦争をするな。負の連鎖を断ち切れ。取り返しがつかなくなる前に―と。
あの絵は、反戦の旗印です。ピカソの挑戦であり、マニュフェストです。』
本書の帯より
『私は信じる絵画(アート)の力を。反戦のシンボルにして20世紀を代表する絵画、ピカソの<ゲルニカ>。国連本部のロビーに飾られていたこの名画のタペストリーが、2003年のある日、忽然と姿を消した・・・。大戦前夜のパリと現代のNY、スペインが交錯する、華麗でスリリングな美術小説』 http://hon.bunshun.jp/articles/-/4807
「暗幕のゲルニカ」を読み終えたところで、この歴史的瞬間に立ち会えたことに何かしらの意味を見出し考えを深めなければならないと思っている。
<米大統領が現職で初めて広島訪問、慰霊碑に献花 核なき世界訴え> ロイター 5月27日(金)18時30分配信
[広島 27日 ロイター] - オバマ米大統領は27日、現職大統領として初めて広島を訪問し、原爆慰霊碑に献花した。
献花後のスピーチで大統領は「亡くなった方々を悼むために訪れた。あの悲惨な戦争のなかで殺された罪なき人々を追悼する」と述べた。
その上で「歴史の観点で直視する責任を共有する。このような苦しみを繰り返さないために何をすべきか問う必要がある」とし、核保有国は核なき世界を追求する勇気をもつ必要があると語った。
大統領はその後、被爆者と握手し対話、原爆ドームを見学した後、平和記念公園を離れた。
http://jp.reuters.com/article/obama-hiroshima-idJPKCN0YI12M
現職大統領として初めて被爆地広島を訪問したバラク・オバマ氏は、ただ偏に個人の想いで訪問されたのであって、それがアメリカの総意ではないことや、戦争であるかぎり原爆投下だけを盾にして被害者的立場に立つのは違うのだとは分かっているが、それでもあの<ゲルニカ>が、人類史上初の無差別空爆に抗議して製作されたと知れば、日本中に雨あられと降りそそいだ焼夷弾と原爆投下の悲惨さと甚大な被害に改めて怒りを覚えずにはおられない。
日本中に焼夷弾が落とされる数年前にゲルニカを襲った空爆への憤りから生まれたピカソの<ゲルニカ>。
それまで政治的な思想を持たず政治的発言をしてこなかったピカソが<ゲルニカ>を作成したのは、母国スペインの内戦が無関心ではいられないほど混迷を深めていたところに、「ゲルニカ空爆」の一報が入ったからだ。
1937年4月29日付のパリの「ユマニテ」紙に掲載された英「ザ・タイムス」の記者の記事は衝撃的だった。
『スペイン内戦始まって以来、もっとも悲惨な爆撃
バスク地方最古の町、文化の伝統の中心ゲルニカは、昨日に午後、反乱軍の空爆により徹底的に破壊されつくされた。』
この見出しで始まる記事の内容は、日本中に落とされた焼夷弾の惨禍を思い出させる。
3時間15分の攻撃の間、五百キロ級を最大とする爆弾と、三千発を越すと思われるアルミ製一キロ弱の焼夷弾を市中に投下し、かたや戦闘機は市街中心部から低空に舞い降りて、周辺野原に避難した市民に機銃の弾を浴びせたという。
このゲルニカ攻撃について、ジョージ・L・スティア記者は記している。
『1936年に勃発したスペイン内戦は、クーデターを起こしたフランコ将軍率いる反乱軍が、スペイン共和国軍を劣勢に追い込みつつあった。ドイツとイタリアのファシスト政権の圧倒的な支援を取り付けた反乱軍は、一気に政権転覆を狙って、ついに無差別攻撃という、人類史上類を見ない暴挙に出た。その標的となったのがゲルニカであった。』
この暴挙に憤ったピカソが、それまでの政治的沈黙を破って描いたが<ゲルニカ>なのだ。
パリ万博のスペイン館の最大の見せ場として製作された縦約350センチ、横約750センチの<ゲルニカ>は、隣のパビリオンがドイツ、向かいにはイタリア館やソビエト館が並んでいるというという状況で展示されたため、その誕生直後から険しい道を歩むことは決定づけられていた。
このパビリオンでは、ナチスの将校に「この絵を描いたのは、貴様か」と詰問されたピカソが、鋭い視線で将校を見返し「この絵の作者は、あんたたちだ」と言い返す印象的な場面がある。これは後に<ゲルニカ>の帰属をめぐって争いが生じた時に、主人公が「<ゲルニカ>はあなたのものでも、私のものでもない。私達のものだ」と叫ぶ言葉に重なっていくように私には思えたし、作中の芸術の擁護者の「人類と戦争」という捉え方に重なっていくようにも感じられた。
そして、それこそが作者・原田マハ氏が本作に込めた想いなのだと考えている。
『あの絵は<ゲルニカ>とタイトルが付けられているけれど、ピカソはナチスのゲルニカ空爆・・・・・つまりスペイン内戦だけを批判しているわけじゃない。個人の欲望や国益やイデオロギーや、あるいは宗教的対立・・・さまざまな目的や理由から、人類は戦争を繰り返してきた。その愚かさこそを批判しているのではないかと。』
『ピカソはゴヤ(プリンシペ・ビオの丘での銃殺の反戦画)を超えて、もっと普遍的に、戦争の恐ろしさ、愚かさを<ゲルニカ>に込めたのだと思う。彼は、単なる負の記録としてあの一作を描いたわけではない。あの絵は、画家の―つまり僕たち人類の抵抗なのです。
戦争をやめない一方で、戦争に苦しみ続けるのもまた人類なのです。苦しみから逃れるためには、戦争をやめるほかはないのです。
無慈悲で無差別な殺戮は、ゲルニカのみならず、世界のどこででも起こりうることであり、明日にも来年にも、もっともっとずっと未来にも、起り得る悲劇です。
もうやめろ、とピカソは叫んでいる。
殺すな。戦争をするな。負の連鎖を断ち切れ。取り返しがつかなくなる前に―と。
あの絵は、反戦の旗印です。ピカソの挑戦であり、マニュフェストです。』
万博閉幕後、スペイン館で展示された作品の数々は海路スペインへ運ばれることになっていたが、戦乱の混乱のなか送り出された作品のほとんどは紛失してしまった。
だが、その積み荷の中に、<ゲルニカ>は入れられてなかった。
その後<ゲルニカ>はヨーロッパ各地を廻り、ピカソの大回顧展を企画していたMoMA(ニューヨーク近代美術館)へ貸与されるため、1939年アメリカへ渡る。
ピカソがその条件に提示したことは、ただ一つ。
『展覧会が終わったあとも、そのまま、あの作品をMoMAに留めて欲しい。
スペインが真の民主主義を取り戻すその日まで、決してスペインには還さないで欲しい。
それだけが、たった一つの条件だ―』
その日から42年後の1981年、民主化のもと初の総選挙をへて国会が機能し始めたスペインに、<ゲルニカ>は返還され、現在はレイナ・ソフィア芸術センターに収蔵されている。
この数奇な人生を歩む<ゲルニカ>の原寸大のタペストリーが、国連本部のロビーにかけられているそうだ。
国連安保理議場ロビーには、会議を終えた各国の関係者を、記者たちが囲み取材するポイントがあり、そのバックに<ゲルニカ>のタペストリーがかけられているという。
だが、2003年のある日「イラク空爆やむなし」と発言する国務長官の背後に<ゲルニカ>はなかった。
そこには、<ゲルニカ>ではなく、暗幕が下がっていた
・・・・・ここから全ての物語は始まるが、その帰結を書くのは難しい。
それは、出版からさほど時を経ていない本書がミステリーの要素を強く有しているというだけでなく、本の最後のページには『本作は史実に基づいたフィクションです』とあるからだ。
大戦前夜のゲルニカ創作過程の記述と、9・11からイラク戦争へ向かうアメリカの記述の、どこまでが史実でどこからがフィクションなのか、その境界が分からないほどに本作は現実感に溢れており、現代史にも美術史にも疎い私が感想を書くには難しすぎると感じるからだ。
ただ、今日現職の大統領としては初めて被爆地広島を訪問するという決断をしたオバマ大統領の行動力から更に一歩進めて考えるとき、ゲルニカと同じく焼夷弾に散った日本各地の多くの罪のない一般市民の命についても思いをめぐらせなければならないと思う。そして、それと同時に、戦争である限り日本も多くの命を奪った、その事実からも目を背けてはならないのだと思っている。
ゲルニカ市にある実物大のタペストリー
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写真出展 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mural_del_Gernika.jpg
『あの絵は<ゲルニカ>とタイトルが付けられているけれど、ピカソはナチスのゲルニカ空爆・・・・・
つまりスペイン内戦だけを批判しているわけじゃない。
個人の欲望や国益やイデオロギーや、あるいは宗教的対立・・・・・
さまざまな目的や理由から、人類は戦争を繰り返してきた。
その愚かさこそを批判しているのではないかと。』
『ピカソは~r略~もっと普遍的に、戦争の恐ろしさ、愚かさを<ゲルニカ>に込めたのだと思う。
彼は、単なる負の記録としてあの一作を描いたわけではない。
あの絵は、画家の―つまり僕たち人類の抵抗なのです。
戦争をやめない一方で、戦争に苦しみ続けるのもまた人類なのです。
苦しみから逃れるためには、戦争をやめるほかはないのです。
無慈悲で無差別な殺戮は、ゲルニカにもならず、世界のどこででも起こりうることであり、
明日にも来年にも、もっともっとずっと未来にも、起り得る悲劇です。
もうやめろ、とピカソは叫んでいる。
殺すな。戦争をするな。負の連鎖を断ち切れ。取り返しがつかなくなる前に―と。
あの絵は、反戦の旗印です。ピカソの挑戦であり、マニュフェストです。』