一限目「幸が阪急電車に乗ったなら」 二限目「毬毬を包み込むナニワ文化圏」より
三限目「豊かな地に愛される皇太子様」
「あきない世傳 金と銀」(高田郁)の主人公・幸の父は「商いは詐」と蔑んでいるが、長男・雅由は漢学に加えて経済も学び、父とは異なる考えを持っている。
『「経済禄」の一節に、「今世の諸侯は、大も小も皆、首を低れて町人に無心を言ひ」とあった。要するに武士は豪商の金銀に頼って暮らさざるを得ないのが実情だ、というのだよ。こうした武家の困窮を救うには、金銀を手に入れることこそが大事になるだろうし、そのために物の売り買いというのは益々重要になっていくだろう。おそらく、今後は治世を論じる上でも、金銀を抜きには語れない時代がくる、またそうでなければ、この国は危うい』
この雅由の言葉を読んだ時、「あさが来た」(2015年度下半期放送のNHK「連続テレビ小説」)の一場面が浮かび、それとともに江戸時代の佇まいを今に残している町並みを懐かしく思い出した。
「あさが来た」には、新政府の無理な要求に行き詰まった加野屋が、奈良の豪商(笑福亭鶴瓶)にぜぜこを借りに行かねばならぬほどに困窮する場面がある。この厄介な役目を任されたあさは、一筋縄ではいかぬ老獪な豪商を向こうにまわし啖呵を切り、加野屋の誇りを守りながらもぜぜこを借りることに成功し店の窮状を救うのだが、あさが向かった先は、本当のところは奈良の豪商ではなく黒船貿易で一儲けした新興成金だったようだ。
もちろん物語なので史実どおりではなくとも良いが、では何故奈良の豪商という設定になったのかというと、それにはやはり理由があると思われる。
奈良には大阪の堺の並んで隆盛を極めた今井町という町がある。
それは、「大和の金は今井に七分」と云われるほどで、今も江戸時代の佇まいが残る町並みが保存されているため、歴史的背景としてもロケ地としても相応しかったのだと思われるのだ。
この今井町を何年か前に旅したことがあるので、「あさが来た」の鶴瓶豪商の場面も面白く見たし、雅由の言葉も素直にうなずけたのだ。
雅由は『「経済禄」の一節に、「今世の諸侯は、大も小も皆、首を低れて町人に無心を言ひ」とあった。要するに武士は豪商の金銀に頼って暮らさざるを得ないのが実情だ、というのだよ。』と言っているが、今井町には大名諸侯が皆まさに首を低れて町人に無心を言った証拠 ―正式な入り口とは別に、身を屈めなければ出入りできないような小さな木戸のような入口をもつ屋敷― が残されている。それは、人知れずぜぜこの無心にくる武家の姿が目立たぬようにとの配慮とも云えるが、無用に腰のものを振る舞わされないようにとの用心でもあったのだろうと、説明を受けた記憶がある。
武士が「士農工商」「商いは詐」と強がったところで、結局ぜぜこの前に首を低れるしかないところが物悲しく、ここは一先ず「鬼はもとより」(青山文平)で財政難を救う藩札に命をかける侍の『藩札掛は、貧しさという、この国最大の敵と闘う。一見、商いに近い仕業に映って、その実、命を惜しむ商人には到底望めぬ務めであり、それを成し遂げうるのは、死と寄り添う武家のみだった』を思い出し溜飲を下げておくが、三限目で書こうとしていたのは、これとは又別のことだ。
今井町を訪ねたのが何時だったか正確なところは忘れたが、福田康夫総理在任中のことであったのは確かだ。
というのも、彼の地には歴代総理が「国酒」と揮毫した色紙を飾っている造り酒屋があり、最新の色紙が福田元総理のそれだったからだ。
なぜその時期にこだわっているかというと、この時期の皇太子御一家バッシングは凄まじいものがあったからだ。
バカらしい記事に続いての宮内庁長官による尤もらしい苦言を狼煙として、ネットはもちろん新聞から雑誌に至るまで、全ての情報媒体が皇太子御一家バッシング一色に染まっていた。私が彼の地を訪れたのは、ちょうど其の頃だと思うが、彼の地の人も彼の地を旅する人も、皇太子御一家に温かかった。
彼の地を案内して下さる方が、「当地は皇族方も訪問されており、特に皇太子様を御案内できたことは誠に誇らしい」などと云いながら、皇太子様が立たれた場所や座られた場所を身振り手振りを交えて話されるのを又旅行者皆が本当に嬉しそうに聞き入り、口々に雅子妃殿下のご回復と皇太子御一家のお幸せを願っている、と話されていたのは今も強く心に残っている。
長い歴史を有する町なれば、権力に楯突いた時期もあれば権力と調子を合わせた時期もあり、隆盛を誇った時期もあれば衰退期を耐え忍んだ時期もある。その時々の人間の浅ましさと醜さと、それを超える人の優しさと美しさを、長い歴史を今に守り伝えている町屋の方々はよくよく知っておられるに違いなく、だからこそ皇太子御一家がおかれている苦境も理解されているに違いない。そしてそのような町並みを懐かしがり訪ねる人も、それを推察する心があるにちがいない。
あれほどのバッシング報道の最中ではあったが、彼の地は、皇太子御一家を応援する温かい声ばかりだった。
長い歴史を有する国に住まう幸せを感じ、誠の大和魂をもつ者ならば分かっていると知る彼の地の訪問であった。
今年は神武天皇2600年祭の年。
皇太子御一家のお幸せを祈るためにも、彼の地からそう遠くない神武天皇稜を、何年かぶりにお参りさせていただこうかと思っている。
追記
二限目「毬毬を包み込むナニワ文化圏」の文末で、三限目でナニワ文化圏用語の種明かしをすると書いておきながら忘れていたので、こっそり追記
「袖口の火事」で、「手が出せぬ」
「赤子の行水」で、「盥で泣いてる」、つまり「(銭が)足らいで泣いている」
「饂飩屋の釜」で、「湯ぅばっかり」、つまり「言うばっかり」
饂飩屋の釜にならぬように心しなければならないと、今頃追記を書きながら反省している。
三限目「豊かな地に愛される皇太子様」
「あきない世傳 金と銀」(高田郁)の主人公・幸の父は「商いは詐」と蔑んでいるが、長男・雅由は漢学に加えて経済も学び、父とは異なる考えを持っている。
『「経済禄」の一節に、「今世の諸侯は、大も小も皆、首を低れて町人に無心を言ひ」とあった。要するに武士は豪商の金銀に頼って暮らさざるを得ないのが実情だ、というのだよ。こうした武家の困窮を救うには、金銀を手に入れることこそが大事になるだろうし、そのために物の売り買いというのは益々重要になっていくだろう。おそらく、今後は治世を論じる上でも、金銀を抜きには語れない時代がくる、またそうでなければ、この国は危うい』
この雅由の言葉を読んだ時、「あさが来た」(2015年度下半期放送のNHK「連続テレビ小説」)の一場面が浮かび、それとともに江戸時代の佇まいを今に残している町並みを懐かしく思い出した。
「あさが来た」には、新政府の無理な要求に行き詰まった加野屋が、奈良の豪商(笑福亭鶴瓶)にぜぜこを借りに行かねばならぬほどに困窮する場面がある。この厄介な役目を任されたあさは、一筋縄ではいかぬ老獪な豪商を向こうにまわし啖呵を切り、加野屋の誇りを守りながらもぜぜこを借りることに成功し店の窮状を救うのだが、あさが向かった先は、本当のところは奈良の豪商ではなく黒船貿易で一儲けした新興成金だったようだ。
もちろん物語なので史実どおりではなくとも良いが、では何故奈良の豪商という設定になったのかというと、それにはやはり理由があると思われる。
奈良には大阪の堺の並んで隆盛を極めた今井町という町がある。
それは、「大和の金は今井に七分」と云われるほどで、今も江戸時代の佇まいが残る町並みが保存されているため、歴史的背景としてもロケ地としても相応しかったのだと思われるのだ。
この今井町を何年か前に旅したことがあるので、「あさが来た」の鶴瓶豪商の場面も面白く見たし、雅由の言葉も素直にうなずけたのだ。
雅由は『「経済禄」の一節に、「今世の諸侯は、大も小も皆、首を低れて町人に無心を言ひ」とあった。要するに武士は豪商の金銀に頼って暮らさざるを得ないのが実情だ、というのだよ。』と言っているが、今井町には大名諸侯が皆まさに首を低れて町人に無心を言った証拠 ―正式な入り口とは別に、身を屈めなければ出入りできないような小さな木戸のような入口をもつ屋敷― が残されている。それは、人知れずぜぜこの無心にくる武家の姿が目立たぬようにとの配慮とも云えるが、無用に腰のものを振る舞わされないようにとの用心でもあったのだろうと、説明を受けた記憶がある。
武士が「士農工商」「商いは詐」と強がったところで、結局ぜぜこの前に首を低れるしかないところが物悲しく、ここは一先ず「鬼はもとより」(青山文平)で財政難を救う藩札に命をかける侍の『藩札掛は、貧しさという、この国最大の敵と闘う。一見、商いに近い仕業に映って、その実、命を惜しむ商人には到底望めぬ務めであり、それを成し遂げうるのは、死と寄り添う武家のみだった』を思い出し溜飲を下げておくが、三限目で書こうとしていたのは、これとは又別のことだ。
今井町を訪ねたのが何時だったか正確なところは忘れたが、福田康夫総理在任中のことであったのは確かだ。
というのも、彼の地には歴代総理が「国酒」と揮毫した色紙を飾っている造り酒屋があり、最新の色紙が福田元総理のそれだったからだ。
なぜその時期にこだわっているかというと、この時期の皇太子御一家バッシングは凄まじいものがあったからだ。
バカらしい記事に続いての宮内庁長官による尤もらしい苦言を狼煙として、ネットはもちろん新聞から雑誌に至るまで、全ての情報媒体が皇太子御一家バッシング一色に染まっていた。私が彼の地を訪れたのは、ちょうど其の頃だと思うが、彼の地の人も彼の地を旅する人も、皇太子御一家に温かかった。
彼の地を案内して下さる方が、「当地は皇族方も訪問されており、特に皇太子様を御案内できたことは誠に誇らしい」などと云いながら、皇太子様が立たれた場所や座られた場所を身振り手振りを交えて話されるのを又旅行者皆が本当に嬉しそうに聞き入り、口々に雅子妃殿下のご回復と皇太子御一家のお幸せを願っている、と話されていたのは今も強く心に残っている。
長い歴史を有する町なれば、権力に楯突いた時期もあれば権力と調子を合わせた時期もあり、隆盛を誇った時期もあれば衰退期を耐え忍んだ時期もある。その時々の人間の浅ましさと醜さと、それを超える人の優しさと美しさを、長い歴史を今に守り伝えている町屋の方々はよくよく知っておられるに違いなく、だからこそ皇太子御一家がおかれている苦境も理解されているに違いない。そしてそのような町並みを懐かしがり訪ねる人も、それを推察する心があるにちがいない。
あれほどのバッシング報道の最中ではあったが、彼の地は、皇太子御一家を応援する温かい声ばかりだった。
長い歴史を有する国に住まう幸せを感じ、誠の大和魂をもつ者ならば分かっていると知る彼の地の訪問であった。
今年は神武天皇2600年祭の年。
皇太子御一家のお幸せを祈るためにも、彼の地からそう遠くない神武天皇稜を、何年かぶりにお参りさせていただこうかと思っている。
追記
二限目「毬毬を包み込むナニワ文化圏」の文末で、三限目でナニワ文化圏用語の種明かしをすると書いておきながら忘れていたので、こっそり追記
「袖口の火事」で、「手が出せぬ」
「赤子の行水」で、「盥で泣いてる」、つまり「(銭が)足らいで泣いている」
「饂飩屋の釜」で、「湯ぅばっかり」、つまり「言うばっかり」
饂飩屋の釜にならぬように心しなければならないと、今頃追記を書きながら反省している。