先週は、日本の行く末に影響を与える諸々が’’そもそも’’会議を経るという週だったことから 「小さいおうち」(中島京子)を思いだし、’’うんこ’’シリーズとして書いてきた。
昭和5年に山形から東京で出てきて女中さんとして働くタキさんが、激動の時代をどのように捉えていたかについては、「しつこく、’’うんこ’’週間」 「’’うんこ’’週間なので、続く」「終わりの始まり、’’うんこ’’」に書いてきたが、タキさんに大きな影響を与えたにもかかわらず、これまで記していなかった人物がいる。
それは、タキさんが初めて女中として奉公にあがった家の主人である、作家の小中先生だ。
奉公し始めたばかりのタキさんに 小中先生が言って聞かせた女中の心得は、今年の流行語大賞になりそうな言葉と関連すると思うので、次の機会に書くかもしれないが、今日という日は、「時代」の空気という観点から記しておきたい言葉がある。
昭和10~11年、東京オリンピックと万国博覧会の開催決定に沸き、それによる好景気に浮かれていた多くの国民は、満州事変も2・26事件も「兵隊さんのこと」だと思っていたという。
「非常時」がある種の流行語になっていた市民の日常には、ジワジワ沁み込んでくる「時代」というものがあったが、一方でやはり大音量で傾れ込んでくる「時代」もあった。
それを、小中先生は嘆いている。(『 』「小さいおうち」より引用)
『なにがどうというんでもないが、僕だって、一生懸命やっている。僕だって、岸田だって、菊池だって、よくやっている。国を思う気持ちも人後に落ちないつもりだ。しかし、その我々をすら、非難する者があらわれる。文壇とは恐ろしいところだ。なんだか神がかり的なものが、知性の世界にまで入ってくる。だんだん、みんなが人を見てものを言うようになる。そしていちばん解りやすくて強い口調のものが、人を圧迫するようになる。抵抗はできまい。急進的なものは、はびこるだろう。このままいけば、誰かに非難されるより先に、強い口調でものを言ったほうが勝ちだとなってくる。そうはしたくない。しかし、しなければこっちの身が危ない。そんなこんなで身を削るあまり、体を壊すものもあらわれる。そうはなりたくない。家族もある。ここが問題だ。悩む。書く。火にくべてしまえと思う。あるいは、投函してしまえと思う。どちらもできない。いやはや』
小中先生は、そのような状況を「マドリングスルー」と云うのだと、遠くを見つめながら独り言のようにゴニョゴニョ語った。
『マドリング・スルー。計画も秘策もなく、どうやらこうやらその場を切り抜ける。
戦場にいる時の、連中の方法なんだ。このごろ口をついて出てきてね。
マドリング・スルー、マドリング・スルー。
秘策もなく、何も考えずに。』
いつの時代もそうだろうが現在も、権力社会や権威社会は、分かりやすい耳触りのいいことを大声で強い口調で国民に吹きこみ、思うがままに制度設計しようとする。
それでも、上に立つ者がそれなりの計画や秘策を秘めていてくれれば未だしも救われるが、これもいつの時代もそうだが、結果からみるに、まともな計画や秘策がない時ほど、強い口調がはびこるのだと思う。
だが、マドリング・スルーの元凶は、何も考えずに大きな声・強い口調に従う我々国民かもしれない。
時代は繰り返すのだと思う。
昭和5年に山形から東京で出てきて女中さんとして働くタキさんが、激動の時代をどのように捉えていたかについては、「しつこく、’’うんこ’’週間」 「’’うんこ’’週間なので、続く」「終わりの始まり、’’うんこ’’」に書いてきたが、タキさんに大きな影響を与えたにもかかわらず、これまで記していなかった人物がいる。
それは、タキさんが初めて女中として奉公にあがった家の主人である、作家の小中先生だ。
奉公し始めたばかりのタキさんに 小中先生が言って聞かせた女中の心得は、今年の流行語大賞になりそうな言葉と関連すると思うので、次の機会に書くかもしれないが、今日という日は、「時代」の空気という観点から記しておきたい言葉がある。
昭和10~11年、東京オリンピックと万国博覧会の開催決定に沸き、それによる好景気に浮かれていた多くの国民は、満州事変も2・26事件も「兵隊さんのこと」だと思っていたという。
「非常時」がある種の流行語になっていた市民の日常には、ジワジワ沁み込んでくる「時代」というものがあったが、一方でやはり大音量で傾れ込んでくる「時代」もあった。
それを、小中先生は嘆いている。(『 』「小さいおうち」より引用)
『なにがどうというんでもないが、僕だって、一生懸命やっている。僕だって、岸田だって、菊池だって、よくやっている。国を思う気持ちも人後に落ちないつもりだ。しかし、その我々をすら、非難する者があらわれる。文壇とは恐ろしいところだ。なんだか神がかり的なものが、知性の世界にまで入ってくる。だんだん、みんなが人を見てものを言うようになる。そしていちばん解りやすくて強い口調のものが、人を圧迫するようになる。抵抗はできまい。急進的なものは、はびこるだろう。このままいけば、誰かに非難されるより先に、強い口調でものを言ったほうが勝ちだとなってくる。そうはしたくない。しかし、しなければこっちの身が危ない。そんなこんなで身を削るあまり、体を壊すものもあらわれる。そうはなりたくない。家族もある。ここが問題だ。悩む。書く。火にくべてしまえと思う。あるいは、投函してしまえと思う。どちらもできない。いやはや』
小中先生は、そのような状況を「マドリングスルー」と云うのだと、遠くを見つめながら独り言のようにゴニョゴニョ語った。
『マドリング・スルー。計画も秘策もなく、どうやらこうやらその場を切り抜ける。
戦場にいる時の、連中の方法なんだ。このごろ口をついて出てきてね。
マドリング・スルー、マドリング・スルー。
秘策もなく、何も考えずに。』
いつの時代もそうだろうが現在も、権力社会や権威社会は、分かりやすい耳触りのいいことを大声で強い口調で国民に吹きこみ、思うがままに制度設計しようとする。
それでも、上に立つ者がそれなりの計画や秘策を秘めていてくれれば未だしも救われるが、これもいつの時代もそうだが、結果からみるに、まともな計画や秘策がない時ほど、強い口調がはびこるのだと思う。
だが、マドリング・スルーの元凶は、何も考えずに大きな声・強い口調に従う我々国民かもしれない。
時代は繰り返すのだと思う。