何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

転がらない、心③

2018-07-11 22:00:00 | ひとりごと
京の旅の最終章

人気が高い梅雨時の西芳寺(苔寺)を希望の日に拝観することができたのだから、おとなしく満足しておればよいものを、梅雨時にもかかわらず苔が今一つだったとか、拝観料(3000円)がお高いとか、少しばかり文句を垂れてきたが、一月たち思い返すと、それはとても豊かな時間だった。
そう思わせてくれるのは、写経そのものが楽しかったというのもあるが、心という文字を模した黄金池の周囲を歩きながら、写経に記した「誓願」の想いに浸っていた、その時間をとても豊かに感じられたからだと思う。

 




「あやかし草紙 三島屋変調百物語伍之続」(宮部みゆき)によると、願掛けするほどの誓願は曖昧なものであってはならず、結果が明確なものでなくてはならないという。「我欲の慣れの果て」
確かに、大好きなものや必要なものを絶ってまで願う’’誓願’’は、その結果が明らかにならなければ支障が出てくるものだと思う。
だが、この京の旅で訪れた(願ったことを一つだけ叶えて下さるという)鈴虫寺の御住職の法話によると、これは少し違うようにも思えるのだ。

この法話を思い出したのは、「一生懸命がんばって、テストの朝には仏壇にも神棚にもお願いしたのにな。テストがない大人はいいな」と愚痴る期末テスト直後の子供に、思わず「満点がとりたい!のような願いを単純に念じられる子供時代ほどいいものはないよ」と声をかけた自分の言葉に、ハッとしたからだ。

あの日、鈴虫寺の御住職は、「三高の男と結婚させて下さい。○○大学合格させて下さい、○○会社の内定がとらせて下さい、と願ってはいけない」と仰った。
これぞ、曖昧でない結果が明らかな誓願だと思うのだが、御住職は「わたくしに相応しい人と御縁がありますように。相応しい大学に合格しますように、相応しい会社に就職できますように、と願うべき」だと仰った。

この御法話を聞いた直後は、「願われる側としては、その方が責任を感じずにすむな。少しばかり無責任は話だな」と思ったのだが、その後 苔寺の心を模した黄金池を歩きながら、「確かに、三高男と結婚したからといえ一生幸せとは限らない、念願の○○大学○○会社に入ったばっかりに酷い目に遭う、ということもあるだろう。そう考えれば、相応しい場で、相応しい人と頑張って生きることができますようにと願う方が正しいのだろうし、それこそが難しいのかもしれない」という思いに至ったのだ。

そして、そんな思いが、テスト明けの子供への声掛けにつながったのだと思うので、一月たっても様々に考える余韻を残してくれた苔寺に、とても感謝している京の旅であった。

京の旅と祈り、ちょっとばかし付録があるよ

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