先日来カメラが壊れてしまったと思い込んでいたが、調子が悪かったのは実はSDカード。これはこれで問題なのだが、ともかく心機一転、新しいSDカードに初めて収めるものを何にしようか?と迷っていたところに迷い込んできた、バッタ。
夕食後居間で寛いでいる私の手首にとまりジッとしているバッタに、私が感じたものは・・・・・故に記念すべき第一号!
2~3年前から、猟奇的タイトルにもかかわらず、内容は高校生の純愛ものだという本が流行っていたのは知っていた。
話題の本はとりあえずチェックする私だが、さすがに もう高校生の純愛ものはナイな、と読まずにいたそれを、J君に勧められた。
見るからに乙女チックな表紙のその本は、明らかに年齢にも今の気分にもそぐわないのだが、脳味噌が筋肉質化しているJ君がせっかく勧めてくれた本なので、「食べたい」のが何故に心臓でもなく肝臓でもなく膵臓なのか、という興味だけで読んでみることにした。
「君の膵臓を食べたい」(住野よる)
本の帯より
『ある日、高校生の僕は病院で一冊の文庫本を拾う。タイトルは「共病文庫」。それは、クラスメイトである山内桜良が密かに綴っていた日記帳だった。そこには、彼女の余命が膵臓の病気により、もういくばくもないと書かれていて——。読後、きっとこのタイトルに涙する。』
「君の膵臓をたべたい」は、この意表をついたタイトルで先ず本屋さんの食指を動かせたのだと思うのだが(「本屋大賞」2016第2位)、なぜ「食べたい」のが膵臓だったのかという理由は、意外なことに、しょっぱなから明かされる。
昔の人は、体のどこかに悪いところがあると、他の動物のその部分を食べることによって その病気が治る(同物同治)と信じていたという。
残された時間を普通の高校生として過ごすことを望み、一番の親友にすら膵臓の病を隠していた主人公・桜良が、ひょんなことからその病気を知った<僕>に、言った言葉が、「君の膵臓をたべたい」というものだったのだ。
それは、桜良の余命がいくばくもないことを知る<僕>にすら、明るく振る舞う彼女が見せた、唯一弱気な内容だったかもしれないが、それすら冗談めかして扱われているほどに、本書は全編 病の影も青春の憂いも、伺えない。
ふつうなら、残された時間を懸命に明るく生きる姿は、却って悲哀を感じさせるものだが、’’死ぬまでにしたいことリスト’’を次々とこなしていく桜良のテンションの高い妙な明るさと、それに付き合う 一人で本を読むことを好む<僕>の独特の掛け合いに違和感を感じてしまうのは、私が今時の高校生を理解していないせいか、それとも作者の意図が巧く機能していないせいか、そこは最後まで判然としなかった。
だが、だからと云え、本書や作者に興味を持たなかったわけではなく、寧ろ随所に共感を覚える’’感覚’’があり、住野氏の他の作品を読んでみたいと今は思っている。
本書は先ず実写化され、現在はアニメ化された映画が公開されているので、内容を詳細にすることは控え、共感のツボを断片的に記しておこと思う。(『 』「君の膵臓をたべたい」より)
共感のツボの一番は、何といっても、わんこと本屋。
明日をも知れない命だというのに、「今までで一番つらかったことは?」という問いに、『ずっと一緒にいた犬が中学生のときに死んじゃったことかな』と答える、桜良。
デートの最中に「行きたいところは?」と問われ、「本屋」と即答する、<僕>。
『用事もなく本屋に行くのが好きなんだ』(注 僕)
『何冊もの文庫本の表紙を眺めたり冒頭を読んだりしていると、知らないうちに時間が過ぎていた。本が好きな人間なら理解できるはずの感覚だけれど、全ての人間が本好きなわけではない』
そんな<僕>が、『人に興味を持たないから、人からも興味を持たれないんだろうね。誰も損してないから、僕はそれでよかった』と言い放つほど偏屈な孤独愛好者であることは、同じく読書好きな私としては大いに気になるところだが、<僕>と同様に私も『言葉は往々にして、発信した方ではなく、受信した方の感受性に意味の全てがゆだねられている』『雨の日は嫌いではない。雨の持つ閉塞感が、僕の気持ちにそぐっている日が多くて、雨に対して否定的な気持ちにはなれない』と感じているのだから、私も相当に偏屈なのだろう。
また、度々登場する『意味のないことを言ったんだから追及しないでくれるかな』なんて言葉や『君に僕のフルーチェよりも固い意志が打ち砕けるのかな』なんて言葉を読むと、ちょうど本書の高校生と同じ年齢の頃に「私達の友情は、超薄切りハムより薄いな」などという意味も無い言葉でも大笑いできた日々を思いだすし、『死ぬまで元気でいられるようにってお願いしたよ』なんて言葉を読むと、それは最近の私の願望!と独りでツッコんでいたりする。
事ほど左様に、物語の内容とは異なるところばかりに共感しながら読んだのだが、一つだけ、描写としても美しく又ストーリーに深みを与える箇所がああったので記録しておきたい。
『桜は散ってから、
実はその三ヶ月くらい後には
次の花の芽をつけるんだよ。
その芽は一度眠るの。暖かくなってくるのを待って、
それから一気に咲く。つまり、
桜は咲くべき時を待ってるんだよ。素敵じゃない?』
この、出会いや出来事を偶然のものとして捉えず’’選択’’として受け留める桜良の考えは、強い流れに逆らわず流れに任せる<草舟>を自称している<僕>を変えていく・・・と書きながら、このようなところが、本作が可塑性のある若者やJ君に支持された理由なのだろうかと思ったりしている。
というわけでだ、J君
最近あまり本を読むことができていなかった私に、新たな作家さんを教えてくれて、ありがとう
野球が不完全燃焼だったせいで、高校生活まで’’散った’’感を持っている君よ
もう君のうちには、咲く時を待っている次の花芽が息づいているんだよ
君が咲かせる花を一緒に喜び楽しめる日を、心から待っているよ
私の手首でじっとしているバッタにワンコを感じ、朝夕冷えてきた庭に放すことができなかった。
季節は容赦なく巡ってしまうけれど、次までの一時を、我が家で快適に過ごしておくれ バッタさん
夕食後居間で寛いでいる私の手首にとまりジッとしているバッタに、私が感じたものは・・・・・故に記念すべき第一号!
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2~3年前から、猟奇的タイトルにもかかわらず、内容は高校生の純愛ものだという本が流行っていたのは知っていた。
話題の本はとりあえずチェックする私だが、さすがに もう高校生の純愛ものはナイな、と読まずにいたそれを、J君に勧められた。
見るからに乙女チックな表紙のその本は、明らかに年齢にも今の気分にもそぐわないのだが、脳味噌が筋肉質化しているJ君がせっかく勧めてくれた本なので、「食べたい」のが何故に心臓でもなく肝臓でもなく膵臓なのか、という興味だけで読んでみることにした。
「君の膵臓を食べたい」(住野よる)
本の帯より
『ある日、高校生の僕は病院で一冊の文庫本を拾う。タイトルは「共病文庫」。それは、クラスメイトである山内桜良が密かに綴っていた日記帳だった。そこには、彼女の余命が膵臓の病気により、もういくばくもないと書かれていて——。読後、きっとこのタイトルに涙する。』
「君の膵臓をたべたい」は、この意表をついたタイトルで先ず本屋さんの食指を動かせたのだと思うのだが(「本屋大賞」2016第2位)、なぜ「食べたい」のが膵臓だったのかという理由は、意外なことに、しょっぱなから明かされる。
昔の人は、体のどこかに悪いところがあると、他の動物のその部分を食べることによって その病気が治る(同物同治)と信じていたという。
残された時間を普通の高校生として過ごすことを望み、一番の親友にすら膵臓の病を隠していた主人公・桜良が、ひょんなことからその病気を知った<僕>に、言った言葉が、「君の膵臓をたべたい」というものだったのだ。
それは、桜良の余命がいくばくもないことを知る<僕>にすら、明るく振る舞う彼女が見せた、唯一弱気な内容だったかもしれないが、それすら冗談めかして扱われているほどに、本書は全編 病の影も青春の憂いも、伺えない。
ふつうなら、残された時間を懸命に明るく生きる姿は、却って悲哀を感じさせるものだが、’’死ぬまでにしたいことリスト’’を次々とこなしていく桜良のテンションの高い妙な明るさと、それに付き合う 一人で本を読むことを好む<僕>の独特の掛け合いに違和感を感じてしまうのは、私が今時の高校生を理解していないせいか、それとも作者の意図が巧く機能していないせいか、そこは最後まで判然としなかった。
だが、だからと云え、本書や作者に興味を持たなかったわけではなく、寧ろ随所に共感を覚える’’感覚’’があり、住野氏の他の作品を読んでみたいと今は思っている。
本書は先ず実写化され、現在はアニメ化された映画が公開されているので、内容を詳細にすることは控え、共感のツボを断片的に記しておこと思う。(『 』「君の膵臓をたべたい」より)
共感のツボの一番は、何といっても、わんこと本屋。
明日をも知れない命だというのに、「今までで一番つらかったことは?」という問いに、『ずっと一緒にいた犬が中学生のときに死んじゃったことかな』と答える、桜良。
デートの最中に「行きたいところは?」と問われ、「本屋」と即答する、<僕>。
『用事もなく本屋に行くのが好きなんだ』(注 僕)
『何冊もの文庫本の表紙を眺めたり冒頭を読んだりしていると、知らないうちに時間が過ぎていた。本が好きな人間なら理解できるはずの感覚だけれど、全ての人間が本好きなわけではない』
そんな<僕>が、『人に興味を持たないから、人からも興味を持たれないんだろうね。誰も損してないから、僕はそれでよかった』と言い放つほど偏屈な孤独愛好者であることは、同じく読書好きな私としては大いに気になるところだが、<僕>と同様に私も『言葉は往々にして、発信した方ではなく、受信した方の感受性に意味の全てがゆだねられている』『雨の日は嫌いではない。雨の持つ閉塞感が、僕の気持ちにそぐっている日が多くて、雨に対して否定的な気持ちにはなれない』と感じているのだから、私も相当に偏屈なのだろう。
また、度々登場する『意味のないことを言ったんだから追及しないでくれるかな』なんて言葉や『君に僕のフルーチェよりも固い意志が打ち砕けるのかな』なんて言葉を読むと、ちょうど本書の高校生と同じ年齢の頃に「私達の友情は、超薄切りハムより薄いな」などという意味も無い言葉でも大笑いできた日々を思いだすし、『死ぬまで元気でいられるようにってお願いしたよ』なんて言葉を読むと、それは最近の私の願望!と独りでツッコんでいたりする。
事ほど左様に、物語の内容とは異なるところばかりに共感しながら読んだのだが、一つだけ、描写としても美しく又ストーリーに深みを与える箇所がああったので記録しておきたい。
『桜は散ってから、
実はその三ヶ月くらい後には
次の花の芽をつけるんだよ。
その芽は一度眠るの。暖かくなってくるのを待って、
それから一気に咲く。つまり、
桜は咲くべき時を待ってるんだよ。素敵じゃない?』
この、出会いや出来事を偶然のものとして捉えず’’選択’’として受け留める桜良の考えは、強い流れに逆らわず流れに任せる<草舟>を自称している<僕>を変えていく・・・と書きながら、このようなところが、本作が可塑性のある若者やJ君に支持された理由なのだろうかと思ったりしている。
というわけでだ、J君
最近あまり本を読むことができていなかった私に、新たな作家さんを教えてくれて、ありがとう
野球が不完全燃焼だったせいで、高校生活まで’’散った’’感を持っている君よ
もう君のうちには、咲く時を待っている次の花芽が息づいているんだよ
君が咲かせる花を一緒に喜び楽しめる日を、心から待っているよ
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私の手首でじっとしているバッタにワンコを感じ、朝夕冷えてきた庭に放すことができなかった。
季節は容赦なく巡ってしまうけれど、次までの一時を、我が家で快適に過ごしておくれ バッタさん