なし崩し的に世界が歪んでいくことを認めたわけではないのだが、どう応援すれば良いのか分からないまま、敬愛してきた世界が崩れることが、9月26日 確定してしまった。
旧制中学からの応援歌をがなる応援団にいたせいか、私は応援するということが、好きだ。
このブログも、開設の日に記しているように、敬愛する方、大好きな人・もの、静かに頑張っている人を心から応援する気持ちを認めることを、目的の一つにしてきた。
だが、一番肝心な時に、どう応援することが正しいのか分からないと声をひそめているうちに、取り返しのつかない事態になってしまったのを目の当たりにし、自分の方向性に益々迷いが生じている。
応援するとき、その応援内容が、相手の望むものなのか?
仮に、その応援内容が、相手の望みと一致していて、それが叶ったとしても、人生という長さでみれば良い道だったかは、分からない。
その時は、それが良いと思い応援したが、ずっと後その判断が間違っていた、と判明したら、申し訳なさで居た堪れなくなるのではないか。
いつからか、そんな迷いが生じ、応援の声をあげることを躊躇うようになっていたのだが、それは、仕事のうえでも「応援する」というスタンスに軸足を置く私にとって、大きな問題だった。
9月26日という日は、そんな迷いや問題を改めて突き付けてくる日となってしまった。
そんな折も折、一冊の本と一つの記事を読んだ。
それは、俳優で作家でもある中江有里さんの「君は何をしたいの?ー児玉清さんからの言葉」という記事だった。
読書家で知られた児玉清氏のラジオの新刊書案内は録音してでも聞いていたのだが、児玉氏と中江氏は「週刊ブックレビュー」というテレビ番組で共演されていたそうだ。五年続いたコンビから独立した後、久しぶりに顔を合わせた中江さんは、児玉氏から胸に刺さる言葉を言われたという。
「君は何をしたいの?」
ーなんでもやりたいです、とおどける中江さんに、
「君は中途半端に見えるよ」と、児玉氏は言われたという。
中江さんは素直に、「なんで分かるんだろう?」と思い、その言葉を契機に「何をしたいのか」との問いに答えを出そうと考えるようになったという。
そんな記事が頭のなかにあるまま、9月26日を「台風の日」たらしめる理由の一つ、洞爺丸事故の台風が書かれている本を読んだ。
「氷点」(三浦綾子)
本書では、悲しくも残忍な復讐のために多くの人の人生を狂わせていることに気づかせる出来事として、洞爺丸事故で自分の救命胴衣を差し出し他人を救った宣教師のエピソードが書かれている。
「君は何をしたいの?」という問いかけに対する答えとなる部分を、この洞爺丸の宣教師の件で見出せるほど、私は人間ができてはいない。
自分の救命胴衣を他人に差し出し 亡くなった宣教師の自己犠牲の精神には、一生自己研鑽を積んだとしても、残念ながら近づけそうにもないからだ。
だが、久しぶりに読んだ「氷点」には、今の自分にとってヒントとなる言葉がいくつもあった。(『 』「氷点」より)
『一人の人間を、いいかげんに育てるほど、はた迷惑な話はないんです』
『包帯を巻いてやれないのなら、他人の傷にふれてはならない』
『一生を終えてのちに残るのは、我々が集めたものではなくて、我々が与えたものである』
応援する、というと聞こえは悪くないが、それは未完成に終わった自分の夢を誰かに託しているにすぎないのではないか、自分の思いや理想を誰かに押し付けているだけではないか、あるいは責任逃れの言い訳にすぎないのではないか、そんな迷いが私にはある。
そんな私の迷いを、これらの言葉が直ちに解消してくれるわけではないが、「君は何をしたいの?」の問いに、改めて様々な場面で「応援する」ということを大切にしたいのだと再確認した今、応援する内容や距離感を考える視点になるものと思っている。
↑上記の内容がまとまりないものであるのは承知している。
それは、パソコンの調子が悪く文章がうまく打ち込めないせいでもあるし、グーグルさんの新たな仕様がどうにも使いにくいせいでもある、が↓の理由も大きいと思う。
昨日は昨日でまた おかしなニュースが流れてきた。
年に一度は、家族の誰かが伊勢神宮にお参りすることにしているのだが、この二年ほどお参りできないでいたので、お代替わりの今年は、大嘗祭後に両陛下が伊勢神宮に参拝されるのに合わせて、伊勢を訪ねようかと思っていた。だが、その関連でおかしなニュースを耳にした。
両陛下は伊勢神宮を古式ゆかしい正装で参拝されるのだが、その際 前例にならえば馬車に乗られることになっていた。
それが、皇后陛下はご成婚前から馬に対しアレルギー症状があるため御料車に乗られると、ニュースは伝えている。
そんなおかしな話があるだろうか。
アレルギーは突然起こることがあるので、「最近 馬に対してのアレルギーが確認された」というなら分かるが、ご成婚前から馬にアレルギーがおありだったとなると、話は違ってくる。
なぜなら、皇太子妃時代の雅子妃殿下には、乗馬がお好きだというお言葉や、馬を愛でておられるお写真が数多くあるからだ。
何より不思議なことは、雅子妃殿下は適応障害の治療の一環で、乗馬をなさっている。
ご成婚前から、かなり重い馬アレルギーを持っておられる方に、治療の一環としてであれ乗馬を勧めるようなことがあるだろうか。
まして、そのために酷いバッシングを受けられたことを考えると、医療ミスではすまない悪質なものさえ感じられる。
治療の一環としてされていた乗馬が大バッシングされたタイミングと理由には、深くて暗い闇があるように私には思える。
その闇こそが、皇后陛下を苦しめるものであり、その世界の未来を閉ざす原因なのだと私は思っている。