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2017 四方山話 推理モノ編

2017-09-14 19:00:00 | 自然
「誰の山 どんな山」 「2017 四方山話 その壱」 「2017 四方山話 その弐」 「2017 四方山話 その参」 「2017 四方山話 その肆」 「2017 四方山話 食事編」 「2017四方山話 体重編」より

最近でこそ、好きな山や関心ある山をタイトルにした山岳ミステリーも読むようになったが、長い間そのジャンルを避けていた私が初めて山岳推理小説に出会ったのは、国語の模擬テストに出題されていた「ある遭難」(松本清張)だった。

「ある遭難」は、テスト中であることを忘れるほど面白く’’受験が終われば、この本を読もう’’と思わせるものだったが、その後、命と誇りをかけて山と岩に挑む実在の登山家の本を読むようになったせいか、山を舞台に色恋や銭金がらみの殺人(故意)が次々起こる山岳ミステリーから遠ざかっていた。

だが、松本氏が「ある遭難」を書いた切っ掛けが「当時頻発していた遭難のなかには、事故ではなく事件があるのではないか、と考えたことにある」と知り、再び「ある遭難」を手に取り、それ以来 山岳ミステリーも読むようになったものの、未だに多少の違和感と苦手意識を持っている。

その違和感と苦手意識の理由を、美しい山に物騒な事件を持ち込む事に対しての拒否感だと長年思っていたのだが、「一ノ俣殺人渓谷」(梓林太郎)の後書き(板垣亮平)を読み、そうとばかりは云えないことに気が付いた。と同時に、なぜ「ある遭難」が、山岳推理小説にもかかわらず違和感なく読めたのかも、理解できた。

板垣氏は山岳ライターにして推理マニアだというが、その板垣氏をして『巷間さも難しそうに言われている’’完全犯罪’’というやつも、山ではいとも簡単にできてしまうのである。それだけに、山を舞台にした推理小説というのは難しい』と書かせるのは、そもそも山は滑落・落石・雪崩など危険要素を含んでいるからだ。
それらを利用すれば、簡単に事故を装った殺人ができてしまうにも拘らず、それが自然現象なのか人為的なものかの区別は難しいし、山では密室状態も作出しやすい。
このような特徴をもつ山ゆえに、『設定にそぐわない凝った仕掛けは逆にリアリティの欠如とされてしまう』ため、仕掛けの塩梅が難しいのだ。

様々に工夫されエンターテイメント―性に富んだ山岳ミステリーが、面白くも何処か興ざめな感があるのは、板垣氏の云う「リアリティの欠如」のせいだと思われるのだが、「ある遭難」の手法(未必の故意)には、ゾワリとしたリアリティがある、これこそがテスト中であることを忘れさせたほどの面白さも理由だったのだと、あれからウン十年たって分かった気がしている。

ところで山岳ライターである板垣氏は、もう一つ山岳推理小説の難しさを書いている。
それは、『登山者という人種は妙にマメで、自分の山行記録をしっかるつけている人が多い』ことにある、そうだ。
作家がいいかげんな描写をすると「この季節の〇〇尾根は、こんな感じじゃない。この作者はガイドブックだけ見て書いたんじゃないか」などという指摘(苦情)があったりするそうだ。

私はと云えば、初めて涸沢まで登った時から、とりあえず(自分の)コースタイムを記しただけの山行記録はつけているものの、歩くだけで精一杯で、「この季節の○○尾根は」などと云々する余裕など全くない。
そんな私が撮ってきた、2017年お盆の頃の、上高地~奥穂の植物と生き物の写真は、次回へつづく

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