桜というと、西行法師の「ねがはくは 花のもとにて春死なむ その如月の 望月のころ」のように静かであろうが、「同期の桜」のように勇ましかろうが、どうしても’’死’’に結びついてしまい、最終的には梶井基次郎の「桜の樹の下には 屍体が埋まっている」になってしまうこともあり、もう何年も、私にとっての桜は、心寂しさの方が勝っていた。(近年その理由の一番は、ワンコであるが)
そんな気持ちを増幅させるような、桜の本を読んだ。
「桜の森の満開の下」(坂口安吾)
あらすじwikipediaより引用
『昔、鈴鹿峠に山賊が棲み着いた。通りがかった旅人を身ぐるみ剥がし、連れの女は気に入れば自分の女房にしていた。山賊はこの山のすべて、この谷のすべては自分の物と思っていたが、桜の森だけは恐ろしいと思っていた。桜が満開のときに下を通れば、ゴーゴーと音が鳴り、気が狂ってしまうのだと信じていた。
ある春の日、山賊は都からの旅人を襲って殺し、連れの美女を女房にした。亭主を殺された女は、山賊を怖れもせずにあれこれ指図をする。女は山賊に、家に住まわせていた七人の女房を次々に殺させた。ただ足の不自由な※ビッコの女房だけは女中代わりとして残した。わがままな女はやがて都を恋しがり、山賊は女とともに山を出て都に移った。(注、※本書にある 現在では不適切用語とされる語を、wikipediaはそのまま用いている)
都で女がしたことは、山賊が狩ってくる生首をならべて遊ぶ「首遊び」であった。その目をえぐったりする残酷な女は次々と新しい首を持ってくるように命じるが、さすがの山賊もキリがない行為に嫌気がさした。山賊は都暮らしにも馴染めず、山に帰ると決めた。女も執着していた首をあきらめ、山賊と一緒に戻ることにした。出発のとき、女はビッコの女に向って、じき帰ってくるから待っておいで、とひそかに言い残した。
山賊は女を背負って山に戻ると、桜の森は満開であった。山賊は山に戻ったことがうれしく、忌避していた桜の森を通ることを躊躇しなかった。風の吹く中、桜の下をゆく山賊が振り返ると、女は醜い鬼に変化していた。全身が紫色の顔の大きな老婆の鬼は山賊の首を絞めてきた。山賊は必死で鬼を振り払い、鬼の首を締め上げた。
我にかえると、元の通りの女が桜の花びらにまみれて死んでいた。山賊は桜吹雪の中、声を上げて泣いた。山賊が死んだ女に触れようとするが、女はいつのまにか、ただの花びらだけになっていた。そして花びらを掻き分けようとする山賊自身の手も身体も、延した時にはもはや消えていた。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりだった。』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E3%81%AE%E6%A3%AE%E3%81%AE%E6%BA%80%E9%96%8B%E3%81%AE%E4%B8%8B
桜が死と関連付けられるのは、散り際の美しさと儚さだと思いがちだが、梶井基次郎や坂口安吾は美しさのなかの醜さ、儚さというよりも’’虚’’を見ているのかもしれない。
山賊は世にも美しい女性を八人目の女房にしながら、女房の美しさに その下を通る者を狂わせるという桜の花を重ね、『花の下は冷めたい風がはりつめている』『花の下は涯はてがない』と言うようになる。(『 』「桜の森の満開の下」より)
美しいもの 豪華なものへの執着も、残忍さを極めることにも、際限のない女房。
いつしか山賊は、残忍で強欲な女房を殺そうと考えるようになるが、そこで はたと「あの女は俺ではないか、俺自身ではないか」と思う。
もう何が何やら分からなくなった時に、山賊の心に湧き起ってくる感情は、山を歩く私としては感慨深い。
『山へ帰ろう。山へ帰るのだ。なぜこの単純なことを忘れていたのだろう?』
だが、山へ帰った時には、すべてが遅かった。
世にも美しかった女房は、実は鬼であった。
その鬼を殺し、屍体に触れんとすると、それは桜の花であった。
其は桜か屍体かと伸ばす山賊の手は消え、身体も全て消え、後には虚空が残されるだけだった。
自分の存在そのものを「孤独」だと感じた時 初めて、満開の桜の下への怖れが消えていた。
・・・・・
桜の美しさに醜悪さを見たり、’’虚’’を感じるほどの感性はないかもしれないが、桜に抱く不安や怖れと「孤独」の関連性であれば分かるかもしれない。
愛するものがあれば、その想いが強ければ強いほど、桜は怖いかもしれない。
人間の何倍ものスピードで年を重ねていくワンコと満開の桜並木を散歩する度、「来年もワンコと桜を見ることができるだろうか」と怖れた春を、思い出している。
だが、こんな時はこんな本がいいと お気軽に読んだ本に見つけた桜は、一味違った。
正確に云えば、やはり死の匂いは満ちているのだが、その満開の桜の下には、哀しく切ないけれど、希望があった。(追記、希望のそばには、やはりワンコがいてくれるね ワンコ)
そして、好天に恵まれ長く楽しむことのできた今年の桜は、私の目には華やかだった。
つづく
そんな気持ちを増幅させるような、桜の本を読んだ。
「桜の森の満開の下」(坂口安吾)
あらすじwikipediaより引用
『昔、鈴鹿峠に山賊が棲み着いた。通りがかった旅人を身ぐるみ剥がし、連れの女は気に入れば自分の女房にしていた。山賊はこの山のすべて、この谷のすべては自分の物と思っていたが、桜の森だけは恐ろしいと思っていた。桜が満開のときに下を通れば、ゴーゴーと音が鳴り、気が狂ってしまうのだと信じていた。
ある春の日、山賊は都からの旅人を襲って殺し、連れの美女を女房にした。亭主を殺された女は、山賊を怖れもせずにあれこれ指図をする。女は山賊に、家に住まわせていた七人の女房を次々に殺させた。ただ足の不自由な※ビッコの女房だけは女中代わりとして残した。わがままな女はやがて都を恋しがり、山賊は女とともに山を出て都に移った。(注、※本書にある 現在では不適切用語とされる語を、wikipediaはそのまま用いている)
都で女がしたことは、山賊が狩ってくる生首をならべて遊ぶ「首遊び」であった。その目をえぐったりする残酷な女は次々と新しい首を持ってくるように命じるが、さすがの山賊もキリがない行為に嫌気がさした。山賊は都暮らしにも馴染めず、山に帰ると決めた。女も執着していた首をあきらめ、山賊と一緒に戻ることにした。出発のとき、女はビッコの女に向って、じき帰ってくるから待っておいで、とひそかに言い残した。
山賊は女を背負って山に戻ると、桜の森は満開であった。山賊は山に戻ったことがうれしく、忌避していた桜の森を通ることを躊躇しなかった。風の吹く中、桜の下をゆく山賊が振り返ると、女は醜い鬼に変化していた。全身が紫色の顔の大きな老婆の鬼は山賊の首を絞めてきた。山賊は必死で鬼を振り払い、鬼の首を締め上げた。
我にかえると、元の通りの女が桜の花びらにまみれて死んでいた。山賊は桜吹雪の中、声を上げて泣いた。山賊が死んだ女に触れようとするが、女はいつのまにか、ただの花びらだけになっていた。そして花びらを掻き分けようとする山賊自身の手も身体も、延した時にはもはや消えていた。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりだった。』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E3%81%AE%E6%A3%AE%E3%81%AE%E6%BA%80%E9%96%8B%E3%81%AE%E4%B8%8B
桜が死と関連付けられるのは、散り際の美しさと儚さだと思いがちだが、梶井基次郎や坂口安吾は美しさのなかの醜さ、儚さというよりも’’虚’’を見ているのかもしれない。
山賊は世にも美しい女性を八人目の女房にしながら、女房の美しさに その下を通る者を狂わせるという桜の花を重ね、『花の下は冷めたい風がはりつめている』『花の下は涯はてがない』と言うようになる。(『 』「桜の森の満開の下」より)
美しいもの 豪華なものへの執着も、残忍さを極めることにも、際限のない女房。
いつしか山賊は、残忍で強欲な女房を殺そうと考えるようになるが、そこで はたと「あの女は俺ではないか、俺自身ではないか」と思う。
もう何が何やら分からなくなった時に、山賊の心に湧き起ってくる感情は、山を歩く私としては感慨深い。
『山へ帰ろう。山へ帰るのだ。なぜこの単純なことを忘れていたのだろう?』
だが、山へ帰った時には、すべてが遅かった。
世にも美しかった女房は、実は鬼であった。
その鬼を殺し、屍体に触れんとすると、それは桜の花であった。
其は桜か屍体かと伸ばす山賊の手は消え、身体も全て消え、後には虚空が残されるだけだった。
自分の存在そのものを「孤独」だと感じた時 初めて、満開の桜の下への怖れが消えていた。
・・・・・
桜の美しさに醜悪さを見たり、’’虚’’を感じるほどの感性はないかもしれないが、桜に抱く不安や怖れと「孤独」の関連性であれば分かるかもしれない。
愛するものがあれば、その想いが強ければ強いほど、桜は怖いかもしれない。
人間の何倍ものスピードで年を重ねていくワンコと満開の桜並木を散歩する度、「来年もワンコと桜を見ることができるだろうか」と怖れた春を、思い出している。
だが、こんな時はこんな本がいいと お気軽に読んだ本に見つけた桜は、一味違った。
正確に云えば、やはり死の匂いは満ちているのだが、その満開の桜の下には、哀しく切ないけれど、希望があった。(追記、希望のそばには、やはりワンコがいてくれるね ワンコ)
そして、好天に恵まれ長く楽しむことのできた今年の桜は、私の目には華やかだった。
つづく