何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

ぜんぶ、山 完結編 ②

2018-11-08 12:00:00 | 自然
「ぜんぶ、山 完結編①」より

上高地から槍ケ岳山荘まで歩くこと、22キロ。
槍ケ岳山荘(3080)は、頂上まであと100m(標高)という所にある。

多くの人が、一日目は上高地から槍沢ロッヂまで歩き、翌朝早くに本格的に槍ケ岳へ向け出発する。

早朝 槍沢ロッヂを発った時には晴れていた空が、森林限界を超えたあたりから俄かに曇り、吹き飛ばされそうな風まで吹いてきて、頂上直下の槍ケ岳山荘に辿り着いた時には、ほんの数メートル先も見えない状態になっていた。
それだけであれば、雲の切れ間を狙い登ろうとしたかもしれないが、どうも高所に弱い山pが槍ケ岳山荘で待機中に立ちくらみを起こしたため、登ることを諦めた。

頂上に立つために、22キロの道程を歩いてきたにもかかわらず、あとたった100mの高さが及ばなかったために、登頂が叶わなかったのだが、その時、私がそれをさほど残念に思わなかったのは、自分の力不足を重々承知しているからでもあるが、数年前に快晴の槍ケ岳山頂に立った感動が今でも目に心に鮮やかに浮かび満足していたからでもあった。

だから、談話室で読んだ「岳 みんなの山」(石塚真一)の一節にホロリとしたことに、自分でも驚いた。

それは、日本百名山制覇を目指す老夫婦の話だった。
99の山を登ってきて、最後の最後に、とっておきの槍ケ岳を残しておいた夫婦が、満を持して槍ケ岳頂上を目指したのだが、あと少しのところで登頂が叶わなかったお話だ。
高齢ゆえに後がない老夫婦は、主人公の山岳救助隊の島崎三歩に残念な気持ちを語るのだが、その老夫婦にかける山歩の言葉が、私の心に沁みた、山pの心を救った。

「ここはぜんぶ槍ケ岳。
 てっぺんに立たなくても、槍ケ岳に登ったんだよ」

そうなのだ。
槍ケ岳は、3180メートルのてっぺんだけが、槍ケ岳ではない。
上高地から横尾までの11キロも、そこから槍ケ岳山荘までの11キロも、すべて槍ケ岳への道程であり、天狗原分岐も 殺生分岐も 播隆上人の洞窟も すべて、でっかい槍ケ岳のうちにあるのだ。
足元の花の可憐さに励まされ、頬を打つ雨や飛ばされそうな風を感じることで、槍ケ岳を全身で味わうことができるのだ。
 

頂上は、もちろん立てれば、それにこしたことはない。
だが寧ろ(素人山登り人にとって)大切なことは、頂上へいたる道程を、しっかり味わいながら自分の足で歩くことなのだと思う。
    

山歩きはよく人生にも例えられる。
長い人生では、いつもいつも頂上に立てるわけではないし、一つの頂上に立てたとしても、そこからは 又別の素晴らしい景色が見えるので、望み出したら際限がない。
だからこそ、頂上に立つことと同時に、そこへ至るための過程が大切なのだ。
山歩きとともに、そろそろ後半戦にかかる人生も、何が自分の頂上なのかを見極めながら丁寧に歩きたいな、などと思いながら、「ここはぜんぶ槍ケ岳 てっぺんに立たなくても槍ケ岳に登ったんだよ」という言葉を噛みしめた。

この山歩の言葉が、山pを救った。

「やみくもに頂上だけを目指す山登りは無粋だ」という山屋さんを知っているせいか、快晴の槍ケ岳を一度拝んだことで満足しているせいか、私自身は今回 登頂を諦めたことを全く残念には思っていなかったのだが、山pは違ったようだ。

「自分が立ちくらみさえ起こさなければ、おそらく雲の切れ間を狙い登っただろう」という悔しさは、まだまだ余力を残している私を見るにつけ、申し訳なさに繋がっていたようだ。

だから、「ここはぜんぶ槍ケ岳。てっぺんに立たなくても槍ケ岳に登ったんだよ」という言葉に、救われたという。

そんな思いを持たせてしまったことに、私の方が申し訳ない気がしたのだが、翌朝 槍ケ岳名物焼きたてパンを4つもgetできたことや、大雨のなかの下山の最後に現れた幻想的な風景は、今回の槍ケ岳登山を完全なものにしてくれた。

ここはぜんぶ 山 ぜんぶで 山


「ぜんぶ 山 完結編」の完結 
でも、オマケがあるかもしれないよ

最新の画像もっと見る