この状況を知る本仲間が、「颶風の王」(河崎秋子)を勧めてくれていた。
その意図や心遣いを斟酌するほどの心境には到底なれないので、本書の主題からはズレているかもしれないが、今の自分の心にかかる場面を記しておきたい。
「颶風の王」は、日本の純血種の馬と宿縁ある一族と馬との数代にわたる物語である。
物語は、明治期、北海道開拓団へと出立する主人公・捨造が母の手紙を読み、泣いている場面から始まる。
『顔は天を向いていたが空を見てはおらず、目蓋を閉ざしている。
その合わせ目から、とめどなく涙が零れては頬を、首筋を、襟元を汚していた。
傍らで、馬だけがそれを見ていた。黒く澄んだ両の目に、主の姿を映していた。
馬は少しばかり耳を立て、泣き続ける捨造に近づいた。
その動きに気づいた捨造が手を伸ばすと、応じるように頭を寄せた。
そのまま鼻先を男に近づけ、唇を器用に動かして濡れた顎に吸いつく。』
捨造の涙を吸う馬は、捨造の産みの親の血を引くものでもあった。
庄屋の娘であった捨造の母は、庄屋(父)の認めぬ男の子供を身籠ったまま村から逃亡し雪山で遭難する。冷たい雪洞で、愛馬のアオを食べ命を繋ぎ、臓腑を失った愛馬の腹に包まれることで命ながらえ、捨造を産むことができたのだ。
事の顛末を書き記す母の手紙を読み、滂沱と流す涙を吸う馬(自身の産みの親ともいえる愛馬アオの血をひく馬)と共に根室で新しい人生を切り開く、捨造。
太平洋戦争で一人息子を喪うが、その子(孫娘)和子は馬飼いの才があり、扱う馬はアオの血を引き強靭であり、貧しいながらも穏やかに過ごしていた捨造一家。
そんな捨造が度々口にする言葉があった。
『及ばねぇ。及ばねぇモンなんだ。』
それは、捨造の出生の経緯や育った環境から自ずと身に着いてしまった実感でもあるだろうが、最北の厳しい自然環境に生きる人間の自然を畏怖しての実感でもあると思う。
捨造の孫・和子も、群れから離れた馬を夜半に森に探しに入り実感する、「オヨバヌトコロ」。
『祖父が繰り返していた言葉が脳裏に蘇る。及ばぬ所。
空と海と、そして不可侵の大地。いかに人口の光で照らそうと、鉄の機械で行き来し蹂躙しても、
人の智と営みなどとても及びもつかない、粗野で広大なオヨバヌトコロ。』
この「オヨバヌトコロ」は、捨て造一家と馬との生活を根底から覆してしまう。
昭和三十年のある夜、巨大台風が崖崩れを引き起こし、馬を放牧していた孤島から馬を救出する術が絶たれてしまうのだ。
救出できない馬を孤島に残したまま根室を去らざるをえない捨造一家、孤島に残された13頭の馬。
半世紀近くの年月が過ぎ、馬と縁のない暮らしを送ってきた和子の孫ひかりが再び馬と出会う平成が、物語の最終章となる。
和子もやはり「オヨバヌトコロ」を孫娘ひかりに語っていた。
『及ばぬ。
人の意思が、願いが、及ばぬ。』
『地も海も空も、人の計画に沿って動いてはくれない。祈りなど通じず、時に手酷く裏切ったりもする。
それは人がここで生き、山海から食物を得るうえで、致し方がないことなのだと。』
脳卒中で倒れ生死の狭間を彷徨った和子が意識が戻るなり馬のことばかり話すことから、ひかりは孤島に一頭生き延びているという馬の救出を考えるようになる。
『及ばせたいよ』と。
今では特別自然保護区となり立ち入りを厳しく制限されているうえ、天候が荒れれば船を着けることすら困難な孤島へ行くことも、そこから馬を救出することも、大学生のひかりには難題だったが、ようやっと孤島に馬に辿り着いたひかりは、そこで一族と縁ある最後の一頭と出逢い、悟るのだ。
『この子は。この馬は。島に独り残されて出られないのではない』
『生き続けることによって、自らここにいることを選択し続けている。そうしてこの島に君臨している。』
『この海に囲まれ、風に削られ、そうしていつか地に伏し倒れても、それは意思及ばず朽ち果てたことにはならない。
ここで最後まで、死ぬまで懸命に生きたということが、意思が及んだという証明であり答えだった。』
『なんも。及んでるよ』ひかりは呟く。
馬から命を授かった一族の末裔が、恩ある馬の末裔を孤島から救出し、馬と一族との新たな絆が結ばれました、という如何にもハッピーエンドな終わり方をこの物語はとらない。
人は「オヨバヌトコロ」に翻弄されるしかないのかもしれないが、「オヨバヌトコロ」である自然の一部である馬は、生きる場所も生きる時も自らの意思で選んでいる、それこそが「及んでる」ことである、と現代に生きる孫娘に悟らせることで、我々読者に自然のなかにある命について考えさせる。
この状況で、何かを読む気力はなかったが、この状況を知る本仲間が、敢えて勧めてくれたその意図と心持を少しでも理解しようと思い、少しずつ読んでみた。
本書の冒頭で、滂沱と涙を流す捨造をじっと見つめ涙を吸う馬の場面を読んだだけで、涙で文字が読めなくなった。
17年と2か月前、「僕を選べ」と眦に力をこめて私達を見つめた ワンコ
家族の笑顔の真ん中にいつもワンコがいた
けれど、それぞれがひっそり溜息をつき涙を流すとき、傍らにワンコだけがいてくれた
皆で共有する喜びの真ん中で はしゃいで喜びを倍増させてくれたワンコ
けれど、一人で嘆くしかない哀しみは ワンコだけと共有したかった
ワンコが大好きだった抱っこで、笑うように眠った ワンコ
どんなに私たちが祈っても願っても、人間には「オヨバヌトコロ」をどうすることもできないのかもしれないが、ワンコには意思があり「及んでいる」とするならば、その意思を大切に受け留め生きていかねばならないと思っている。
ワンコの愛と善意と優しさは、いつもいつも、これからもずっと、私たちに及んでいるよ。
ワンコよ 永遠に
その意図や心遣いを斟酌するほどの心境には到底なれないので、本書の主題からはズレているかもしれないが、今の自分の心にかかる場面を記しておきたい。
「颶風の王」は、日本の純血種の馬と宿縁ある一族と馬との数代にわたる物語である。
物語は、明治期、北海道開拓団へと出立する主人公・捨造が母の手紙を読み、泣いている場面から始まる。
『顔は天を向いていたが空を見てはおらず、目蓋を閉ざしている。
その合わせ目から、とめどなく涙が零れては頬を、首筋を、襟元を汚していた。
傍らで、馬だけがそれを見ていた。黒く澄んだ両の目に、主の姿を映していた。
馬は少しばかり耳を立て、泣き続ける捨造に近づいた。
その動きに気づいた捨造が手を伸ばすと、応じるように頭を寄せた。
そのまま鼻先を男に近づけ、唇を器用に動かして濡れた顎に吸いつく。』
捨造の涙を吸う馬は、捨造の産みの親の血を引くものでもあった。
庄屋の娘であった捨造の母は、庄屋(父)の認めぬ男の子供を身籠ったまま村から逃亡し雪山で遭難する。冷たい雪洞で、愛馬のアオを食べ命を繋ぎ、臓腑を失った愛馬の腹に包まれることで命ながらえ、捨造を産むことができたのだ。
事の顛末を書き記す母の手紙を読み、滂沱と流す涙を吸う馬(自身の産みの親ともいえる愛馬アオの血をひく馬)と共に根室で新しい人生を切り開く、捨造。
太平洋戦争で一人息子を喪うが、その子(孫娘)和子は馬飼いの才があり、扱う馬はアオの血を引き強靭であり、貧しいながらも穏やかに過ごしていた捨造一家。
そんな捨造が度々口にする言葉があった。
『及ばねぇ。及ばねぇモンなんだ。』
それは、捨造の出生の経緯や育った環境から自ずと身に着いてしまった実感でもあるだろうが、最北の厳しい自然環境に生きる人間の自然を畏怖しての実感でもあると思う。
捨造の孫・和子も、群れから離れた馬を夜半に森に探しに入り実感する、「オヨバヌトコロ」。
『祖父が繰り返していた言葉が脳裏に蘇る。及ばぬ所。
空と海と、そして不可侵の大地。いかに人口の光で照らそうと、鉄の機械で行き来し蹂躙しても、
人の智と営みなどとても及びもつかない、粗野で広大なオヨバヌトコロ。』
この「オヨバヌトコロ」は、捨て造一家と馬との生活を根底から覆してしまう。
昭和三十年のある夜、巨大台風が崖崩れを引き起こし、馬を放牧していた孤島から馬を救出する術が絶たれてしまうのだ。
救出できない馬を孤島に残したまま根室を去らざるをえない捨造一家、孤島に残された13頭の馬。
半世紀近くの年月が過ぎ、馬と縁のない暮らしを送ってきた和子の孫ひかりが再び馬と出会う平成が、物語の最終章となる。
和子もやはり「オヨバヌトコロ」を孫娘ひかりに語っていた。
『及ばぬ。
人の意思が、願いが、及ばぬ。』
『地も海も空も、人の計画に沿って動いてはくれない。祈りなど通じず、時に手酷く裏切ったりもする。
それは人がここで生き、山海から食物を得るうえで、致し方がないことなのだと。』
脳卒中で倒れ生死の狭間を彷徨った和子が意識が戻るなり馬のことばかり話すことから、ひかりは孤島に一頭生き延びているという馬の救出を考えるようになる。
『及ばせたいよ』と。
今では特別自然保護区となり立ち入りを厳しく制限されているうえ、天候が荒れれば船を着けることすら困難な孤島へ行くことも、そこから馬を救出することも、大学生のひかりには難題だったが、ようやっと孤島に馬に辿り着いたひかりは、そこで一族と縁ある最後の一頭と出逢い、悟るのだ。
『この子は。この馬は。島に独り残されて出られないのではない』
『生き続けることによって、自らここにいることを選択し続けている。そうしてこの島に君臨している。』
『この海に囲まれ、風に削られ、そうしていつか地に伏し倒れても、それは意思及ばず朽ち果てたことにはならない。
ここで最後まで、死ぬまで懸命に生きたということが、意思が及んだという証明であり答えだった。』
『なんも。及んでるよ』ひかりは呟く。
馬から命を授かった一族の末裔が、恩ある馬の末裔を孤島から救出し、馬と一族との新たな絆が結ばれました、という如何にもハッピーエンドな終わり方をこの物語はとらない。
人は「オヨバヌトコロ」に翻弄されるしかないのかもしれないが、「オヨバヌトコロ」である自然の一部である馬は、生きる場所も生きる時も自らの意思で選んでいる、それこそが「及んでる」ことである、と現代に生きる孫娘に悟らせることで、我々読者に自然のなかにある命について考えさせる。
この状況で、何かを読む気力はなかったが、この状況を知る本仲間が、敢えて勧めてくれたその意図と心持を少しでも理解しようと思い、少しずつ読んでみた。
本書の冒頭で、滂沱と涙を流す捨造をじっと見つめ涙を吸う馬の場面を読んだだけで、涙で文字が読めなくなった。
17年と2か月前、「僕を選べ」と眦に力をこめて私達を見つめた ワンコ
家族の笑顔の真ん中にいつもワンコがいた
けれど、それぞれがひっそり溜息をつき涙を流すとき、傍らにワンコだけがいてくれた
皆で共有する喜びの真ん中で はしゃいで喜びを倍増させてくれたワンコ
けれど、一人で嘆くしかない哀しみは ワンコだけと共有したかった
ワンコが大好きだった抱っこで、笑うように眠った ワンコ
どんなに私たちが祈っても願っても、人間には「オヨバヌトコロ」をどうすることもできないのかもしれないが、ワンコには意思があり「及んでいる」とするならば、その意思を大切に受け留め生きていかねばならないと思っている。
ワンコの愛と善意と優しさは、いつもいつも、これからもずっと、私たちに及んでいるよ。
ワンコよ 永遠に