万物の根源を水と云ったのは、水だけにタレス、と世界史で暗記したのを思い出させる文が「14歳のための時間論」(佐治晴夫)にあった。
『そのとき(太初において)無もなかりき、有もなかりき。
空界もなかりき、その上の天もなかりき。
何ものか発動せし、いづこに、誰の庇護の下に。
深くして測るべからざる水は存在せりや。
そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼との標識(太陽、月、星など)もなかりき。
かの唯一物は、自力により風なく呼吸せり。
これよりほか何ものも存在せざりき。』「リグ・ヴェーダ讃歌」(辻直四郎訳)
佐治氏によると、『これは宇宙の始まりを歌ったもの』であり、「風なく呼吸せり」という一節を「永遠の時間」と捉えて時間論につなげていく。
「生きていることが時間」だとする佐治氏は、生きているということの定義、あるいは単なる物質を生き物たらしめるものについて考察するため、空気やダイヤモンドを例にとり説明している。
空気はチッソや酸素の分子からできているが、その動きはデタラメで生きるために次なる行動をどうするかは考えていないので、生き物ではないとする。
ダイヤモンドは炭素原子が規則正しく並んでいて見事な結晶構造を作っているからこそ硬く、光をきちんと反射するからこそ美しく輝くが、より硬く美しく輝くためにすべきことを考えていないので、生き物ではないとする。
しかし、水は空気やダイヤモンドとは異なるという。(『 』引用)
『(水は)入れ物に入れれば、うまく入るように、形を自由に変える、という意味では空気に似ています。また、すぐに水素と酸素に分解してしまわないという意味では、ダイヤモンドにも似ています。』 と示したうえで、『水は水素原子二つと酸素原子一つが、三角形になってくっついている化合物だ』 ということを読者に思い出させ、『ここに、水が「いのち」をつくるのに、とても重要だという秘密があります』と結論付けている。
『水の分子は、ダイヤモンドのようにカチッとしているのではなく、それぞれの原子が、ずれた形でくっついています。そのために、水の近くにやってくる色々な原子たちと、手を結ぶことが得意なのです。水は、たくさんの物質を溶かしこんでくれる、とても寛容な物質だといってもいいですね。そこで、話を一足飛びにしてしまえば、水は例えば、リン脂質というような物質がやってくると、それらと上手く手を繋ぎます。そして、自分を中に閉じ込めるように、膜をつくってしまいます。細胞膜です。これが細胞の誕生です。
これらの細胞たちは、それぞれが集まって、その形を保てるように動いてみたり、別の物質と手をつなごうとしたりします。
それは、空気のようなデタラメでもなく、ダイヤモンドのようなカチッとしたものでもありません。』
『半分デタラメで、優柔不断』
『水は、その「ゆらぎ」の中で、エネルギーについても有利な条件を探しながら、存在し続けようとする目的をもつ新しい物質のかたまりーいわば、生命の芽のようなものをつくっています。』
これは、人の体がおよそ60兆個の細胞からできているが、その細胞が水で満たされているので、人間の体の70%以上が水だということからも根拠づけられると書いている。
古代インド聖典とギリシャ哲学が水に注目する理由に共通点があるのは、分子原子レベルで考えれば、水こそが命の源となるからだろうか。
そして、水が命の源となる理由が「変幻自在」「ゆらぎ」、つまり寛容だということ。
水の偉大さを知るのに、何も古代ギリシャやインドの思索を持ち出さなくとも、日本にも素晴らしいものがある。
水五訓
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり
二、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
三、常に己の進路を求めて止まざるは水なり
四、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり
五、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰と化し凝しては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失はざるは水なり
この水五訓は、水を祀る貴船神社に記されているそうだ。
貴船神社には、残念ながら私自身はお参りできないでいるが、水を司る神社参りを趣味としている友人から、霊験あらたかな貴船神社とそこに記される水五訓の話は何度も聞いている。
万物の根源であり命の源である、水
寛容で潔うして、他の穢れを洗い、清濁併せ容るる、水
今日2月23日は、水の研究家でもあられる、皇太子様のお誕生日だ。
御所の「道」から水の道(水運)の研究に入られた皇太子様は、ネパールで水汲みと水運びに多くの時間を費やす女性や子供を御覧になり、「水」を通して女性の権利や子供の教育についてまで関心の幅を広げられ、更に近年では、自然災害(地震・津波や洪水)と水、水と衛生という分野にまでご研究の幅を広げておられる。
これは水が、変幻自在で多様性に富むため、研究分野が多岐にわたるというということもあるだろうが、皇太子様ご自身が寛容で柔軟であり、常に己の進路を求めて止まない「水」と同じ気質を有しておられるからだと思う。
そして、寛容で潔うして、他の穢れを洗い、清濁併せ容るる皇太子様の御存在は、混迷の度合いを深める可能性の高い我が国の拠り所となられると信じているし、このような皇太子様を信じていかねば、混迷は更に深まると思っている。
日本のために 皇太子様の益々の御健康と御多幸を心からお祈りしている。
ところで、リグ・ヴェーダの一節は「万物の根源は水」という文言を思い出させるが、暗記することだけに終始していた高校時代は、水だけにタレス、だとか、古代インドの聖典も「リグヴェーダ」と「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」とその名前だけを呪文のように暗記していた。哲学や聖典がうまれた時代背景やその内容の深いところをまったく知ろうとせずに、年代と固有名詞に追いまくられ、今となってはそれが知識の欠片としてすら残っていない自分を反省する時、弱冠12歳・小6で「御堂関白記」(藤原道真)について深い考察を記したレポートを書かれた敬宮様の学習姿勢の素晴らしさに頭が下がる思いがする。歴女である敬宮様は歴史学者である皇太子様と歴史を学ばれることも多いそうだが、それが単に歴史年表の暗記ではなく、時代背景や人物像や権力についての考察にまで及んでいることは、報道されている「御堂関白記」のレポートの一部を見ただけでもよく分かる。更に、そのレポートを作成するため、博物館を訪問したり多くの資料をあたられていることから、学問に対する真面目で真摯な姿勢が拝察されるが、これを日頃の学習を通じて父と娘で共有されていることが尚、素晴らしい。
皇太子様から敬宮様へと受け継がれるものを信じている。
皇太子御一家のお幸せを心からお祈りしている。
皇太子様の御誕生日を心からお祝いしている。
『そのとき(太初において)無もなかりき、有もなかりき。
空界もなかりき、その上の天もなかりき。
何ものか発動せし、いづこに、誰の庇護の下に。
深くして測るべからざる水は存在せりや。
そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼との標識(太陽、月、星など)もなかりき。
かの唯一物は、自力により風なく呼吸せり。
これよりほか何ものも存在せざりき。』「リグ・ヴェーダ讃歌」(辻直四郎訳)
佐治氏によると、『これは宇宙の始まりを歌ったもの』であり、「風なく呼吸せり」という一節を「永遠の時間」と捉えて時間論につなげていく。
「生きていることが時間」だとする佐治氏は、生きているということの定義、あるいは単なる物質を生き物たらしめるものについて考察するため、空気やダイヤモンドを例にとり説明している。
空気はチッソや酸素の分子からできているが、その動きはデタラメで生きるために次なる行動をどうするかは考えていないので、生き物ではないとする。
ダイヤモンドは炭素原子が規則正しく並んでいて見事な結晶構造を作っているからこそ硬く、光をきちんと反射するからこそ美しく輝くが、より硬く美しく輝くためにすべきことを考えていないので、生き物ではないとする。
しかし、水は空気やダイヤモンドとは異なるという。(『 』引用)
『(水は)入れ物に入れれば、うまく入るように、形を自由に変える、という意味では空気に似ています。また、すぐに水素と酸素に分解してしまわないという意味では、ダイヤモンドにも似ています。』 と示したうえで、『水は水素原子二つと酸素原子一つが、三角形になってくっついている化合物だ』 ということを読者に思い出させ、『ここに、水が「いのち」をつくるのに、とても重要だという秘密があります』と結論付けている。
『水の分子は、ダイヤモンドのようにカチッとしているのではなく、それぞれの原子が、ずれた形でくっついています。そのために、水の近くにやってくる色々な原子たちと、手を結ぶことが得意なのです。水は、たくさんの物質を溶かしこんでくれる、とても寛容な物質だといってもいいですね。そこで、話を一足飛びにしてしまえば、水は例えば、リン脂質というような物質がやってくると、それらと上手く手を繋ぎます。そして、自分を中に閉じ込めるように、膜をつくってしまいます。細胞膜です。これが細胞の誕生です。
これらの細胞たちは、それぞれが集まって、その形を保てるように動いてみたり、別の物質と手をつなごうとしたりします。
それは、空気のようなデタラメでもなく、ダイヤモンドのようなカチッとしたものでもありません。』
『半分デタラメで、優柔不断』
『水は、その「ゆらぎ」の中で、エネルギーについても有利な条件を探しながら、存在し続けようとする目的をもつ新しい物質のかたまりーいわば、生命の芽のようなものをつくっています。』
これは、人の体がおよそ60兆個の細胞からできているが、その細胞が水で満たされているので、人間の体の70%以上が水だということからも根拠づけられると書いている。
古代インド聖典とギリシャ哲学が水に注目する理由に共通点があるのは、分子原子レベルで考えれば、水こそが命の源となるからだろうか。
そして、水が命の源となる理由が「変幻自在」「ゆらぎ」、つまり寛容だということ。
水の偉大さを知るのに、何も古代ギリシャやインドの思索を持ち出さなくとも、日本にも素晴らしいものがある。
水五訓
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり
二、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
三、常に己の進路を求めて止まざるは水なり
四、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり
五、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰と化し凝しては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失はざるは水なり
この水五訓は、水を祀る貴船神社に記されているそうだ。
貴船神社には、残念ながら私自身はお参りできないでいるが、水を司る神社参りを趣味としている友人から、霊験あらたかな貴船神社とそこに記される水五訓の話は何度も聞いている。
万物の根源であり命の源である、水
寛容で潔うして、他の穢れを洗い、清濁併せ容るる、水
今日2月23日は、水の研究家でもあられる、皇太子様のお誕生日だ。
御所の「道」から水の道(水運)の研究に入られた皇太子様は、ネパールで水汲みと水運びに多くの時間を費やす女性や子供を御覧になり、「水」を通して女性の権利や子供の教育についてまで関心の幅を広げられ、更に近年では、自然災害(地震・津波や洪水)と水、水と衛生という分野にまでご研究の幅を広げておられる。
これは水が、変幻自在で多様性に富むため、研究分野が多岐にわたるというということもあるだろうが、皇太子様ご自身が寛容で柔軟であり、常に己の進路を求めて止まない「水」と同じ気質を有しておられるからだと思う。
そして、寛容で潔うして、他の穢れを洗い、清濁併せ容るる皇太子様の御存在は、混迷の度合いを深める可能性の高い我が国の拠り所となられると信じているし、このような皇太子様を信じていかねば、混迷は更に深まると思っている。
日本のために 皇太子様の益々の御健康と御多幸を心からお祈りしている。
ところで、リグ・ヴェーダの一節は「万物の根源は水」という文言を思い出させるが、暗記することだけに終始していた高校時代は、水だけにタレス、だとか、古代インドの聖典も「リグヴェーダ」と「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」とその名前だけを呪文のように暗記していた。哲学や聖典がうまれた時代背景やその内容の深いところをまったく知ろうとせずに、年代と固有名詞に追いまくられ、今となってはそれが知識の欠片としてすら残っていない自分を反省する時、弱冠12歳・小6で「御堂関白記」(藤原道真)について深い考察を記したレポートを書かれた敬宮様の学習姿勢の素晴らしさに頭が下がる思いがする。歴女である敬宮様は歴史学者である皇太子様と歴史を学ばれることも多いそうだが、それが単に歴史年表の暗記ではなく、時代背景や人物像や権力についての考察にまで及んでいることは、報道されている「御堂関白記」のレポートの一部を見ただけでもよく分かる。更に、そのレポートを作成するため、博物館を訪問したり多くの資料をあたられていることから、学問に対する真面目で真摯な姿勢が拝察されるが、これを日頃の学習を通じて父と娘で共有されていることが尚、素晴らしい。
皇太子様から敬宮様へと受け継がれるものを信じている。
皇太子御一家のお幸せを心からお祈りしている。
皇太子様の御誕生日を心からお祝いしている。