「お水取りが終わると春がくる」という言葉は知っていたが、どちらかと云うと「球春」の方に馴染みがあった私が「お水取り」に関心をもったのは、ある話を聞いてのことだった。
それは、同僚の母の姉の嫁ぎ先の義理の妹の嫁ぎ先である東大寺関係者から漏れ伝わった「お水取り」の話で、真偽のほどは確かではないが、「お水取り」に関心を抱かせるには十分な話で、それを契機に読んだのが、「東大寺お水取り~春を待つ祈りと懺悔の法会」(佐藤道子)だった。
「お水取り」というと連日夜空を焦がす「お松明」ばかりが有名で、近年ではすっかり観光の目玉にもなっているようだが、「お松明」が始まる3月1日を前にした2月20日から「別火」と呼ばれる前行の期間があり、2月23日にはその一つである「花ごしらえ」が行われる。
<東大寺>「お水取り」整える花と心 毎日新聞 2月23日(火)12時17分配信より一部引用
東大寺二月堂の修二会(お水取り)の本行入りを前に、仏前に供えるツバキの造花を手作りする「花ごしらえ」が23日、同寺であった。
前行に入っている僧侶「練行衆」らが木の芯に黄色い紙を巻き付けて雄しべとし、花びらをかたどった紅白の和紙を張った。約400個の造花が次々と完成し、作業が行われた広間は華やいだ雰囲気に。仏前に供えるナンテンの枝も用意し、明かりをともす燈心を切り分けて整えた。
本行入りは3月1日。14日まで連夜、宿所から二月堂に参る練行衆の道明かりとして「お松明」が上がる。僧侶らは堂内で深夜、内陣を駆ける「走り」、膝を板に打ち付けてざんげする「五体投地」など厳しい行に臨み、15日未明に満行を迎える。
「お水取り」や「花ごしらえ」という言葉には雅やかな響きがあり、「お松明」には勇壮ななかにも華やかさがあるが、実は「お水取り」の本行の厳しさは壮絶なものだ。
今、手元に「東大寺お水取り~春を待つ祈りと懺悔の法会」がないので行の詳細は記せないし、博物館で見た「お水取り」の展示と記憶が混同しているかもしれないが、その厳しさは記憶に残っている。
昼夜分かたず行われる「お水取り」の行。
まだ寒さ厳しい二月末から三月14日にかけて、紙の袈裟だけを纏っての行はそれだけでも厳しいが、紙の袈裟での「五体投地」は壮絶で、紙の袈裟が裂け血が滲んでも行は続けられるという。このような厳しい行でもって国の安寧を祈り、また人々に成り代わり懺悔をもしてくださるが、行の厳しさを殊更に喧伝することはない。
火のお祀りかと思うほどに「お松明」ばかりが前面にでているが、主役はあくまで「お香水」。にもかかわらず、肝心の「お水取り」は13日夜半に限られた方々だけで行われ、外からは伺うことさえ出来ないという。
この感じが、私はとても好きだ。
本当は厳かでも御立派でもないのに、さも大層なもののように喧伝するのが流行る昨今にあって、真実厳しい行に臨みながら敢えてそれを感じさせず、雅やかで華やかなところを人々と共有する、そこにこそ誠を感じるのは、私の捻くれた感性のせいだろうか。
「万物の根源 誕生」で、タレスが「万物の根源は水」と規定したと書いたが、そうするとヘラクレイトスは「万物の根源は火」だと云う。「ソフィーの世界」(ヨースタイン・ゴルデル)によると、『ヘラクレイトスはまた、世界は対立だらけだと言っている』『神は昼であり夜である。冬であり春である。戦であり平和である。空腹であり満腹である』『ヘラクレイトスの神は、絶えず変化する、対立矛盾に満ち満ちた自然なのです』 ということになる。
哲人ヘラクレイトスに何事かモノ申さんというわけではないが、異なるものを対立と見做すよりは、真逆の性質こそ調和させようとする精神が、私には合っている。だからこそ、水と火がともに主役となる「お水取り」に心惹かれるのだが、「お松明」を実際に拝見したのは一度きりしかない。
その「お水取り」の前行「花ごしらえ」は2月23日と決まっている。
皇太子様の御誕生日の日だ。
行程が厳しく定められている「お水取り」だが、閏年はその日程がいくつかズレる。だが、この「花ごしらえ」の日は変わらない。
厳しく厳かなところや真実誠のある部分は秘め、雅やかで華やかな時間を人々と共有しながら、やはり厳粛な趣を保ち続ける「お水取り」の変わらない日に、皇太子様が誕生されたことに、私はひとり感動している。
水を研究される皇太子様は御自身が明鏡止水のごとき佇まいでおられるが、その御心に火のごとく熱い心をお持ちでないはずがない。
妻は男子を産めなかったというだけで心が病むまで追いつめられ心を病んで尚バッシングに遭い、娘は男子でなかったというだけで幼少の砌から様々な攻撃に晒されている。もとより歴史学者でもある皇太子様が御自身にかされる歴史的重みを受け留め苦しんでおられないはずもない。
しかしながら、そのような苦しみを一切微塵も感じさせず、いつも穏やかで冷静で品格のある佇まいを守るには、心に火のごとき熱い意思と理性が必要だと思うのだ。
火のごとく熱い御心を胸に明鏡止水の佇まいを守られる皇太子様の御誕生の日を、心からお祝いしている。
それは、同僚の母の姉の嫁ぎ先の義理の妹の嫁ぎ先である東大寺関係者から漏れ伝わった「お水取り」の話で、真偽のほどは確かではないが、「お水取り」に関心を抱かせるには十分な話で、それを契機に読んだのが、「東大寺お水取り~春を待つ祈りと懺悔の法会」(佐藤道子)だった。
「お水取り」というと連日夜空を焦がす「お松明」ばかりが有名で、近年ではすっかり観光の目玉にもなっているようだが、「お松明」が始まる3月1日を前にした2月20日から「別火」と呼ばれる前行の期間があり、2月23日にはその一つである「花ごしらえ」が行われる。
<東大寺>「お水取り」整える花と心 毎日新聞 2月23日(火)12時17分配信より一部引用
東大寺二月堂の修二会(お水取り)の本行入りを前に、仏前に供えるツバキの造花を手作りする「花ごしらえ」が23日、同寺であった。
前行に入っている僧侶「練行衆」らが木の芯に黄色い紙を巻き付けて雄しべとし、花びらをかたどった紅白の和紙を張った。約400個の造花が次々と完成し、作業が行われた広間は華やいだ雰囲気に。仏前に供えるナンテンの枝も用意し、明かりをともす燈心を切り分けて整えた。
本行入りは3月1日。14日まで連夜、宿所から二月堂に参る練行衆の道明かりとして「お松明」が上がる。僧侶らは堂内で深夜、内陣を駆ける「走り」、膝を板に打ち付けてざんげする「五体投地」など厳しい行に臨み、15日未明に満行を迎える。
「お水取り」や「花ごしらえ」という言葉には雅やかな響きがあり、「お松明」には勇壮ななかにも華やかさがあるが、実は「お水取り」の本行の厳しさは壮絶なものだ。
今、手元に「東大寺お水取り~春を待つ祈りと懺悔の法会」がないので行の詳細は記せないし、博物館で見た「お水取り」の展示と記憶が混同しているかもしれないが、その厳しさは記憶に残っている。
昼夜分かたず行われる「お水取り」の行。
まだ寒さ厳しい二月末から三月14日にかけて、紙の袈裟だけを纏っての行はそれだけでも厳しいが、紙の袈裟での「五体投地」は壮絶で、紙の袈裟が裂け血が滲んでも行は続けられるという。このような厳しい行でもって国の安寧を祈り、また人々に成り代わり懺悔をもしてくださるが、行の厳しさを殊更に喧伝することはない。
火のお祀りかと思うほどに「お松明」ばかりが前面にでているが、主役はあくまで「お香水」。にもかかわらず、肝心の「お水取り」は13日夜半に限られた方々だけで行われ、外からは伺うことさえ出来ないという。
この感じが、私はとても好きだ。
本当は厳かでも御立派でもないのに、さも大層なもののように喧伝するのが流行る昨今にあって、真実厳しい行に臨みながら敢えてそれを感じさせず、雅やかで華やかなところを人々と共有する、そこにこそ誠を感じるのは、私の捻くれた感性のせいだろうか。
「万物の根源 誕生」で、タレスが「万物の根源は水」と規定したと書いたが、そうするとヘラクレイトスは「万物の根源は火」だと云う。「ソフィーの世界」(ヨースタイン・ゴルデル)によると、『ヘラクレイトスはまた、世界は対立だらけだと言っている』『神は昼であり夜である。冬であり春である。戦であり平和である。空腹であり満腹である』『ヘラクレイトスの神は、絶えず変化する、対立矛盾に満ち満ちた自然なのです』 ということになる。
哲人ヘラクレイトスに何事かモノ申さんというわけではないが、異なるものを対立と見做すよりは、真逆の性質こそ調和させようとする精神が、私には合っている。だからこそ、水と火がともに主役となる「お水取り」に心惹かれるのだが、「お松明」を実際に拝見したのは一度きりしかない。
その「お水取り」の前行「花ごしらえ」は2月23日と決まっている。
皇太子様の御誕生日の日だ。
行程が厳しく定められている「お水取り」だが、閏年はその日程がいくつかズレる。だが、この「花ごしらえ」の日は変わらない。
厳しく厳かなところや真実誠のある部分は秘め、雅やかで華やかな時間を人々と共有しながら、やはり厳粛な趣を保ち続ける「お水取り」の変わらない日に、皇太子様が誕生されたことに、私はひとり感動している。
水を研究される皇太子様は御自身が明鏡止水のごとき佇まいでおられるが、その御心に火のごとく熱い心をお持ちでないはずがない。
妻は男子を産めなかったというだけで心が病むまで追いつめられ心を病んで尚バッシングに遭い、娘は男子でなかったというだけで幼少の砌から様々な攻撃に晒されている。もとより歴史学者でもある皇太子様が御自身にかされる歴史的重みを受け留め苦しんでおられないはずもない。
しかしながら、そのような苦しみを一切微塵も感じさせず、いつも穏やかで冷静で品格のある佇まいを守るには、心に火のごとき熱い意思と理性が必要だと思うのだ。
火のごとく熱い御心を胸に明鏡止水の佇まいを守られる皇太子様の御誕生の日を、心からお祝いしている。