群馬県にある日本で初めての官営の製糸工場「 富岡製糸場 と絹産業遺産群」。
ユネスコの諮問機関から登録を求める勧告が出たと発表。
いわゆる世界遺産に登録の運びとなった。
製糸場といえば岡谷市。
あの「あゝ野麦峠」でも有名になった街である。
あの映画。
実父は片倉組の繭の買い付けの仕事をしていた。
まだ健在であった頃良く会社の話をしてくれたものだ。
その頃、父親から聞きながら書き留めてあったメモが見つかった。
「
野麦峠」って映画。
ああいうこともあったかも知れんが、わしの周囲にはなかったね。
途中で病気になっても仕事仕事って言ってああゆう哀れなことはなかったもんだ。
病気になればその当時「平野製糸共同病院(現岡谷病院)」ってのがあって...。
会社で良くなるまで見てくれたもんだ。
そういうことは徹底していたね。
悪けりゃお医者様がすぐ来るとか。
悪くなっても仕事させとくなんちゅうことはなかったね。
今で言うブラック企業ではなかったようだ。
「
女工哀史」の名のもとに重労働、低賃金で奴隷的扱いをされたということは無かったね。
むしろ早く百円工女になろうと女工さんは頑張っていたね。
百円工女とは家1軒を立てられる程の高収入を得ていた工女の事だそうである。
当時の女工さんたちは能力次第でどんどん給料が上がっていったという。
いわゆる能力給であったらしい。
大竹しのぶ主演で「あゝ野麦峠」という映画。
主人公の大竹しのぶ演じるみねさん。
実在の人物という。
映画では「工場での湯気」と[画面の暗さ」が ...。
いかにも健康を損ねるようにジメジメと描かれている。
「結核が蔓延し主人公も結核で死んだ」ようになっている。
みねさんは実は結核ではなく腹膜炎で亡くなったそうである。
21歳と9カ月の短い生涯だった。
その当時の女工さんたちの勤務時間と年収は
朝の7時~夕方の4時半まで勤務 。
実働時間は7時間45分(ただし季節によっては勤務時間が異なっていた)
また休日は年間76日もあったようである。
その内訳は日曜日が50日。
その他に祭日が6日。
年末休業は12月29日~12月31日。
正月休みは1月1日~1月7日。
工女たちはこの年末に多く帰郷していたと言う。
また、暑休。
いわゆるお盆休みが10日間もあったという。
当然ながら衣食住完備で、ご飯も食べ放題であったという。
さて、その当時の工女の給金はというと
・一等工女 25円(現在だと50万円位)
・二等工女 18円
・三等工女 12円
・等外工女 9円
この四段階に分かれていたと言う。
百円工女はほんの2~3人程いたと言う。
もちろん給料は月割りで支給。
その他に作業服代として夏冬に5円を支給されていたという。
そんなわけだから女工さんたちはお金持ちであったと言う。
休日ともなると女工さんたちが街に溢れ故郷の家族の買い物。
それはそれは賑やかいものだった。
女工さんたちに圧倒されて一緒には歩けなんだもんだ。
休日には諏訪湖の岡谷港(現岡谷南高校辺り)から何艘も舟が出る。
諏訪の片倉館に行く船という。
その船に女工さんたちが乗り片倉館の温泉で過ごしていたと言う。
片倉館は女工さんたちの保養所。
福利厚生も今の時代とさほど変わらなかったようである。
「
あゝ野麦峠」による「風評被害」は岡谷にとって非常に重大な事態だったと思う。
実際に工場で働いていた従業員といった関係者が抗議もせずにいた事も...。
映画内容を事実として定着させる事につながってしまったと思う。
この点はいわゆる「従軍慰安婦問題」や「南京大虐殺」の大嘘ががまかり通ってきたことにも通じるなと思っている。
また今年の夏8月1日に新岡谷蚕糸博物館がオープンする。
こちらは、宮坂製糸工場が併設された博物館で養蚕から機織りまで体験できる「体験ゾーン」。
糸都岡谷の製糸業の全容を一堂に知ることが出来る「ミュージアムエリア」などが出来るそうである。
また当時の女工さんたちの勉強風景や裁縫を習ってる様子。
盛大な製糸工場合同の運動会など本当に当時の「イキイキとした岡谷」を見ることが出来る。
機会が有ったら見るのもいいかも。
尚、マイブログ2011.4.15宮坂製糸所の記事は
ここから
写真は2011.4.15宮坂製糸所にて撮影・政井みねの写真はネットから