ほのぼのオヤジの気まぐれ意見

漂流人生の思うがまま

九回目の震災の日がやってきた。

2020-03-11 07:25:33 | 日記
この時期、家業の農作業をしている。
果樹園なので剪定だ。
九年前のこの日も剪定をしていた。
天気は良かった。午後に畑に出て、三時に休憩をするのだが、その15分くらい前に起こった。携帯のけたましい警告音が少し前になった。とにかく、びっくりだった。これから、よるになって何度も、携帯が鳴り響いた。
大きな揺れで、梨の棚に両手でつかまった。とにかく、こんな揺れは経験したことがなかった。
その時、関東大震災かなとおもった、以前から70年周期とか言われていて起こっていなかったからだ。
しかし、ラジオでは東北が震源地という一報だった。
その後、何度も余震が続き、家でお袋が留守番をしていたので歩いて家に戻る。
家は、倒れてなく無事だった。おふくろは庭に出ていた。
運搬機を畑に放置したまま家の周囲を見てみる。何軒かの家の瓦が落ちたりズレたりしていた。
一回りして、この辺は被害はそれほどでもないように感じた。
テレビでは、津波の状況などが生々しく映っていたように思う。
まだ、原発の事故は起こっていなかったが、かなりひっ迫した状況だったのだ。
その後、冷却不能になり、メルトダウンということが確か中村という技師が正直に発言したために以後、画面で見ることがなくなった。最悪の事態だった。
爆発後、放射能の拡散予想がドイツの気象台でネットに出ているのを見て東京は危ないと脱出することを考えた。
とにかく、放射能の知識は子供のころに、中国の核実験で雨が降ると日本に影響が出てハゲになるとか言われたものだ。
知識は乏しく、政府の発表も当てにならない。自分の身は自分守らねば。
そして、長野方面に一家で避難することにした。ガソリンは、暮れにトラックの燃料を満タンにしていたのでそれくらいの距離であれば行けそうだった。
震災後は、ガソリンスタンドが長蛇の列で買うことはできなかった。運良く、正月にそれぞれ満タンにしておいたのがよかった。
とにかく、長野方面に行ったが、タイヤはノーマルで雪のある所へはいけない。結局諏訪湖どまりで二泊して帰ることになった。
お袋を連れて旅行したのは、これが初めで最後になりそうだ。温泉だったので親孝行になったかもしれない。
その後は、なすすべもなく、家に帰り、剪定作業を続けることになった、放射能はこの地域は多く出ていたが、表面の除染で終わった。
みんな、忘れやすいのだろう。いや、いやなことは記憶から消したいという本能が備わっている。
だから、忘れさせないように追悼の式典はやらねばならないのだ。