アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。
休養。五回目のワクチン接種に伴う副反応が出てきたようです。今回は発熱と筋肉痛とが顕著で朝食後からずっと布団の中で安静にしています。そんなこともあるだろうと昨日の午後二時頃、やや西へ傾いた陽が庭へ差し込んでいるのを見て撮影しておきました。
「名称:“ナンテン”」(2022.12.4)
二〇二二年十二月四日撮影。
参考になれば幸いです。
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。
休養。五回目のワクチン接種に伴う副反応が出てきたようです。今回は発熱と筋肉痛とが顕著で朝食後からずっと布団の中で安静にしています。そんなこともあるだろうと昨日の午後二時頃、やや西へ傾いた陽が庭へ差し込んでいるのを見て撮影しておきました。
「名称:“ナンテン”」(2022.12.4)
二〇二二年十二月四日撮影。
参考になれば幸いです。
アルベルチーヌのまなざしは無限に変化する記号に等しいのでは、とプルーストは語っていないだろうか。アルベルチーヌはかつて熱烈なまなざしを向けて見つめた相手に対し、今や、少なくとも<私>と一緒にいるところでは、まなざしを逸らして無関心を装う。だが<私>はその理由を問い詰めることはできない。「そんなことをあげつらえば、私が『あら探し』を楽しんでいると思われるだけである。『あの通りすがりの娘(こ)をなぜ見つめていたの?』と訊くのがすでにむずかしいのに、『あの娘をなぜ見つめなかったの?』などとはなおさら訊きにくい」からだ。ところがそのような難儀な関係をせっせと築き上げてしまったのはほかならぬ<私>の嫉妬である。さらに<私>は記号というものが、実は途方もなく「些細な」<諸断片>から成っているとだんだん気づき始めてもいた。
「とはいえ本人がごく些細な取るに足りないことだと断言するようなことでアルベルチーヌを咎めたり問いただしたりするのは、私には不可能だった。そんなことをあげつらえば、私が『あら探し』を楽しんでいると思われるだけである。『あの通りすがりの娘(こ)をなぜ見つめていたの?』と訊くのがすでにむずかしいのに、『あの娘をなぜ見つめなかったの?』などとはなおさら訊きにくい。しかし私にはわかっていた、いや、私がアルベルチーヌの断言を信じようとするのではなく、そのまなざしに含まれるすべての些細なことがらを信じようとしていたなら、せめてわかっていたはずである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.192~193」岩波文庫 二〇一六年)
このような気づきにしても、いつものように<私>は後になって気づくほかない。「私がアルベルチーヌの断言を信じようとするのではなく、そのまなざしに含まれるすべての些細なことがらを信じようとしていたなら、せめてわかっていたはずである」。言葉にせよまなざしによせ、<私>は、アルベルチーヌの身体が演じるすべての身振りを記号として捉えるべきが妥当だったのだ。次にあるように重要なのは「些事」なのだ。「些事」という<諸断片>。<私>はそれらが語っていることに気づく。それらが語っていることというのはアルベルチーヌの身振り(振る舞い・言葉)は「矛盾である」ということであって、個々の発言に齟齬があるとかないとかいうことではまるでない。そうではなく、アルベルチーヌは矛盾そのものを生きているという認識である。矛盾としてのアルベルチーヌが出現する。
それにしてもなぜ「些事の真正さ」なのか。矛盾を含むからである。「まなざしによって、また発言によって含まれるあれやこれやの矛盾によって証明されるもので、たいてい私はアルベルチーヌと別れてずいぶん経ってからその矛盾に気がつき、そのせいで夜通し苦しみ、もはやその矛盾をあえて語ろうとはしない」。一方に或る価値体系が存在する。もう一方にそれとは異なる別の価値体系が存在する。両者はどこまで行っても同一化できない。むしろ逆に両者の間に横たわる違い(差異)ばかりを論証していく。差異性の側からの衝撃によって始めて同一性は打撃をこうむり、そのことで人間は、世界は常に動いておりいつも変化しつつあるということを思い知らされるわけである。矛盾というよりパラドックスというべきかも知れない。いずれにせよ「矛盾/パラドックス」は「あえて定期的にときどき私の記憶を訪れてくれる」。そのことで<私>は、世界は思ったより広い、広すぎるくらいだと知ることができる。
「そうした些事の真正さは、まなざしによって、また発言によって含まれるあれやこれやの矛盾によって証明されるもので、たいてい私はアルベルチーヌと別れてずいぶん経ってからその矛盾に気がつき、そのせいで夜通し苦しみ、もはやその矛盾をあえて語ろうとはしないが、にもかかわらず矛盾のほうはあえて定期的にときどき私の記憶を訪れてくれるのだった」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.193」岩波文庫 二〇一六年)
さらにプルーストはゴモラの世界の偏在性について語る。<私>は余りにも世間知らずだという文脈を用いてこう述べられている。アルベルチーヌの熱烈な性的まなざしを「誘発した女は、通りすがりに欲望の対象となっただけではなく、以前からの知り合いか、あるいはただうわさに聞いていただけの女かと勘ぐった。それがうわさに聞いていただけの女だとわかると、そんな女のことをアルベルチーヌに話した者がいることに私は仰天した。それほど一見したところアルベルチーヌとは知り合いになりそうもない女だったからだ」。ところが、「にもかかわらず矛盾のほうはあえて定期的にときどき私の記憶を訪れてくれる」という終わらない反復のおかげで、<私>は「現代のゴモラは、想いも寄らぬところを出所とする多数のピースからなるジグソーパズルなのである」という事実を承認するための場所移動を果たすことができる。
「このようにバルベックの浜辺やパリの通りでこっそり投げかけられてはそらされたまなざしについて私はしばしば、そのまなざしを誘発した女は、通りすがりに欲望の対象となっただけではなく、以前からの知り合いか、あるいはただうわさに聞いていただけの女かと勘ぐった。それがうわさに聞いていただけの女だとわかると、そんな女のことをアルベルチーヌに話した者がいることに私は仰天した。それほど一見したところアルベルチーヌとは知り合いになりそうもない女だったからだ。しかし現代のゴモラは、想いも寄らぬところを出所とする多数のピースからなるジグソーパズルなのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.193」岩波文庫 二〇一六年)
<私>は「多数のピースからなるジグソーパズル」としてのゴモラ(女性同性愛)の世界を知ることができた。少し前の箇所を思い出そう。
「対象となるのは数人の女友だちにちがいなく、そのだれかがその日アルベルチーヌといっしょにいたのかもしれない。それはエリザベートとかいう女かもしれないし、アルベルチーヌがカジノの鏡に映るすがたをじっと見つめていながら見ていないふりをした例のふたりの娘なのかもしれない。アルベルチーヌはおそらくそのふたりと関係があるのだろう、おまけにエステルというブロックの従妹とも関係があるのだろう。そのような関係が、もしもし第三者の口から私に暴露されたなら、それだけで私は瀕死になるほど参ったにちがいないが、想像するのは私なので、私はそこに苦痛を和らげるのに十分なあいまいさを加味することができた。人は、疑念という形で、相手にだまされているという想念を毎日大量に摂取することはあるが、もし胸をひき裂くことばのひと刺しで同じ想念を摂取されたなら、いかに微量でも命取りになりかねない。おそらくそのせいで、また一種の自己保存本能によって、嫉妬する同じ男は、罪もない事実には躊躇なくすさまじい疑念をいだく一方で、はじめて証拠を見せつけられても、明々白々たる事実を受け入れようとしないのだろう。そもそも恋心とは不治の病で、リューマチが治まると代わりにしばらくして癲癇(てんかん)状の偏頭痛がおこるといった特異体質に似ている」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.184~185」岩波文庫 二〇一六年)
反復を特徴とするプルースト作品について多くの識者は、プルースト自身が患っていた「喘息」の反復性との関連を指摘している。作者と作品とは切り離して考えられなければならないが、この「喘息」の反復性という指摘には大いに頷けるものがある。というのは、反復は反復であっても、ただ単なる同一性の反復では決してなく、「リューマチが治まると代わりにしばらくして癲癇(てんかん)状の偏頭痛がおこる」といったような別のものへ変化して反復する、という反復の差異的特徴を捉えているからである。
なお、「第三者の口から私に暴露されたなら、それだけで私は瀕死になるほど参ったにちがいない」ような事実について、「明々白々たる事実を受け入れようとしない」態度が許されるのは小説の中に限った例外に過ぎず、例えば今なお疑惑だらけであるにもかかわらず明確化されていない諸問題はどうなるのだろうか。W杯が覆い隠してくれるのか。天皇杯が覆い隠してくれるのか。それでも漏れてくる情報というのはいつもあるものだ。そうなってくると今度は原発大爆発で覆い隠すことまでしようとするのだろうか。ほとんど何一つ片付いていないうちに年末の慌ただしさがやって来て苦痛をさらに引き延ばしていくのである。