アルベルチーヌは嘘つきだと暴露してみたところで誰一人驚かないことはもうとうの昔にわかっている。アルベルチーヌだけでなくその仲間たち、ジゼルやアンドレもまたしばしば嘘をつく。なかでも、かつてオデットがスワンに向けてついた嘘は典型的だった。しかしスワンはオデットが嘘をついているとすぐさま気づいたものの、そのまま放置し、嫉妬の苦痛を延々引き延ばす方向を選んだ。決済を延々引き延ばしておくことで、いつか或る時、初期投資が数万倍になって戻ってくる瞬間を忍耐強く待つかのように。そんな日は来ないのだが。
ところで<私>は、アルベルチーヌの言葉が「表意文字ではなく」、「ときにはひたすら逆の意味に読むことが必要であった」と確信するしかないような<象形文字>にほかならないことを理解する。ただ、次の箇所では単純に「逆の意味に読むこと」だけが、何か途方もない新発見ででもあるかのように述べられていて読者の笑いを誘わないではいられないのだが。
「私がアルベルチーヌの嘘を解読するときの文字は、表意文字ではなく、ときにはひたすら逆の意味に読むことが必要であった。たとえばその夜アルベルチーヌは、気のない表情で、ほとんど気づかれずにすむことを意図したこんな言い分を口にした、『あしたヴェルデュランさんのお宅へうかがうかもしれないわ、ほんとに行くかどうか全然わからないの、それほど行きたいとも思わないから』。これは幼稚なアナグラムというべきで、こう告白したに等しい、『あしたはヴェルデュランさんのお宅へ行くわ、絶対になにがあろうと、あたしにはよくよく重大なことだから』」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.195~196」岩波文庫 二〇一六年)
<象形文字>の読解に正解などない。にもかかわらず<私>は、「アルベルチーヌは撤回できない決心を伝えるときは、きまって懐疑的な口調になる」がゆえ、「ひたすら逆の意味に読むことが必要」とするだけの次元に留まっている。「幼稚」なのはアルベルチーヌではなく逆に<私>の側だと考え直す必要性がある。だが<私>がそれを思い知らされるのはもっと後になってからだ。とはいえ<私>は少しづつ学び始めている。「嫉妬とは、たいていの場合、不安な独裁欲が色恋沙汰に行使されたものにほかならない」と。
「アルベルチーヌは撤回できない決心を伝えるときは、きまって懐疑的な口調になる。それならこっちの決心だって撤回できない。なんとか算段してヴェルデュラン家への訪問ができないようにしてやろう。嫉妬とは、たいていの場合、不安な独裁欲が色恋沙汰に行使されたものにほかならない」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.196」岩波文庫 二〇一六年)
ここでプルーストはこれまでにないほどニーチェの言葉に接近している。
「《すべて愛と呼ばれるもの》。ーーー所有欲と愛、これらの言葉のそれぞれが何と違った感じをわれわれにあたえることだろう!ーーーだがしかしそれらは同一の衝動なのに呼び方が二様になっているものかもしれぬ。つまり、一方のは、すでに所有している者ーーーこの衝動がどうやら鎮まって今や自分の『所有物』が気がかりになっている者ーーーの立場からの、誹謗された呼び名であるし、他方のは、不満足な者・渇望している者の立場からして、それゆえそれが『善』として賛美された呼び名であるかもしれない。われわれの隣人愛ーーーそれは新しい《所有権》への衝迫ではないか?知への愛、真理への愛も、同様そうでないのか?およそ目新しいものごとへのあの衝迫の一切が、そうでないのか?われわれは古いもの、確実に所有しているものに次第に飽き飽きし、ふたたび外へ手を出す。われわれがそこで三ヶ月も生活していると、この上なく美しい風光でさえ、もはやわれわれの愛をつなぎとめるわけにゆかない。そしてどこか遠くの海浜がわれわれの所有欲をそそのかす。ともあれ所有物は、所有されることによって大抵つまらないものとなる。自分自身について覚えるわれわれの快楽は、くりかえし何か新しいものを《われわれ自身のなかへ》取り入れ変化させることによって、それみずからを維持しようとする、ーーー所有するとはまさにそういうことだ。ある所有物に飽きてくるとは、われわれ自身に飽きてくることをいうのだ。(われわれは悩み過ぎることもありうる、ーーー投げ棄てたい、分け与えたい、という熱望も、『愛』という名誉な呼び名をもらいうけることができる。)われわれは、誰かが悩むのを見るといつでも、彼の所有物をうばい取るのに好都合な今しも提供された機会を、よろこんで利用する。こうしたことは、たとえば、慈善家や同情家がやっている。彼も自分の内に目覚めた新しい所有物への熱望を『愛』と名づけ、そしてその際にも、彼を手招いている新しい征服に乗りだすように、快楽をおぼえる。だが、所有への衝迫としての正体を最も明瞭にあらわすのは性愛である。愛する者は、じぶんの思い焦(こが)れている人を無条件に独占しようと欲する。彼は相手の身も心をも支配する無条件の主権を得ようと欲する。彼は自分ひとりだけ愛されていることを願うし、また自分が相手の心のなかに最高のもの最も好ましいものとして住みつき支配しようと望む。このことが高価な財宝や幸福や快楽から世間のひとびと全部を《閉め出す》以外の何ものをも意味しないということを考えると、また、愛する者は他の一切の恋敵の零落や失望を狙い、あらゆる『征服者』や搾取者のなかでの最も傍若無人な利己的な者として自分の黄金の宝物を守る竜たろうと願うのを考えると、また最後に、愛する者自身には他の世界がことごとくどうでもいいもの、色あせたもの、無価値なものに見え、それだから彼はどんな犠牲をも意に介せず、どんな秩序もみだし、どんな利害をも無視し去ろうとする気構えでいることを考え合わせると、われわれは全くのところ次のような事実に驚くしかない、ーーーつまり性愛のこういう荒々しい所有欲と不正が、あらゆる時代におこったと同様に賛美され神聖視されている事実、また実に、ひとびとがこの性愛からエゴイズムの反対物とされる愛の概念を引き出したーーー愛とはおそらくエゴイズムの最も端的率直な表現である筈なのにーーーという事実に、である。ここで明らかなのは、所有しないでいて渇望している者たちがこういう言語用法をつくりだしたということだ、ーーー確かにこういう連中はいつも多すぎるほどいたのだ。この分野において多くの所有と飽満とに恵まれておった者たちは、あらゆるアテナイ人中で最も愛すべくまた最も愛されもしたあのソフォクレスのように、多分ときおりは『荒れ狂うデーモン』について何か一言洩らしもしたであろう。しかしエロスはいつもそういう冒瀆者(ぼうとくしゃ)たちを笑いとばしたーーー彼らこそつねづねエロスの最大の寵児(ちょうじ)だったのだ。ーーーだがときどきはたしかに地上にも次のような愛の継承がある、つまりその際には二人の者相互のあの所有欲的要求がある新しい熱望と所有欲に、彼らを超えてかなたにある理想へと向けられた一つの《共同の》高次の渇望に、道をゆずる、といった風の愛の継承である。そうはいっても誰がこの愛を知っているだろうか?誰がこの愛を体験したろうか?この愛の本当の名は《友情》である」(ニーチェ「悦ばしき知識・十四・P.78~81」ちくま学芸文庫 一九九三年)
けれどもニーチェの要求は余りにも高い。高すぎる。人間の身ではほとんど不可能に近い。逆に<私>はと言えばほとんど猿に等しい。<人間に対して鏡の機能を果たす猿>という概念が導入されなくてはならない。
またプルーストは一つも改行することなしに「アルベルチーヌの目」に注目するようこう述べる。かといって何か「真実」のようなものが見えるかといえば全然そんなことはない。バルベック滞在中にアルベルチーヌの姿形が諸商品の無限の系列を呈して見えたように、「アルベルチーヌの目」も同じく多層的であり、目が語る意味を追いかけていけばいくほど目はそのままの位置にありながらその意味は遥か彼方へ遠ざかっていくばかりなのだ。「アルベルチーヌのような目は(たとえ平凡な人の場合でも)、その日に行きたいと思っているーーーしかもそれを隠しておきたいーーーあらゆる場所のせいで多数の断片からできているように見える、そんな種類の目だ」。文字通り人間の目は無数の欲望に分裂した<諸断片>、「多数の断片からできている」モザイクである。「アルベルチーヌの目」はアルベルチーヌの身振り(振る舞い・言葉)の中でも最も多くを語る身体の部分にほかならない。
「私のいらだちは、相手のなかで電気のように作用する反対意志の力と出会って、激しく押し返された。私にはアルベルチーヌの目のなかに反発の火花が飛びちるのが見えた。もっとも今になって瞳の言い分を重視したところでなんの役に立つだろう?アルベルチーヌのような目は(たとえ平凡な人の場合でも)、その日に行きたいと思っているーーーしかもそれを隠しておきたいーーーあらゆる場所のせいで多数の断片からできているように見える、そんな種類の目だと、どうしてもっと前から気づかなかったのか?その目はーーーそらとぼけていてつねにじっと動かぬ受け身の目に見えるがーーーじつは活動的で、抗(あらが)いがたい念願の逢い引きの場所へ行くために踏破すべきメートル数やキロ数によって測ることのできる目というべきか、気をそそる快楽に微笑んでいるというよりも、むしろ逢い引きにおいそれとは行けないかもしれぬと考えて悲哀と落胆につつまれているのだ。このような相手は、たとえこちらの手中にあろうと、逃れる存在である」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.197」岩波文庫 二〇一六年)
そして<私>は思う。「このような相手は、たとえこちらの手中にあろうと、逃れる存在である」。それでもなお<私>はアルベルチーヌを<幽閉・覗き見・監視>することを止められない。二人の関係は時々刻々と悪化していくばかりだ。またこの悪化過程を見ると、最後に行き着くまで、幾つかの段階というものがあるのである。