白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・深い睡眠と即興とがもたらす諸段階としての『放浪の線』/<狂信的崇拝>にまつわる<道徳への意志>の危険性

2022年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム

短時間で深い睡眠に陥り実にすっきりしたと感じることがないだろうか。おそらく随分多くの人々が身に覚えがあるに違いない。プルーストはこう論じる。

 

「そのような深い睡眠はーーー平均するとーーー四倍も心身を休めてくれるので、眠りから目覚めたばかりの人は四倍も長いこと眠った気がするが、じつは四分の一の時間しか眠っていなかったのだ。掛け算のみごとな間違いのせいで十六倍にも感じられた睡眠は、目覚めをすばらしいものにし、人生に正真正銘の革新をもたらすもので、この革新は、音楽でいえばアンダンテにおける八分音符がプレスティッシモにおける二分音符と同じ長さになるのにも匹敵する重大なリズムの変化で、これは覚醒状態では経験できないものである。目覚めているときの人生は、ほとんどつねに同じで、旅に出て幻滅するのもそこに原因がある」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.265」岩波文庫 二〇一六年)

 

プルーストがずば抜けているのはこの種の睡眠について数値化してみたということではない。「この革新は」、とプルーストはいう。「音楽でいえばアンダンテにおける八分音符がプレスティッシモにおける二分音符と同じ長さになるのにも匹敵する重大なリズムの変化で、これは覚醒状態では経験できない」。覚醒状態と深い睡眠状態との<間>にはまるで異なる違い(差異)が認められるわけだが、それを「音楽」の「リズムの変化」として論じたところにプルーストの並々ならぬ革新性=切断がある。ドゥルーズ=ガタリはいう。「子供が輪になって踊る」場合、その場では何が起こっているか。「内に秘められた創造の力、有機体の分化した部分に対応させ」、「速度やリズムやハーモニーに関する過失は破局をもたら」し、「カオスの諸力を回復させ、創造者も被造物も破壊することになる」。そこに生まれる即興の運動。それは「世界に合流し、世界と渾然一体になることなのだ。ささやかな歌に身をまかせて、わが家の外に出てみる。ふだん子供がたどっている道筋をあらわした運動や動作や音響の線に、『放浪の線』が接ぎ木され、芽をふきはじめ、それまでと違う輪と結び目が、速度と運動が、動作と音響があらわれる」。二箇所。

 

(1)「だが、とりわけ重要なのは、子供が輪になって踊るのと同じように、輪の周囲を歩き、子音や母音を組み合わせてリズムをとり、それを内に秘められた創造の力、有機体の分化した部分に対応させるということである。速度やリズムやハーモニーに関する過失は破局をもたらすはずだ。それはカオスの諸力を回復させ、創造者も被造物も破壊することになるからである(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・11・P.318」河出文庫 二〇一〇年)

 

(2)「輪を開く場所は、カオス本来の力が押し寄せてくる側にあるのではなく、輪そのものによって作られたもう一つの領域にある。それはあたかも輪そのものが、みずからの内部に収容した活動状態の力と連動して、未来に向けて自分を開こうとしているかのようだ。そして、いま目的となっているのは未来の力や宇宙的な力に合流することなのである。身を投げ出し、あえて即興を試みる。だが、即興することは、世界に合流し、世界と渾然一体になることなのだ。ささやかな歌に身をまかせて、わが家の外に出てみる。ふだん子供がたどっている道筋をあらわした運動や動作や音響の線に、『放浪の線』が接ぎ木され、芽をふきはじめ、それまでと違う輪と結び目が、速度と運動が、動作と音響があらわれる」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・11・P.318~319」河出文庫 二〇一〇年)

 

そんな子供たちにとって幼年時代が人生の中で最も厳しい時期になる場合が余りにも多いのはなぜか。二つの要因を上げてみよう。

 

フロイトから。

 

「遊ぶ子供はこの世界を真剣に受け取ってはいないなどと思ったら、それは誤りである。どうしてどうして子供は自分の遊びを非常に真剣に考えている。遊びというものにたいへんな情動量をそそいでいるのである。そして遊びの反対は真剣ではない。ーーー現実である」(フロイト「詩人と空想すること」『フロイト著作集3・P.82』人文書院 一九六九年)

 

ニーチェから。

 

「《幼年時代の悲劇》。ーーー貴い高いものを追求する人々がもっとも烈しい闘いを幼年時代に切り抜けなくてはならないということは、おそらくまれではあるまい、たとえば彼らは考えの卑しい、みかけや虚偽におぼれている父親にさからって自分の意向を貫き徹さなくてはならない、またはバイロン卿のように、子どもっぽい起りっぽい母親とたえず闘って生きるとかいうぐあいにして。そういう体験をしてしまうと、彼にとって一体もっとも大きな、もっとも危険な敵はだれであったか、を思い知るという痛手は、その生涯を通じて忘れることがないであろう」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・四二二・P.367」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

子供たちはそこで<道徳>というものを叩き込まれる。また幼年時代に限らず、それ以上に劇的で新しい暴力的体験に直面するその都度、その種の<道徳>は社会的規模で覆い隠されながら都合よく加工=変造される。この加工=変造過程はただ単に時間的なレベルだけではなく空間的なレベルを伴った平面で起こる。その一つにマインド・コントロールも含まれる。そしてマインド・コントロールというものは、どこからどう見ても暴力以外の何ものでもないにもかかわらず、コントロールされている当事者には逆に暴力だとまるで感じさせない狡猾な技術として確立されたということを忘れ去ってはならないだろう。なおかつ<狂信的崇拝>にまつわる<道徳への意志>の危険性についてニーチェはいう。

 

「崇拝は崇拝される対象のもつオリジナルな、しばしばはなはだしく奇異な特徴や特異体質を消去するものであるーーー《崇拝とはそれそのものを見ないことなのである》」(ニーチェ「反キリスト者・三一」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.209』ちくま学芸文庫 一九九四年) 

 

だからカルトとは宗教とは異なるわけでは全然ない。むしろ逆に宗教というものが究極的な形態を取った瞬間に出現する極めて危険な<権力への意志>として見据えなければならない。

 

さらに睡眠についてプルーストはそれを<忘却>として捉えている。「黒板に書かれたように私の頭のなかに記されていた日々の懸案の文字は、睡眠という黒板拭きによって拭い去られていたから、私は自分自身の記憶を呼び醒ます必要があった」と。

 

「といっても夢は、ときに人生のいちばん粗悪な素材でできているように見える。しかしこの素材は、夢のなかで入念に処理され練りあげられ、覚醒時における時間的制約になんら妨げられることなく型破りの高みにまで細長くのびてゆくので、とうてい元の素材と見分けがつかない。こうした幸運が私に訪れた朝には、まるで黒板に書かれたように私の頭のなかに記されていた日々の懸案の文字は、睡眠という黒板拭きによって拭い去られていたから、私は自分自身の記憶を呼び醒ます必要があった」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.265~266」岩波文庫 二〇一六年)

 

忘却。ニーチェは「睡眠によってもっともひどく損われる頭脳の機能は記憶力である」としてこう述べる。

 

「《夢と文化》。ーーー睡眠によってもっともひどく損われる頭脳の機能は記憶力である、それはまったく中絶するのではなくーーー人類の原始時代にはだれしも昼間や目覚めているときでもそうであったかもしれぬような、不完全な状態に後退させられている。実際それは恣意的で混乱しているので、ほんのかすか似ているだけでもたえず事物をとりちがえるのであるが、その同じ恣意や混乱でもって、諸民族は彼らの神話を詩作したのであった。そして今でもなお旅行者は、どれほどひどく未開人が忘れがちであるか、どれほどその精神が記憶力の短い緊張ののちにあちらこちらとよろめきはじめたり、単なる気のゆるみから嘘やたわごとをいいだしたりするかということを観察するのが常である。しかしわれわれはみな夢の中ではこの未開人に等しい、粗雑な再認や誤った同一視が夢の中でわれわれの犯す粗雑な推理のもとである。それでわれわれは夢をありありと眼前に浮べてみると、こんなにも多くの愚かさを自分の中にかくしているのかというわけで、われながらおどろく。ーーー夢の表象の実在性を無条件に信じるということを前提にすると、あらゆる夢の表象の完全な明瞭さは、幻覚が異常にしばしばあって時には共同体全体・民族全体を同時に襲った昔の人類の諸状態を、われわれにふたたび思い出させる。したがって、眠りや夢の中でわれわれは昔の人間の課業をもう一度経験する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・十二・P.36」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

人間は忘却と夢とを通して「われわれは昔の人間の課業をもう一度経験する」し、経験しないわけにはいかず、否認することのできない経験を生涯のうちに何度も繰り返すのである。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて143

2022年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。午後二時過ぎに湖畔へ出ました。天気は上々ですがいつもより強い風が吹いています。日暮れとともにかなり冷え込みそうな気配です。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.23)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.23)

 

陽がやや傾いたようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.23)

 

移動していきましょう。途中で高さ3メートルほどの古墳(円墳)があります。

 

「名称:“車塚(くるまづか)古墳”」(2022.12.23)

 

さらに上り坂へ向かいます。

 

「名称:“北国街道”」(2022.12.23)

 

いつもの位置まで登って来ました。日が沈むちょっと前です。

 

「名称:“日の入”」(2022.12.23)

 

だんだん沈んでいくようです。

 

「名称:“日の入”」(2022.12.23)

 

 

「名称:“日の入”」(2022.12.23)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.23)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.23)

 

湖畔へ降りてきました。何事もなかったかもような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.23)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.23)

 

二〇二二年十二月二十三日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて142

2022年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は晴れ。湿度は6時で55パーセント、9時で40パーセントの予想。湖東方面も晴れの予想。鈴鹿峠も晴れのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.23)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.23)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.23)

 

西方向は。

 

「名称:“山並み”」(2022.12.23)

 

西南西の風に乗って分厚い横雲が延びてきました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.23)

 

落ち葉は霜でびっしり。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.23)

 

前日に残された人々の足跡がそのまま凍りついてところどころに固まっています。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.23)

 

比良山がほんのりピンクがかってきました。

 

「名称:“比良山”」(2022.12.23)

 

そろそろのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.23)

 

日が昇りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.23)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.23)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.23)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.23)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.23)

 

「名称:“通勤通学”」(2022.12.23)

 

二〇二二年十二月二十三日撮影。

 

参考になれば幸いです。