アルベルチーヌのことでアンドレに電話した<私>。あいにく「通話中」。ふと<私>はこう思う。
「アンドレはだれかと話している最中なのだ。その通話が終わるのを待ちながら私は、人を待つ心や、ふくれっ面(つら)や、関心や、もの想いなどの表情を巧みな演出を凝らして描いた十八世紀の女性肖像画をいまや多くの画家が刷新しようとしているはずなのに、現代のブーシュやフラゴナールたるべき画家が、なぜだれひとりとして『手紙』や『クラブサン』などの代わりに『電話の前で』と題することができ、相手の声を聞いている女の口元にだれにも見られていないと承知しているからこそおのずと真実の微笑みがうかぶ場面を描かないのかと不思議に思った」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.213」岩波文庫 二〇一六年)
一つの非対称性が出現している。アンドレと<私>とは決して対等の関係ではない。「口元にだれにも見られていないと承知しているからこそおのずと真実の微笑みがうか」んでいるに違いないアンドレの圧倒的優位性。<私>はこれからアンドレにあれこれ言うつもりだ。しかしアンドレが本当はどう思いどう反応し自分たちの人間関係をどのように回していこうと画策しているか、<私>がそれを知ることは泣いても喚いても決してできない。作品についても同じことが言える。作品が世に出るということ。人目に晒されるということ。没人格的他者の目の前へ<暴露>され、<覗き見>られ、<冒瀆>されるということ。大事なのは、この種の非対称性は常にパノプティコン的な形を取っている点である。
「<一望監視装置>(パノプティコン)は、見る=見られるという一対の事態を切り離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである。これは重要な装置だ、なぜならそれは権力を自動的なものにし、権力を没人格化するからである」(フーコー「監獄の誕生・第三部・第三章・P.204」新潮社 一九七七年)
手紙を書くことが相手に重要なことを伝えるほとんど唯一の手段だった頃。ところがプルーストの生前すでに電話が大規模に普及すると今度は電話が手紙を追い越してしまう。この置き換え。しかしただ単なる置き換えではなく、これもまた極めて非対称的な別々のものへ置き換えられた。さらに手紙と電話との非対称性は極端なくらい乖離し始める。手紙が電話の代わりをし、電話が手紙の代わりをするということではなく、一方に手紙が、他方に電話がある、という状態が生じてきた。機能の違い(差異)が役割の違い(差異)を決定する。両者は似てはいるが、その実、似ても似付かぬ役割の分離を伴って事態は進行した。ただ単に速くて便利というだけならもう手紙など過去の遺物として博物館入りしていただろう。しかし現実はそうなっていない。今のグローバルネットワークの時代に入ってもなお手紙は残っている。手紙には手紙固有の役割があるというだけでなく、今なお手紙固有の役割に需要があるということを物語っている。一見不要になったように見えてはいても利用価値があり資本を生む要素を構成している間は決して遺物化させないのが資本主義の掟の一つである。
ようやくアンドレが電話に出た。<私>はいう。「あしたアルベルチーヌを迎えに来てくれるね?」。この時に口にしたアルベルチーヌという名が新しい価値を伴って言われていることに<私>は気づく。「アルベルチーヌという名前を口にしながら私は、ゲルマント大公妃邸でのパーティの日にスワンから『オデットに会いに来てください』と言われて、やはりファーストネームには強大な力があり、スワンの口から発せられると皆の目にもオデット自身の目にも絶対的所有の意味しか持ちえない、と考えたときに感じた羨望の念を想いうかべた」。ファーストネームで呼び合うこと。そこに<私>は単なる親近感以上のもの、独占的支配があるのを感じて羨望を覚える。
「やっと私の声がアンドレに聞こえたらしい、『あしたアルベルチーヌを迎えに来てくれるね?』このアルベルチーヌという名前を口にしながら私は、ゲルマント大公妃邸でのパーティの日にスワンから『オデットに会いに来てください』と言われて、やはりファーストネームには強大な力があり、スワンの口から発せられると皆の目にもオデット自身の目にも絶対的所有の意味しか持ちえない、と考えたときに感じた羨望の念を想いうかべた。ある人の生活の全体をこのようにーーー一語で端的に言いあらわされるようにーーー独占的に支配できればどんなに嬉しいことだろうと、私は恋するたびに考えた。ところが実際にそう言えるのは、そんなことには無関心になったときか、習慣で愛情を鈍らせることなく愛情の楽しさを苦しみに変えてしまったときかである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.213~216」岩波文庫 二〇一六年)
かつてのアルベルチーヌと現在のアルベルチーヌとでは、<私>にとってその精神的価値はもはやまるで異なっている。精神というものの価値変動。ヴァレリーはいう。
「私の話の骨子は、我々の眼前で我々の生活の諸価値が低下し、暴落してしまったことについてである。そしてこの《価値》という言葉で、私は物質的な価値と精神的な価値を、同じ表現の中、同じ記号の下に包括したのである。私は《価値》という言葉を使った。私の関心はまさにそれである。諸氏の注意を引きたい最も重要な点である。
今日、我々は(ニーチェの卓抜な表現を援用すれば)、真に巨大な価値の転換期に遭遇している。そしてこの講演を『精神の自由』と銘打ったことで、私は、今、物質的価値と同じ運命をたどっているように見える主要な価値の一つを俎上に載せたのである。かくして私は《価値》と言い、《精神》と銘打たれた価値が、《石油》、《小麦》あるいは《金》の価値と同様に存在することを指摘した。私は《価値》と言った、なぜなら、そこには評価、重要度の判断が存在し、《精神》という価値に対して人が支払う用意のある対価もまた存在するからである。この価値(株)に投資することも可能である。そして、株式市場で人々が言うように、価値(株価)の変動を《追跡する》こともできる。私には分からない相場で値動きを観察することもできる。相場とはその価値についての世間一般の意見である。毎日新聞の株式欄一杯に書かれている相場を見れば、その価値が他の価値とあちこちで競合していることが見て取れる。ということは競合する価値があるということだ。それは例えば《政治力》である。政治力は必ずしも精神-価値や《社会保障》株や《国家組織》株と調和しない。これらの諸価値はすべて上がったり、下がったりして、人間事象の一大市場を構成する。そうした事象の中で、憐れなる《精神》-価値は下がる一方である。
《精神》-価値の推移を観察すると、すべての価値と同様、その価値にかけた信頼度によって、人間が二種類に分けられる。この価値にすべてをかける人々がいる、彼らの持てる希望、人生・心・信念の一切をかけるのである。この価値にはあまり期待しない人々もいる。彼らにとって、投資として大きな関心の対象にはならず、価値の変動に対してもほとんど関心がない。さらにはこの価値にはまったく関心を示さない人々もいる。彼らはこの価値に大事なお金をかけることはない。そして、はっきり言えば、この価値をできるかぎり低下させようとする人々もいるのである。私が株式取引所の用語を借りて話していることはお分かりだろう。精神的な事象に関して使うのは奇妙に思われるかもしれない。しかし、他によりよい言葉がないし、多分、この種の関係を表現するのに、捜しても他に適当な言葉はなさそうである。というのは、精神の経済も物質の経済も、人がそれを考えるとき、単純な《価値評価》のせめぎあいとして考えるのが最も分かり易いからである。かくして、私はしばしば、とくにそうしようと思ったわけではまったくないのに、精神生活とその現象および経済生活とその現象の間に類似性が見て取れることに感銘を受けるのであった。
一度その類似性に気づくと、それをとことん追求しないではいられなくなる。経済生活・精神生活のいずれにおいても、すぐに見て取れることは、ともに同じ《生産》と《消費》という概念が見出されることである。精神生活における生産者とは作家、芸術家、哲学者、学者といった人々であり、消費者とは読者、聴取者、観客である。さきほど話題にした価値という概念も、同じく、欠かせないものとして、経済・精神双方の生活に見出される。さらに、交換の概念、需要と供給の概念も同様である。こうしたことは単純であり、簡単に説明がつく。以上の概念は内的世界の市場(そこでは各精神が他の諸々の精神と競合し、交渉し、あるいは、和解する)においても、物質的利害の世界においても、意味を持つものである。さらには、二つの世界のどちら側からも、労働と資本という考え方が有効である。《文明とは一つの資本である》。その増大のために数世紀にわたる努力が必要なのは、ある種の資本を増大させるのと同様で、複利法で増資していくのである。
こうした類似性は考えると意外に思われるかもしれない。しかし類似性はごく自然なものである。私としてはほとんどそこにある種の同一性を見ることにやぶさかではない。理由はこうである。最初に、すでに述べた通り、そこには有機的に同型のものが生産と受容という名の下に介入していること、ーーー生産と受容は交換と切り離せない関係にあるが、そればかりではなく、あらゆる社会的なものはすべからく多くの個人の間で取り結ぶ関係から、生き・考える(多少なりとも考える)人々が織り成す広大なシステム内で起こる出来事から結果するものだからである。システム内部の各人は互いに連繋していると同時に、対立してもいる、ーーー個人としては唯一無二の存在であっても、多数の中にあっては識別されず、あたかも存在しないかのごとくである。そこが肝心な点である。個人は実践的にも、精神的にも、観察され、実証される。一方には個があり、他方には個別化されない数量と事物がある。したがって、こうした関係性の一般的な形は、精神に対する製品の生産、交換、消費にせよ、物質生活における製品の生産、交換、消費にせよ、大差はないのである。
大差がなくて当然ではないだろうか?ーーー同じ問題が見出されるのだから。《個人と個別化されない個人の集合》、集合の中の個人同士は直接的あるいは間接的な関係にある。間接的な関係にあるほうが普通だろう、なぜなら、大抵の場合、経済的にも、精神的にも、我々が外部の圧力を感じるのは間接的な形においてであり、またその反対には、我々が我々の外的行為の影響を不特定多数の聴衆や観衆に及ぼす場合も同様である。
かくして、ある種の二重関係が確立される。一方に交換があり、他方に欲求の多様性、人間の多様性があるとき、個人の特殊性、伝達不能な好悪の感情とか、個々の人間が持っているノーハウとか、技能とか、才能とか、個人的なイデオロギーとかが一つの市場で対立するとき、そうした個人的な価値の対立による競争が流動的均衡を作り出すのである。それはある瞬間の《諸価値》が、その瞬間だけに有効なものとして作り出す均衡である。ある商品が今日、ある時間内で、ある価格で取引されるように、そしてその商品は突然の価格変動に曝されたり、あるいは、緩慢ではあるが持続的な変動に委ねられたりするのと同様に、好みや教条、様式や理想等に関する諸価値も変動する。ただ精神の経済は定義するのがより困難な現象を我々に提示する。というのは精神経済の現象は一般に計測不能であり、器官や特別に作られた制度などで確認できないからである」(ヴァレリー「精神の自由」『精神の危機・P.224~230』岩波文庫 二〇一〇年)
人間の精神は様々な諸関係の中に放り込まれており、その限りで次々と価値を変動させる。<私>とアルベルチーヌとの関係にしても価値変動を避けることはできない。というよりむしろ価値変動が起こるたびに二人の関係は新しい恋愛関係へ更新されてやおら出現する。絶対化したいと欲望する<私>に対して<私>の愛はどんどん変動する関係を出現させることで<私>の愛を裏切っていく、というパラドックスを出現させずにはおかない。
「私はそんな言いかたで『アルベルチーヌ』とアンドレに言えるのは私だけだと承知していた。にもかかわらず私は、アルベルチーヌにとってもアンドレにとっても、いや私自身にとっても、自分が何者でもないことを痛感して、愛が不可能という壁に突き当たらざるをえないことを理解していた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.216~217」岩波文庫 二〇一六年)
だからといって<私>は<私>自身が無価値だと言っているわけではない。愛する相手をアルベルチーヌというファーストネームで呼ぶことは可能である。にもかかわらず絶対的所有としての愛は不可能である。最も近い恋愛相手として親近感を込めて呼べる間柄であるにもかかわらず逆にアルベルチーヌはいつも価値変動を起こして見せ、その都度<私>を暗澹たる苦痛へ陥らせる。恋愛が新しく開始されるたびにその苦痛もまた新しく<私>に襲いかかるのである。