そう言われれば、とでもいうかのようにこうある。「私はエルスチールに似ていた」。なるほど「アトリエに閉じこもらざるをえないエルスチール」だったからである。読者にとってはまるで<私>の自由な連想が間断なく引き続いているかのようにしか見えない。ところがこの流れには連続性ではなく切断がある。テーマもまるで異なる場所移動によって出現した別の記号の系列だ。<私>はラカンのいう「様々な声による一種の音楽」からも「交響楽の総譜」からもすでに遠いところにいる。プルーストは、いつものことだが、そのような記述方法を取ることによって動的現実というものはそういうものだと教えている。ニーチェのいう<神の死>以後、どんな現実であろうと動的でない現実はどこにも存在しないし、世界は諸商品の無限の系列のように次々と脈略なく<接続・切断・再接続>を繰り返していく<諸断片>のモザイクでしかあり得ず、実際のところ脱中心化してばかりいるではないかと。なお画家としてのエルスチールは確かに次のようではある。
「私はエルスチールに似ていた。アトリエに閉じこもらざるをえないエルスチールは、春になって森にスミレが咲きみだれているのを知ると、それを見たくて矢も盾もたまらず、門番の女にその一束を買ってこさせた。そのとき感動のあまり幻覚にとらわれたエルスチールが目の前にあると信じたものは、ささやかな植物の画材が置かれたテーブルではなく、かつて無数のうねうねした茎が青い嘴(くちばし)状の花をつけてたわんでいるのを見たあの絨毯のような一画の下草であって、まるで幻想をさそう花の澄みきった香りがアトリエの一角に想像上の一地帯を現出せしめた観があった」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.312~313」岩波文庫 二〇一六年)
一方<私>は、乳製品店で売り子をやっている一人の娘について、エルスチールに似た創造力を反復したに過ぎない。ふと目に止まっただけの一人の娘、乳製品店の売り子を務めている娘である。プルーストはその娘について「あまりよく見ていなかったので、なんの記憶もない顔のうえに違った形の鼻を何度もつけてみた顔についても『想い出す』などと言えるとしての話であるが」と断っている。読者に対する皮肉に聞こえるだけでなく、もう一方で、決して皮肉ではなく「あまりよく見ていなかったので、なんの記憶もない顔のうえに違った形の鼻を何度もつけてみた顔についても『想い出す』などと言える」と、あえて不意打ちして見せる。人間は「なんの記憶もない顔のうえに違った形の鼻を何度もつけてみ」ることを何度も繰り返している。プルースト作品の中の人間の顔というものは、目、鼻、口など様々なパーツからなる種々のモザイクであって、唯一の絶対性としてはまるで考えられていない。最初のバルベック滞在時すでに「美人」についてこうあった。
「私がさしかかっていたあの青春の一時期、特定の恋人がいない空虚さゆえかーーー恋する男から惚れた相手にするようにーーーいたるところに『美人』を欲し、探し求め、見出すものである。実際の目鼻立ちがわずかにでも目にとまりーーー遠くから、あるいは背後から、ある女性をほんのちらりと見てーーー目の前に『美人』が映し出されると、われわれは美人を見たものと想いこみ、胸を踊らせて足を速め、その女が消え去ってもいつまでも美人だったとなかば本気で信じるだろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.323~324」岩波文庫 二〇一二年)
<私>の家には、洗濯屋の娘、パン屋の娘、果物屋の娘など、色々な娘たちが商品を届けにやってくるわけだが、ある日、その乳製品店の娘が来ているとフランソワーズが教えてくれた。フランソワーズはいつもながら察しがいい。<私>が<私>自身をエルスチールと勘違いさせるほど強烈な印象を与えた乳製品店の娘が来ていると。プルーストは「未知の魅力」という言葉を捧げている。
「私にとってその娘は未知の魅力で彩られていて、それは多くの女が待ち受ける娼家で見つけた美しい娘にはつけ加わるはずのない魅力である。これは裸でもなく妙な扮装もしていない正真正銘の乳製品店の娘で、本人に近づく余裕のないときにはきわめて美しい人だと想像しがちな女性のひとりで、どこかしら人生の永遠の欲望、永遠の哀惜を感じさせる存在であって、その存在の二重の流れがようやく方向を変えてわれわれのそばへやって来たのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.319」岩波文庫 二〇一六年)
この箇所で言われている「二重の流れ」について。「未知の存在」が常にそうであるような二重性である。「一方ではそれが未知の存在であり、その身長といい、プロポーションといい、相手を歯牙にもかけぬまなざしといい、高慢な泰然自若ぶりといい、これは絶世の佳人にちがいないと想像させるから」だが、もう一方で「求めているのが専門の職業をもった女で、その特殊な衣装による小説じみた連想から別天地にちがいないと想いこむ世界へわれわれを逃避させてくれるから」だとある指摘は重要だろう。
「二重の流れというのは、一方ではそれが未知の存在であり、その身長といい、プロポーションといい、相手を歯牙にもかけぬまなざしといい、高慢な泰然自若ぶりといい、これは絶世の佳人にちがいないと想像させるからであり、他方では求めているのが専門の職業をもった女で、その特殊な衣装による小説じみた連想から別天地にちがいないと想いこむ世界へわれわれを逃避させてくれるからである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.319」岩波文庫 二〇一六年)
当時は職業によってそれぞれ衣装がまるで異なっていた。洗濯屋の娘、パン屋の娘、果物屋の娘などの衣装がそれぞれ異なっているように。といっても衣装というものは職業次第でその労働に適した衣装が採用されているため、それぞれ異なっているのは常識である。問題はそのことではなく、制服が職業を象徴していたという点に注目しなければならない。問題はまたしても違い(差異)と置き換え、そして反復に関わる。