プルーストが次に列挙している<私>の欲望はどれも共通する一つのテーマに属する。いとも容易に実現可能な欲望であってもすぐさま実現させず逆に「先送り」すること。苦痛の解消ではなく逆に苦痛の<引き延ばし・増大・永続化>というテーマである。アルベルチーヌに対する疑惑についても「私はいつか必ずアルベルチーヌの釈明を聞こうと肝に銘じておきながら、その釈明の機会を先送りしていた」。
「もしかすると私はある種の欲望を心の奥底に秘めておくのを慣わしにしていたせいで、たとえば家庭教師の女を従えて窓の下を通りすぎてゆくのを見かけた社交界の娘たち、なかでも売春宿に通うというサン=ルーから聞いた社交界の令嬢への欲望とか、美しい小間使いたち、なかでもピュトビュス夫人の小間使いへの欲望とか、春先に田舎へ出かけてもう一度サンザシや花盛りのリンゴの木々や嵐などを見たいという欲望とか、ヴェネツィアを訪ねたいという欲望とか、そうしたあらゆる欲望をすぐに充たすことはせず、おのが心中に溜めこみ、いつの日かそれを実現するのを忘れまいと自分自身に約束するだけに甘んじるのが習い性(せい)となっていたせいで、そしてこのようにものごとをたえず日延べにする、シャルリュス氏からくり延べ癖だと叱責された積年の旧弊が、もしかすると私のうちに蔓延し、私の嫉妬から生じた疑念にもとり憑いたせいで、エメが出会ったという例の娘ーーーあるいは娘たち(娘たちだったかもしれない、私の記憶のなかで話のこの部分は薄れて茫漠とし、いわば読解不能になっていた)ーーーについても、私はいつか必ずアルベルチーヌの釈明を聞こうと肝に銘じておきながら、その釈明の機会を先送りしていたのかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.187~188」岩波文庫 二〇一六年)
先送りすればするほどアルベルチーヌの釈明を聞く機会は繰り延べされていく。決済は延期される。欲望の実現を夢見る一方で実際の実現をいつまでも延々先送りしていくことで苦痛の宙吊り状態を作り出す。<私>が欲望しているのは<私>自身の苦痛の宙吊り状態なのだろうか。とすれば決済を延期するや忽然と出現する苦痛の宙吊り状態としての<私>こそ<私>の本当の欲望なのだろうか。大いにありうるだけでなくかつてのスワンがそうだった。二箇所ばかり思い出そう。
(1)「ところが恋心に寄りそう影ともいうべき嫉妬心は、ただちにこの想い出と表裏一体をなす分身をつくりだす。その夜、オデットが投げかけてくれた新たな微笑みには、いまや反対の、スワンを嘲笑しつつべつの男への恋心を秘めた微笑みがつけ加わり、あの傾けた顔には、べつの唇へと傾けられた顔が加わり、スワンに示してくれたあらゆる愛情のしるしには、べつの男に献げられた愛情のしるしが加わる。かくしてオデットの家からもち帰る官能的な想い出のひとつひとつは、室内装飾家の提案する下絵や『設計図』と同じような役割を演じることになり、そのおかげでスワンは、女がほかの男といるときにどんな熱烈な姿態やどんな恍惚の仕草をするのかが想像できるようになった。あげくにスワンは、オデットのそばで味わった快楽のひとつひとつ、ふたりで編み出したとはいえ不用意にもその快さを女に教えてしまった愛撫のひとつひとつ、女のうちに発見した魅惑のひとつひとつを後悔するにいたった。いっときするとそうしたものが新たな道具となって、拷問にも等しい責め苦を増大させることになるのを承知していたからである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.209」岩波文庫 二〇一一年)
(2)「スワンは郵便局から家に戻ったが、この一通だけは出さずに持ち帰った。ロウソクに火をつけ、封筒を近づけた。開けてみる勇気はなかったのである。最初はなにも読めなかったが、なかの固いカード状用箋を封筒の薄い紙に押しつけると、最後の数語が透けて読めた。きわめて冷淡な結びのことばである。今のようにフォルシュヴィル宛ての手紙を自分が見るのではなく、かりに自分宛ての手紙をやつが読んだら、はるかに愛情あふれる言葉がやつの目に入ったことだろう!スワンは、大きすぎる封筒のなかで揺れる用箋を動かないように押さえ、それからなかの用箋を親指でずらして、書いてある行を順ぐりに封筒の二重になっていない部分にもってきた。そこなら透けて読めたのである。それでも、はっきりとは判読できなかった。もっともきちんと読めなくても差しつかえなかった。書いてあるのは重要でない些末なことで、ふたりの恋愛関係をうかがわせることは一切ないのがわかったからである。オデットの叔父のことが書いてあるようだ。行のはじめに『あたしは、そうしてよかったのです』と書いてあるのが読めたが、どうしたのがよかったのかスワンは理解できなかった。が、突然、当初は判読できなかった一語があらわれ、文全体の意味が明らかになった。『あたしは、そうしてよかったのです、ドアを開けた相手は叔父でしたから』というのだ。開けた、だって。すると今日の午後、俺が呼び鈴を鳴らしたとき、フォルシュヴィルが来ていたのだ。あわてたオデットがやつを帰らせたために、あんな物音がしたのだ。そこでスワンは、手紙を端から端まで読んだ。オデットは最後に、あのように失礼な対応になったことをフォルシュヴィルに詫びたうえで、タバコを忘れてお帰りになった、と書いている。スワンが最初にオデットの家に寄ったときに書いて寄こしたのと同じ文面である。だが俺には『この中にあなたのお心もお忘れでしたら、お返ししませんでしたのに』と書きそえていた。フォルシュヴィルには、そんなことはいっさい書いていない。ふたりの関係は暗示する文言はなにひとつ出てこない。それにどうやらこの内容からすると、オデットはやつに手紙を書いて訪ねてきたのは叔父だと信じこませようとしているのだから、そもそもフォルシュヴィルは俺以上に騙されていることになる。要するにオデットが重視していたのは俺のほうで、その俺のために相手を追い払ったのだ。それにしてもオデットとフォルシュヴィルのあいだに何もないのなら、なぜすぐにドアを開けなかったのだろう。なぜ『あたしは、そうしてもよかったのです、ドアを開けたのは叔父でしたから』などと書いたのだろう。そのときオデットになんらやましいところがなかったのなら、ドアを開けなくてもよかったのにと、どうしてフォルシュヴィルが考えるだろうか。オデットがなんの危惧もいだかず託してくれたこの封筒を前にしたとき、スワンは申し訳ないと恐縮したが、それでも幸せな気分だった。自分のデリカシーに全幅の信頼を置いてくれたと感じられたからである。ところがその手紙の透明な窓を通して、けっして窺えないと思っていた事件の秘密とともに、未知の人の生身に小さく明るい切り口が開いたかのようにオデットの生活の一部があらわになったのだ。おまけにスワンの嫉妬も、この事態を歓迎した。嫉妬には、たとえスワン本人を犠牲にしてでも、おのが養分になるものを貪欲にむさぼり食らう利己的な独立した生命があると言わんばかりである。いまや嫉妬が糧(かて)を得たからには、かならずスワンは毎日、オデットが五時ごろだれの訪問を受けたかが心配になり、その時刻にフォルシュヴィルがどこにいたかを知ろうとするにちがいない。というのもスワンの愛情は、オデットの日課に無知であると同時に、怠惰な頭脳ゆえに無知を想像力で補うことができないという当初に規定された同じ性格をあいかわらず保持していたからである。スワンが最初に嫉妬を感じた対象は、オデットのすべての生活ではなく、間違って解釈された可能性のある状況にもとづきオデットがほかの男と通じていると想定される瞬間だけだった。その嫉妬心は、執念深い人がタコの足のように最初のもやい網を投げいれると、ついで第二の、さらに第三のもやい網を投じるのと同じで、まずは夕方の五時という瞬間に食らいつき、ついでべつの瞬間に、さらにもうひとつべつの瞬間にとり憑くのである。とはいえスワンは、つぎからつぎへと自分の苦痛を編み出したわけではない。それら一連の苦痛は、スワンの外から到来したひとつの苦痛を想い出したうえで、それを永続化したものにほかならなかったのである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.220~223」岩波文庫 二〇一一年)
嫉妬の苦痛に責め苛まれていない限り愛しているという実感が得られない。愛しているというのなら嫉妬の発作とその繰り返しは疑う余地なく当たり前に起こってくる。例えばそれまで意識していなかった相手に突然嫉妬を覚えるようなことがある。相手が誰か思いも寄らなかった人間と辺り構わず楽しそうに語り合り、その目に無邪気以上の艶っぽい快楽が宿っているのを見た瞬間、<私>は不意に嫉妬を覚える。ただし注意しておきたいと思うのは、そこで始めて<私>はその相手を愛していたことを思い知らされるというわけではなく、逆に<私>の愛はそこから始まるという転倒した事情である。
或る時、アルベルチーヌが朝の性行為を拒否したことがあった。人間である以上アルベルチーヌも<私>も当然疲れることはある。けれども<私>の欲望は疲れを知らない。アルベルチーヌが朝の性行為を拒否したのは性行為による疲れを回避したかったからかもしれない。そしてその理由について<私>はこう考える。「そんなことをしたら本人はたしかに疲れてしまったかもしれない。ということは、その快楽をべつの人間のために、ことによると今日の午後にでもとっておくためだったのだろうか?だれのために?このように嫉妬には果てしがないのだ」。
「と同時に私は、ふと、アルベルチーヌがその朝、快楽を拒んだことを想い出した。そんなことをしたら本人はたしかに疲れてしまったかもしれない。ということは、その快楽をべつの人間のために、ことによると今日の午後にでもとっておくためだったのだろうか?だれのために?このように嫉妬には果てしがないのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.187~188」岩波文庫 二〇一六年)
またさらに恋人の過去から「新たな裏切り」が生じる。知らなかったことを後で知ったことから生じる嫉妬ではない。そんなありふれたケースなら山ほどある。そうではなくプルーストが提起しているのはこういうことだ。「ここで私が過去というのは、遅ればせに知ることになる過去のことだけではなく、われわれがずいぶん以前から心中に保存していながら突然その解読法を身につける過去のことである」。
「なにもふたりでいる必要はなく、ひとりで部屋にいて想いをめぐらすだけで、たとえ恋人が死んでいようと、その恋人の新たな裏切りが生じるのである。したがって恋愛において恐れなければならないのは、日常生活でも同じであるが、未来だけではなく、われわれにとってしばしば未来の後にのみ実現される過去なのだ。ここで私が過去というのは、遅ればせに知ることになる過去のことだけではなく、われわれがずいぶん以前から心中に保存していながら突然その解読法を身につける過去のことである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.188~189」岩波文庫 二〇一六年)
バルベックで見たエルスチーヌの絵画の効果のように、<私>が毎日のように目にしていながら実はまるで見えていなかった風景をがらりと異なった風景として見えるようにさせる新しい読解。プルースト流の言葉でいえばこうなる。
「作家にとって印象は、科学者にとっての実験に相当するが、ただし科学者にあっては知性の仕事が先に立つのにたいして、作家にあってはそれが後まわしになるという違いがある」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.458~459」岩波文庫 二〇一八年)
<或る価値体系>から<別の価値体系>への移動が必要不可欠なのである。