現在のアルベルチーヌに対して取っている<私>の態度。それは間違いなくジルベルトに対してかつて取っていた態度と同様である。あの頃。<私>はジルベルトのすべて、ジルベルトと関係のあるあらゆる人物の固有名やどこで何をしたかなど、すべてを知りたがった。けれども無駄だった。ジルベルトの身振り(振る舞い・言葉)はいつも嘘を交え、考えもころころ変わり、追求すればするほど転変極まりなく、ただ単に<私>は消耗するばかりに終わった。それくらい必死だった。ところが今や<私>はジルベルトに対してまるで無関心なのだ。捨て去るということ。切断するということ。その困難さは<私>にのみあるわけでもジルベルトにのみあるわけでもない。二人の間で繁殖する<関係>が常に無数の要素で出来上がっているだけでなく、<関係>の繁殖の仕方が「習慣」というステレオタイプ(紋切型)に従って出来上がってしまうからである。
「われわれを他人に結びつけているのは、前夜の想い出や翌朝への期待といった無数の根であり、数えきれない糸であり、われわれが振りほどけないのはこうした習慣の連綿とつづく横糸なのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.209」岩波文庫 二〇一六年)
これまで何度か引用してきたプルーストの次の言葉はこの点で改めて重要な価値を帯びる。「素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」と。
「私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。そうして現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.494~495」岩波文庫 二〇一八年)
<習慣・因習>。それは途方もなく長い時間をかけて一体何をやってきたか。「人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」とニーチェはいう。
「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫 一九四〇年)
フーコーが様々な事例を取り上げつつ詳細に論じたように、人間の記号化は、人間が人間と呼ばれ出した十七~十九世紀にかけてすでに完了していた。気づいた時にはもはや誰もが誰かと関係づけられ、関係そのものによってがんじがらめにされ、いつも誰かから<監視>されずにはおかない監獄の中にいた。
「必要なのは、相手の人間よりもはるかに重要な力をもつこの絆から抜け出すことであるが、この絆は、われわれのうちに相手にたいする一時的義務をつくりだす結果となり、その義務ゆえにわれわれは相手の不興を怖れてその人を捨て去ることができないのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.209」岩波文庫 二〇一六年)
ジルベルトに対してもはや無関心な<私>は今度、アルベルチーヌに対する<幽閉・覗き見・監視>を徹底強化しないではいられない。その順序はあたかもカンニングしたかのように次のニーチェの言葉通りに進行している。
「人間の差異は、単に彼らの財産目録の差異に示されているのみではない。すなわち、彼らがそれぞれ異なる財を追求するに値すると考え、また共通に承認する財の価値の多少、その順位について互いに意見を異にする、という点に見られるのみではない。ーーー人間の差異は更にむしろ、何が彼らにとって財の真の《所有》であり《占有》であると見なされるか、ということにおいて示される。例えば、女について言えば、比較的に控え目な者は、肉体を自由にし、性的享楽を味わうだけですでに、その所有・占有の十分な満足すべき徴(しるし)と認める。他の者はもっと邪推深く、もっと要求が多い占有欲をもっていて、そうした所有は『疑問符』を伴うもの、単に外見上のものであると見て、一層精細な試験をしようとし、わけても、女が彼に身を任(まか)せるだけではなく、更に彼女の持っているものや持ちたがっているものをも彼のために手放すかどうかを知ろうとする。ーーーそのようにして始めて、彼は女を『占有した』と認めるのである。しかし、それだけではまだ彼の不信と所有欲に結末をつけない者もある。彼は自ら女が一切を彼のために棄てても、言ってみれば彼の幻影のためにそうしているのではなかろうか、と疑う。彼はおよそ愛されうるためには、まず徹底的な、いな、どん底までよく知られたいものだと望む。彼は敢えて自分の正体を覗(のぞ)かせるのだ。ーーー彼女がもはや彼について錯覚をもたず、彼の親切や忍耐や聡明のためにと全く同じく、彼の魔性や秘(ひそ)かな貪婪(どんらん)のためにも彼を愛するとき、始めて彼は愛人を完全に自分が占有したと感じる。また、或る者は国民を占有したいと思う。そして、その目的のためには、あらゆるカリョストロ的、カティリーナ的な術策を弄してもよい、と彼には思われる。更に他の者は、もっと繊細な占有欲をもっていて、『所有せんと欲すれば、欺くべからず』と自分に言って聞かせる。ーーー彼は自分の仮面が民衆の心を支配しているのだと考え、そのため苛立(いらだ)って耐(た)え切れなくなり、『故にわれを知ら《しめ》ざるべからず。かつまた、まずもって、われ自らを知らざるべからず!』と思う。世話好きな慈善家の間には、彼らが助けてやるはずの者をまずもって支度してかかるといったあの愚かしい奸智が見いだされるのが殆ど通例である。例えば、あたかもその者が助けられるに『値し』ており、まさしく《彼らの》助けを求めていて、すべての助力に対して彼らに深い感謝と帰服と恭順を示すかの如く思ってそうするのだ。ーーーこのような自惚(うぬぼ)れをもって、彼らは困窮者を所有物を処理するが如くに取り扱う。彼らは所有物に対する欲求からして一般に慈善的で世話好きな人間だからである。彼らは助力が妨げられたり、出し抜かれたりすると嫉妬する。両親は識らず知らずに子供を自分たちに似たものにするーーー彼らはこれを『教育』と名づける。ーーー子供を産んで一つの所有物を産んだのだと心の底で信じない母親は一人もいないし、子供を《自分の》概念や評価に従わせる権利があることを疑う父親は一人もいない。それどころか、以前には新しく生れた子供の生殺の権を思うがままに揮(ふる)うことが(古代のドイツ人の間でそうであったように)、父親たちには当然のことと思われていた。そして、父親がそうであったように、今日でもなお教師・階級・僧職・君主などがあらゆる新しい人間において、躊躇なく新しい占有への機会を見るのである」(ニーチェ「善悪の彼岸・一九四・P.144~146」岩波文庫 一九七〇年)
かつてジルベルトを相手にやったこと。現在はその同じことをアルベルチーヌを相手にやらかしているばかりか、やらずには不安と疑念と苦痛とで居ても立ってもいられない。その<徒労・虚しさ>について、かつて嫌というほど思い知らされていながらもなお、そうする。しかしプルーストはあえて、なぜそうするのか、とは問わない。ただ愛する相手が人間であろうと不動産であろうと繰り返されることは同様だと語る。
「相手が女性であろうと、土地であろうと、あるいは土地を内に秘めた女性であろうと、われわれは生活をともにするとそれを愛さなくなり、われわれがそれとともに暮らしているのはひとえに耐えがたい恋心を抹殺するためだからである。もし相手がふたたび不在となればそれだけで、われわれはまたもや相手を愛しはじめるのかと思って震えあがるだろう」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.210」岩波文庫 二〇一六年)
しかしジルベルトとの関係はアルベルチーヌとの関係とまったく同じというわけではない。<関係>という言葉ばかりは同じでも実際の<関係>は常に新しい。例えば五百万円の投資が五百一万円になって還ってきたとしよう。その習慣に慣れきってしまうと、今度は、五〇二万円になって環ってくる<関係>を作り上げ維持保存しようと欲望する。ところが五百万円の投資がびた一文さえ生じさせることなく逆に忽然と消滅することもある。環流するにせよ消滅するにせよ、問題は、<私>とアルベルチーヌとの間を接続している無数の諸関係であり、諸関係が無数であればあるほど、二人は何度も繰り返し新しい恋愛関係を始めることができる。と同時に耐えがたい苦痛もただ単に仮面を置き換えただけで一緒に到来するというわけだ。