取るに足りない事柄がしばしば途轍もない価値を帯びて出現することがあるということについて。どんな時か。「われわれの愛する人が(また隠しごとさえすればわれわれの愛を獲得できる人が)、そのことがらをわれわれに隠すときである!」、と<私>はけたたましく述べ立てる。
「おそらくなんの取り柄もないことがらがいきなり途轍もない価値を帯びるのは、われわれの愛する人が(また隠しごとさえすればわれわれの愛を獲得できる人が)、そのことがらをわれわれに隠すときである!」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.202~203」岩波文庫 二〇一六年)
例えば次のような場合。
「しばらくは、あたしにはあなたこそすべてと言っていた女が、自分にとっては全然すべてではなかったとはいえ、それでも会って接吻をして膝のうえに抱きかかえるのを楽しみとしていたのに、いきなり抵抗をはじめ、自分の思いどおりになる女ではないと感じると、それだけでわれわれは狼狽する」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.203」岩波文庫 二〇一六年)
もっともかもしれない。「それだけでわれわれは狼狽する」。例えば、「自分の思いどおりになる女」を「自分の思いどおりになる国民」と置き換えてみてもなお容易にわかる。或る国家の代表者が国民の側に対して隅々まで<監視・管理>が行き届き家畜化に成功していると考えていたにもかかわらず、「いきなり抵抗をはじめ、自分の思いどおりになる国民ではないと感じる」や、「それだけでわれわれは狼狽する」。とはいえその種の「抵抗」とか自分の思いどおりに<ならない>事態というのは、諸外国では今なおたびたび目にする光景であり何一つ目新しさはない。国内のみならず旧植民地のあちこちでそこそこ大規模なデモが起こるし今なお欧米を筆頭に先進諸国では毎日のように起こっている。起こって当然の状況でもある。しかし日本ではほとんどまったくに近いほど大規模デモというような積極性がまるで見られない。戦後にできた形式民主主義が何度も繰り返し問われ、問いつづけられ、<問う力>が受け継がれていくというような状況はすっかり影をひそめてしまったというに近い感さえある。丸山真男はいう。
「ヨーロッパの哲学や思想がしばしば歴史的構造性を解体され、あるいは思想史的前提からきりはなされて《部品》としてドシドシ取り入れられる結果、高度な抽象を経た理論があんがい私達の旧い習俗に根ざした生活感情にアピールしたり、ヨーロッパでは強靭な伝統にたいする必死の抵抗の表現にすぎないものがここではむしろ『常識』的な発想と合致したり、あるいは最新の舶来品が手持ちの思想的ストックにうまくはまりこむといった事態がしばしばおこる。ドイツ観念論の倫理学説を『人以て舶来の新説とすれども、是れ《古来》朱子学派の唱道する所に係るなり』(『日本朱子学派之哲学』)と理解して『東西文化の融合』を高唱した井上哲次郎的折衷主義の『伝統』をここで追う必要はあるまい。そういった規模雄大なものでなくとも、マラルメの象徴詩が芭蕉の精神に『通じ』たり、プラグマティズムが《本来》江戸町人の哲学だったりする考え方の例はいくらもある。
そういったもの相互に類似性が全くないというのでもなければ、共通性を見出して行くこと自体を無意味といっているのではむろんない。人間が考えることは昔からそんなに変わったものはないといえばそれまでのことである。むしろちがったカルチュアの精神的作品を理解するときに、まずそれを徹底的に自己と異るものと措定してこれに対面するという心構えの希薄さ、その意味での《もの》分かりのよさから生まれる安易な接合の『伝統』が、かえって何ものをも伝統化しないという点が大事なのである。
最初は好奇心を示しても、すぐ『あゝあれか』ということになってしまう。過敏症と不感症が逆説的に結合するのである。たとえば西欧やアメリカの知的世界で、今日でも民主主義の基本理念とか、民主主義の基礎づけとかほとんど何百年以来のテーマが繰りかえし『問わ』れ、真正面から論議されている状況は、戦後数年で、『民主主義』が『もう分かってるよ』という雰囲気であしらわれる日本と、驚くべき対照をなしている」(丸山真男「日本の思想・P.14~16」岩波新書 一九六一年)
アルベルチーヌは、しかし、「自分の思いどおりになる女ではない」女である。マスコミがよく使う用語で言えば、「国際社会」の中では、どこにでも見受けられる、ごく当たり前のふつうの女である。アルベルチーヌが「逃れる存在」になるのはどんな時か。<私>がアルベルチーヌに対して「『もう分かってるよ』という雰囲気であしら」ったその瞬間である。<私>はアルベルチーヌを支配しようと欲望し、<幽閉・覗き見・監視>、さらには密告奨励と、あれこれ画策する。愚策に溺れ切って恥じるところを知らない。自由の尊重という意味を果てしなく広い意味で取る場合、その限りで、恥じたくなければ特に恥じなくても構わないわけだが、なぜか自尊心ばかりは高すぎるほど高い。逆にアルベルチーヌはどうか。自分の<感性>に従って生きているだけでなく、自分の<感性>と引き換えに家畜化されることを拒否する存在である。だからアルベルチーヌは自殺することで<異議申し立て>した。自ら進んで身体を賭けて抵抗宣言して見せた。だからといって死んで見せれば良いという意味では全然ない。徹底的な<監視・管理>下に置かれていたため、ほかに方法がなかったというばかりだ。極めて単純な言い方をすれば、「<私>はアルベルチーヌにふられた」、ということだ。
しかし問いは何食わぬ顔のまま宙吊りにされている。そして<私>もまた読者への報告者として生き延びていく。アルベルチーヌとの関係では何段階もの破綻を経てきた。けれどもその都度更新される破綻の系列は終わるところを知らず、延々引き延ばされてきたばかりか、そもそも引き延ばされるほかない。死ねば死んだで今度は記憶としてやおら再出現するからである。決済は無期延期される。
それにしてもなぜ決済の無期延期という状況は先取りされ得るのか。次の箇所にこうある。「私の頭を占めていたのは、アルベルチーヌが口にすることのできた聡明なことばではなく、その行為への疑念を私の心に呼び醒ますあれこれの発言だった」。またもや「発言」(言葉)なのだ。どんな身振り(振る舞い・言語)であれ相手に振動を与えない身振りはない。プルーストは「不安、苦痛、嘘、隠蔽」といった事柄について贅言を費やしつつあれこれ書いた直後、「これらはどれも蛇足にすぎない」とあっさり述べる。それなら省略してもよかったのではと考えてしまうかも知れないが、そう考えるとまた勘違いに陥るのだ。言語作用というものは或る言葉が別の言葉へ接続され、切断され、再接続される、その全過程を次々演じていく終わらない系列を<自ら生きる>ことにほかならないからである。プルーストは大変面倒な作業ではあるけれども、そのような言語作用に率直に従っているだけなのだ。
「私の頭を占めていたのは、アルベルチーヌが口にすることのできた聡明なことばではなく、その行為への疑念を私の心に呼び醒ますあれこれの発言だった。私はアルベルチーヌがこう言ったのか、ああ言ったのか、どんな表情で、どんなときに、どんなことばへの返答としてそう言ったのかを想い出そうと努め、どんなときにヴェルデュラン家へ行きたいと言ったのか、私のどのことばを聞いてその顔に憤慨の色があらわれたのか、どんな自分自身との対話を委細漏らさず再構成しようとした」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.204~205」岩波文庫 二〇一六年)
ゆえに<私>は<監視・管理>を徹底化させればさせるほど、ますます苦痛に陥る。「私はアルベルチーヌがこう言ったのか、ああ言ったのか、どんな表情で、どんなときに、どんなことばへの返答としてそう言ったのかを想い出そうと努め、どんなときにヴェルデュラン家へ行きたいと言ったのか、私のどのことばを聞いてその顔に憤慨の色があらわれたのか、どんな自分自身との対話を委細漏らさず再構成しようとした」。まるで蟻地獄のようだ。しかし<私>は報告者として蟻地獄を巡り歩いてこなくてはならない。プルーストは<私>に、最終的決済から遠ざけていくよう働きかける。<私>は最終的決済などどこにもないということを思い知らなければならない。なお、いま仮に「蟻地獄」というフレーズを用いたけれども「記号地獄」に置き換えたとしても何一つ問題は生じない。