白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて110

2022年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の気象予報は日の出前から日の出後にかけて曇り。湿度は6時で68パーセント。9時で61パーセントの予定。曇りといってもまだ五時台の暗い空に星が数多く見られる時は日の出頃の琵琶湖の景色はなかなかのものです。ところが今朝は星が一つも見えません。風景はどんなふうに変化していくのでしょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.2)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.1)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.1)

 

二〇二二年十二月二日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・アルベルチーヌに対する嫉妬の構造/第三者としてやって来る「いかに微量でも命取りになりかねない」ような「胸をひき裂くことばのひと刺し」

2022年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム

疑念の増殖は加速する。アルベルチーヌの同性愛の相手は誰なのか。「それはエリザベートとかいう女かもしれないし、アルベルチーヌがカジノの鏡に映るすがたをじっと見つめていながら見ていないふりをした例のふたりの娘なのかもしれない。アルベルチーヌはおそらくそのふたりと関係があるのだろう、おまけにエステルというブロックの従妹とも関係があるのだろう」。思いつく限りの女性の名が列挙される。けれども列挙しうる名はどれも<私>の想像上の名に過ぎない。そこで<私>は、あくまで<私>の想像上の名だと考える限りで、「私はそこに苦痛を和らげるのに十分なあいまいさを加味することができた」。ところが第三者の口から暴露されるともはや「私は瀕死になるほど参ったにちがいない」。

 

プルーストは疑念に対して人間が往々にして取りがちな対処法についてこう述べる。「人は、疑念という形で、相手にだまされているという想念を毎日大量に摂取することはあるが、もし胸をひき裂くことばのひと刺しで同じ想念を摂取されたなら、いかに微量でも命取りになりかねない。おそらくそのせいで、また一種の自己保存本能によって、嫉妬する同じ男は、罪もない事実には躊躇なくすさまじい疑念をいだく一方で、はじめて証拠を見せつけられても、明々白々たる事実を受け入れようとしないのだろう」。疑念を抱いているのが自分だけの場合、その疑念が自分の想像上だけの範囲に過ぎないなら、自分が思い描く他の想像を調合し付け加えて疑念を和らげたり否定したりすることはできる。だが自分の想像上の疑念の範囲ではなく、自分の想像から切り離されたところ、第三者の口から事実として証言され「はじめて証拠を見せつけられ」た場合、人間は逆にそのような「明々白々たる事実を受け入れようとしない」。できるかぎりの方法を動員して否認に転じる。「いかに微量でも命取りになりかねない」ような「胸をひき裂くことばのひと刺し」は突き刺さったままであるにもかかわらず。

 

ここでプルーストはアルベルチーヌに対する<私>の疑念の場合にのみ絞り込んで取り上げている。誰かと誰かとが五年も十年も三十年もに渡って深い関係にあったとすれば、というふうに。同時に「失われた時を求めて」はドレフェス裁判の真っ只中に描かれているという事実を忘れるわけにはいかない。プルーストとしても、読者は当然そういう世相の中で、そういう世相をひしひしと感じながら読んでいるに違いないと考えている。だからアルベルチーヌに限る必要性は実はどこにもない。人間社会の産物であればどんな団体とも置き換えて見ることができる。そしてそれは「不治の病で、リューマチが治まると代わりにしばらくして癲癇(てんかん)状の偏頭痛がおこるといった特異体質に似ている」。

 

「対象となるのは数人の女友だちにちがいなく、そのだれかがその日アルベルチーヌといっしょにいたのかもしれない。それはエリザベートとかいう女かもしれないし、アルベルチーヌがカジノの鏡に映るすがたをじっと見つめていながら見ていないふりをした例のふたりの娘なのかもしれない。アルベルチーヌはおそらくそのふたりと関係があるのだろう、おまけにエステルというブロックの従妹とも関係があるのだろう。そのような関係が、もしもし第三者の口から私に暴露されたなら、それだけで私は瀕死になるほど参ったにちがいないが、想像するのは私なので、私はそこに苦痛を和らげるのに十分なあいまいさを加味することができた。人は、疑念という形で、相手にだまされているという想念を毎日大量に摂取することはあるが、もし胸をひき裂くことばのひと刺しで同じ想念を摂取されたなら、いかに微量でも命取りになりかねない。おそらくそのせいで、また一種の自己保存本能によって、嫉妬する同じ男は、罪もない事実には躊躇なくすさまじい疑念をいだく一方で、はじめて証拠を見せつけられても、明々白々たる事実を受け入れようとしないのだろう。そもそも恋心とは不治の病で、リューマチが治まると代わりにしばらくして癲癇(てんかん)状の偏頭痛がおこるといった特異体質に似ている」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.184~185」岩波文庫 二〇一六年)

 

この種の事情は個人の場合よりも或る団体とか或る種族とかの場合だと遥かによく理解できる。四箇所引用。

 

(1)「呪われた不幸にとり憑かれ、嘘をつき、偽りのない誓いを立てて生きてゆかざるをえない種族なのだ。なぜなら、あらゆる人間にとって生きる最大の楽しみである自分の欲望が、罰せられる恥ずべきもの、とうてい人には言えぬものとみなされていることを承知しているからである。この種族は、自分の神をも否認せざるをえない。なぜなら、たとえキリスト教徒であっても、被告として法廷の証言台に立つときには、キリストの前でキリストの名において、まるで誹謗中傷から身を守るように、おのが生命にほかならぬものを否認しなければならないからである。母なき息子でもある。臨終の母の目を閉じてやるときでさえ、母に嘘をつかざるをえないからである。友情なき友でもある。自分の魅力をしばしば認めてくれる相手からどんなに友情を捧げられ、また往々にして優しくなる心ゆえ相手にどれほど友情をいだいても、嘘に頼ることでしか育たぬつき合い、ついつい信頼と真情のあふれる想いを打ち明けると相手から嫌われ追い返されてしまうつき合いを、はたして友情と呼べるだろうか?ただし相手が偏見を持たぬ、思いやりのある人であれば話はべつであるが、その場合でも相手は、そんな種族にたいする旧態依然の心理に惑わされて、告白された悪徳とはまるで無縁の愛情でさえその悪徳から生じたものだと考えるだろう。判事によっては、原罪なり人種の宿命なりを根拠として、倒錯者は殺人を犯すもの、ユダヤ人は裏切りをするものと想定し、それを普通よりも大目にみる場合があるのと似ている」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.50~51」岩波文庫 二〇一五年)

 

(2)「同類の者の共感からもーーーときには同類の社会からさえーーー排除されている人たちで、同類の者に、鏡に映されたように自分のすがたを直視する嫌悪感を与える。この鏡は、そんな同類を実物以上に見せることはなく、自分自身のうちに認めるのを避けてきたあらゆる欠陥を際立たせ、自分たちが愛と呼んでいるものが(この同類たちは、愛ということばに広い意味をもたせ、社会の常識に合わせて詩や絵画や音楽や騎士道や禁欲などが愛につけ加えてきたあらゆるものを自分たちの愛にもつけ加えていた)、みずから選んだ美の理想から出てきたものではなく、不治の病いから生じたものと悟らせるのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.52」岩波文庫 二〇一五年)

 

(3)「同類の者とのつき合いが(正反対の種族にも溶けこんで同化し、見かけはとても倒錯者とは思えぬ者が、なおも倒錯者らしさをとどめる者に浴びせるあらゆる嘲笑にもかかわらず)息抜きになり、また同類との暮らしが支えにさえなり、自分たちがひとつの種族であることを否定しながらも(その種族の名を言われるのは最大の侮辱になる)、その種族であることを隠しおおせた者がいると、好んでその仮面を剥ごうとする。その者を傷つけるためというよりもーーーそれも嫌いではないがーーーむしろ自己弁護のためで、まるで医者が虫垂炎を探りだすように歴史のなかにまで倒錯を探し求め、イスラエルの民がイエスもユダヤ人だったと言うのと同じで、得々としてソクラテスも倒錯者のひとりだったと指摘するが、しかし同性愛が正常な状態であったときには異常な者は存在しなかったこと、キリスト以前には反キリスト教徒など存在しなかったこと、恥辱のみが犯罪をつくることには想い至らない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.53~54」岩波文庫 二〇一五年)

 

(4)「それまでは連中も、自分の暮らしを隠したり、じっと見つめたいところから視線をそらしたり、目をそらしたいところをじっと見つめたり、自分の使うことばでは多くの形容詞の性を変えたりせざるをえないが、そうした社会的な拘束といえども、自分の悪徳ないし世間が不適切にも悪徳と呼ぶものが、他人にたいしてではなく自分自身にたいして、自分の目には悪徳とは見えない形で強制する内心の拘束と比べれば、いずれも大したことはないのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.56」岩波文庫 二〇一五年)

 

或る団体と別の団体とのただならぬ関係がただ単なる疑念の範疇に収まるものでは到底ないにもかかわらず、不意に第三者の口から事実であると暴露された。するとたちまち或る団体と別の団体とは両者とも「明々白々たる事実を受け入れようとしない」。しかし或る団体と別の団体とのただならぬ関係がただ単なる疑念の範疇に収まるものでは到底なく、むしろ逆に数十年間に渡る国家的暴力装置として機能してきたためその暴力装置の犠牲者となってきた人々にすれば許しがたいという事実はあからさまに残存していく。どんな否認にもかかわらず「いかに微量でも命取りになりかねない」ような「胸をひき裂くことばのひと刺し」は突き刺さったままなのだ。

 

グランドホテルの従業員エメの言葉を思い出した<私>。居ても立っても居られない。アルベルチーヌが「行儀の悪い女」だというのはどういう意味を指し示している<記号>なのか。<私>は嫉妬のあまり、錯乱状態を呈する。プルーストはいう。「嫉妬は、いかに多くの人や町や道をなんとしても知りたいと願わせることか!」。

 

「問題の娘はいったい誰なのか?エメに手紙を書いて、会ってみなくてはなるまい、それからアルベルチーヌと話し合って白状させ、エメの言い分の真偽を確かめるのだ。さしあたって、相手はブロックの従妹にちがいないとにらんだ私は、ブロックに従姉の写真だけでも見せてほしい、そのうえで必要となれば会わせてほしいと頼みこんだが、ブロックはその趣旨がどうにも解(げ)せなかったようだ。嫉妬は、いかに多くの人や町や道をなんとしても知りたいと願わせることか!」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.186」岩波文庫 二〇一六年)

 

プルーストは「知りたいという渇望」について述べる。「この渇望のおかげでわれわれは、相互に関係のないことがらについて順次あたうかぎりの基礎知識を手に入れるに至るが、肝心の知りたい知識だけは獲得できない」。

 

「それは知りたいという渇望であり、この渇望のおかげでわれわれは、相互に関係のないことがらについて順次あたうかぎりの基礎知識を手に入れるに至るが、肝心の知りたい知識だけは獲得できない」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.186」岩波文庫 二〇一六年)

 

この箇所で「肝心の知りたい知識だけは獲得できない」と書かれている点は大変興味深い。なぜ「獲得できない」という事態が何度も繰り返し起こってくるのか。ニーチェから。

 

「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

さらにドゥルーズから。

 

「超越論的探求の特性は、好きなときにやめることができないという点にある。根拠を規定するにあたって、さらなる彼岸へと、根拠が出現してくる無底のなかへと、急き立てられずにいることなどどうしてできよう」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.173」河出文庫 二〇一八年)

 

根拠(肝心の知りたい知識)を特定したと思うやその根拠はすぐさま誘惑と化して次の根拠を特定するよう急き立てずにはおかない。延々引き延ばされていくのである。