アンドレの「声」は記号として機能する。「『まあ!』とアンドレは、私の大胆な決意に困ったような、恐れをなしたような声で言ったが、それを聞いて私の決意は固まった」。この場面は<私>が決定したというより、遥かにアンドレの或る「声」が<私>を別の段階へ移動させる記号として働きかけたことを意味している。と同時に<私>は「その声にかぎりなく感動した」。
「『絶対に確かよ。でも、あなたが嫌がってるって、わたしからあの娘(こ)に言ってやってもいいわ』。『いや、それどころか、ぼくもきみたちといっしょに行くかもしれないんだ』。『まあ!』とアンドレは、私の大胆な決意に困ったような、恐れをなしたような声で言ったが、それを聞いて私の決意は固まった。『じゃあ、さようなら、つまらないことで邪魔をしてすまなかった』。『とんでもない』とアンドレは言ったあと(いまや電話が普及したために、かつて『お茶』をめぐって発達したように、電話をめぐる特別なしゃれた言いまわしが発達していたので)こう言い添えた、『お声が聞けて嬉しかったわ』。私も同じことを言えば、アンドレよりもはるかに真実の気持の表明になっていただろう。というのも、それまで私はアンドレの声がほかの人たちの声とこれほど違っていることに一度も気づいたことがなく、その声にかぎりなく感動したところだったからである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.219~220」岩波文庫 二〇一六年)
ここで言及されている「声」についての記述は「失われた時を求めて」が物語(ストーリー)としての作品ではまるでないことを如実に語っている。アンドレの「声」に「かぎりなく感動した」理由はアンドレの「声」が実は無数の「声」が織りなす多様性であることを<私>に気づかせたからだ。この気づきは次のように語られる。「バルベックで知り合った娘たちのそれぞれの声、ついでジルベルトの声、ついで祖母の声、さらにはゲルマント夫人の声と、ひとつひとつの声を想い出し、どの声もまるで似ても似つかぬこと、それぞれの声が独特のことば遣いの鋳型に合わせてつくられ、異なる楽器を奏でていることに気づいた私は、このような何十、何百、何千というあらゆる『声』のさまざまな音色のハーモニーが祝詞(しゅくし)として神のほうへ立ちのぼるのを目の当たりにして、古(いにしえ)の画家たちの描いた天国における三、四人の奏楽天使による合奏はなんと貧相に聞こえることかと思った」。
「バルベックで知り合った娘たちのそれぞれの声、ついでジルベルトの声、ついで祖母の声、さらにはゲルマント夫人の声と、ひとつひとつの声を想い出し、どの声もまるで似ても似つかぬこと、それぞれの声が独特のことば遣いの鋳型に合わせてつくられ、異なる楽器を奏でていることに気づいた私は、このような何十、何百、何千というあらゆる『声』のさまざまな音色のハーモニーが祝詞(しゅくし)として神のほうへ立ちのぼるのを目の当たりにして、古(いにしえ)の画家たちの描いた天国における三、四人の奏楽天使による合奏はなんと貧相に聞こえることかと思った。私は通話を終えるにあたり、音の速度をつかさどる女神に、私のしがない発話のためにそれを雷鳴の百倍もの速さで伝える力を行使してくれたことに贖罪(しょくざい)のことばを述べ謝意をあらわさずにはいられなかった」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.220」岩波文庫 二〇一六年)
プルーストのいう「このような何十、何百、何千というあらゆる『声』のさまざまな音色のハーモニー」。身体ばかりがたった一つに見えているに過ぎず、その内実は無限の多元性で充満している。シャルリュスが典型例として上げられていたのと同様である。二箇所。
(1)「氏の声そのものが、このような微妙な考えを表明するときには高音となり、中音域を充分に鍛えていないために青年と女が交互に歌う二重唱のように聞こえるコントラルトの声に似て、許嫁(いいなづけ)の娘たちや修道女たちの合唱隊を内にふくむ意外なやさしさを帯びるがゆえの愛情がにじみ出るように思われた。とはいえ自分の声のなかにこんなふうに若い娘の一団を宿していると聞こえることは、あらゆる女性化に怖じけづくシャルリュス氏にとっては、どんなに遺憾なことだったであろう。しかもこの娘たちの一団は、感情にまつわる曲目を演奏したり転調したりするときにあらわれるだけではない。シャルリュス氏が話しているあいだ頻繁に聞こえてくるのは、寄宿舎の女生徒やコケットな娘の一団の甲高(かんだか)く無邪気な笑いで、それが悪意にみちた歯に衣(きぬ)着せぬ抜け目のないもの言いによって、そばにいる氏の声を調整してしまうのである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.271」岩波文庫 二〇一二年)
(2)「それは氏独特の笑いであった。それはおそらくバイエルンなりロレーヌなりの祖母から受け継いだ笑いで、その祖母も同じ祖先の女性から受け継いでいたので、ヨーロッパのあちこちの古い小宮廷では何世紀にもわたり変わらぬ笑い声が同じように響いて、人びとはその声の貴重な特徴を、めったにお目にかかれないある種の古楽器の特徴のように味わうことができたはずである。ある人物の全体像を余すところなく描くには、そのすがたの描写に加えて声の模写が必要になるはずで、この繊細にして軽やかな小さな笑い声を欠いてはシャルリュス氏という人物の描写は不完全になりかねない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.213」岩波文庫 二〇一五年)
だがなぜそれほど多くの多元性がたった一つに統合された貧困なものとして錯覚されてしまうのか。ニーチェはいう。
「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下・一一六・P.86」ちくま学芸文庫 一九九四年)
習慣の罠によってがんじがらめに固定化されステレオタイプ(常套句)化され結局のところ貧困化されてしまった作品を解放してやるために必要なのは何か。逆説的に聞こえるかもしれない。というのは、これまで数十年もの長い間ずいぶん幅を利かせてきた「失われた時を求めて」を読むためには、物語(ストーリー)としての「失われた時を求めて」を読まないことが前提となるに違いないからである。