次の箇所はあたかも恋愛の心理学のように見える。ところがほとんど全然そうではない。
「われわれは恋愛とは、眼前に横たわることのできる肉体に包まれた存在を対象とするものだと想いこんでいる。遺憾ながら恋愛とは、その存在がこれまで占めたことがあり、これから占めるであろう空間と時間のあらゆる点へその存在が拡張されたものにほかならない。その存在とはさまざまな場所や時間との接点をわがものにしないかぎり、当の存在を所有したことにはならないのだ。ところがわれわれはそのような接点に漏れなく触れることなどできない。せめてそれらの接点がすべて指示されるのであれば、われわれもそうした接点にまで手を伸ばすこともできようが、実際には手探りをするだけでそれらの点は見つからない。それが原因で、われわれは猜疑心にとり憑かれ、嫉妬に駆られ、うるさく相手につきまとう結果となる。とんちんかんな足跡を追って貴重な時間をむだにするばかりで、真実のかたわらを通ってもそれと気づかないのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.217」岩波文庫 二〇一六年)
でもなぜ、ほとんど全然、恋愛の心理学ではないのか。第一に恋愛という語彙がそのまま使われているため、すでに問題が所有欲とは何かという問いへすっかり置き換えられていることに気づいていない場合がはなはだ多い、多すぎるほどだということに気づいていない点が上げられるだろう。第二にこの箇所では、一つも改行なく「原因」とか「気づかない」とかいった言葉に、極めて重要な意味が与えられているにもかかわらず、わざとらしく目を引くような文体を用いていない点にある。逆にあっさりしている。もちろんプルーストは強調することができた。けれどもそうしなかった。しなかったからといってもうその問いは忘れ去られたのかといえばまるでそうではない。或る論点について長々と書いたから重要だとか別の論点については短くしか書いていないから重要でないとか、文章の長短を根拠に作品を論じる批評家などどこにもいないし、プルースト自身、多くの批評を残した批評家でもある。
所有欲の無限拡張性についてはこれまで述べられてきたことの延長に過ぎない。だが「原因」と「結果」という問題は新しく考え直してみるに十分値する。プルーストは「実際には手探りをするだけでそれらの点は見つからない」と言明している。にもかかわらず、そんな曖昧な点を根拠として置いてしまい、信じきって疑い一つ持たず、「われわれは猜疑心にとり憑かれ、嫉妬に駆られ、うるさく相手につきまとう結果となる」と言っている。だからここは、「うるさく相手につきまとう結果」の絶対かつ唯一の「原因」は遂に「見つからない」どころか、原因は無数に絡まり合っていると、大いに積極的に、逆に読まれるべき箇所なのだ。ニーチェはいう。(1)原因と結果とのすり換え。(2)人間はともすれば、「そこにある不思議なものを不思議がらない」ことがあり過ぎるほどあるというポンコツ性。
(1)「《『内的世界の現象論』》。《年代記的逆転》がなされ、そのために、原因があとになって結果として意識される。ーーー私たちが意識する一片の外界は、外部から私たちにはたらきかけた作用ののちに産みだされたものであり、あとになってその作用の『原因』として投影されているーーー『内的世界』の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、『内的世界』の根本事実である。ーーー同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、ーーー私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのであるーーー私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである」(ニーチェ「権力への意志・下・四七九・P.23~24」ちくま学芸文庫 一九九三年)
(2)「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫 一九九三年)
次に電話交換手について。文章はこれまた改行なしに続く。だがこの箇所だけを取り出して読むことはいつでも可能だ。接続・切断・再接続はいついかなる時にでも可能だと、そうプルーストはしつこく述べてきたのではなかっただろうか。電話が繋がっているというのにぼんやり物を考えているように見える<私>に電話交換手はショックを与えて我に帰らせる。そしてショックを与える言葉とはどんな言葉かについて考えなくてはならない。それはいつも<他者>の言語でなくてはショックにならない。
「しかし目もくらむほど俊敏な侍女を従えた怒りっぽい女神のひとりは、私がしゃべるからではなく、なにも言わないことに早くも腹を立てていた。『もしもし、どうしました、線は空いてるんですよ!さっきからずっとつながってるのに、これじゃ、切りますよ』。しかし女神は通話を切らず、電話の交換嬢はつねに大詩人だから、目の前にアンドレのすがたを彷彿とさせ、このアルベルチーヌの女友だちを、その住まいや界隈や生活そのものに特有の雰囲気で包みこんだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.217~218」岩波文庫 二〇一六年)
電話交換手という<他者>。プルーストはまったく正当にもそれを「女神」と呼んだ。<私>とアンドレとの繋がりの命運を握っているのは彼女たちである。
「この乙女たちは、毎日その声を聞いても決して顔を見ることはできないが、目もくらむ真っ暗闇の扉という扉をぬかりなく監視しているわれらが『守護天使たち』であり、不在の者をそばに出現させてくれるがそのすがたを見るのは許してくれない『全能の女神たち』であり、音の甕(かめ)をたえず空にしてはそれを一杯にして伝達しあう目に見えぬ世界の『ダナイスたち』であり、だれにも聞かれていないと思って女友だちにそっと恋心を打ち明けているときに無慈悲にも『お聞きします』と叫ぶ皮肉好きの『フリアイたち』であり、たえずいらいらして『秘儀』に仕える修道女たちであり、目には見えぬ『霊界』のすぐ気を悪くする巫女(みこ)であり、とどのつまり電話の『交換嬢たち』なのだ!」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.290~291」岩波文庫 二〇一三年)
しかしなぜ電話交換手について恐れとおののきとを込めて女神と呼んでいるのか。この場合、電話交換手の機能と貨幣の機能との同一性に注目しなくてはならない。そうでなければ当時の社会環境を知ることはできないし、プルーストがあえて「女神」と呼んでいる事情の重要性に気づくことさえままならなくなるに違いない。電話交換手は一方と他方とを交換関係に置く。マルクスはいう。
「生産物交換は、いろいろな家族や種族や共同体が接触する地点で発生する。なぜならば、文化の初期には独立者として相対するのは個人ではなくて家族や種族などだからである。共同体が違えば、それらが自然環境のなかに見いだす生産手段や生活手段も違っている。したがって、それらの共同体の生産様式や生活様式や生産物も違っている。この自然発生的な相違こそは、いろいろな共同体が接触するときに相互の生産物の交換を呼び起こし、したがって、このような生産物がだんだん商品に転化することを呼び起こすのである。交換は、生産部面の相違をつくりだすのではなく、違った諸生産部面を関連させて、それらを一つの社会的総生産の多かれ少なかれ互いに依存し合う諸部門にする」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十二章・P.215~216」国民文庫 一九七二年)
電信電話の爆発的発達と諸商品の無限の系列の出現とその絶え間ない交換は、交換関係がただ単なる物々交換ではなく、貨幣を媒介する限りで初めて許されるとともに、世界が世界へ相互依存しないわけにはいかない社会を作り上げたことの象徴的現実だというわけである。流通の問題も見逃せない。
「運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸過程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。人や商品は運輸手段といっしょに旅をする。そして、運輸手段の旅、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されえない。それは、この過程とは別な使用物として存在するのではない。すなわち、生産されてからはじめて取引物品として機能し商品として流通するような使用物として存在するのではない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じに、その有用効果のために消費された生産要素(労働力と生産手段)の価値・プラス・運輸業に従事する労働者の剰余労働がつくりだした剰余価値によって規定されている。この有用労働は、その消費についても、他の商品とまったく同じである。それが個人的に消費されれば、その価値は消費と同時になくなってしまう。それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.98~99」国民文庫 一九七二年)
場所移動は或る価値体系から別の価値体系への移動でなければまるで無意味である。というのは、両者の間の格差から生じる差額が一方から他方へ利潤をもたらすからであり、そうでなければ資本主義はそんな面倒なことをしないしさせない。そして時間的な経過は無数に絡み合った資本関係という条件を満たすためにいつも空間的に「相並んで存在する」ということでなくてはならない。
「前には同じ資本に時間的に相次いで起きた変化として考察したことを、今度は、別々の生産部門に相並んで存在する別々の投資のあいだの同時に存在する相違として考察するのである」(マルクス「資本論・第三部・第二篇・第八章・P.242」国民文庫 一九七二年)
いつも空間的に「相並んで存在する」ということ。それこそアルベルチーヌと<私>との関係が唯一絶対的な固定された関係ではまるでなく、逆にいつも空間的に「相並んで存在する」という多元性を取っている限りで、何度も繰り返し新しく始めることができるということと極めて似ている大事な点である。次の部分。
「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫 一九七二年)
手形が無効になればどうなるのか。不渡りを連発した会社は倒産するが、しかし<私>は人為的な仮面を何度も繰り返し置き換えることができるし、その限りで決済を延々繰り延べていくことができる。なるほど資本主義に極めて似ている。似てはいるけれども、この地点で<私>とアルベルチーヌとの関係はまた別の場所へ、別の価値体系を織りなす場所へと、どこまでも延長可能なのだ。アルベルチーヌが死んでもなお、である。「死んでもなお」というところに資本主義とアルベルチーヌとが似てはいてもまるで非なる偉大な違い(差異)があるのだ。
「『あなたなの?』と私に言ったアンドレの声は、声の音を稲妻よりも速くする特権をそなえた女神によって即座に私のもとまで届けられた。『いいかい』と私は答えた、『どこでも好きなところへ行ってかまわないけど、ヴェルデュラン夫人のところだけはダメだよ。あすはなんとしてもアルベルチーヌをそこから遠ざけておかなければならないんだ』。『あら、でもあの人、ちょうどあした、そこへ行く予定なのよ』」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.218」岩波文庫 二〇一六年)
<私>は慌てる。いつものように慌てる。だが以前に慌てたように慌てるわけではない。二人の関係にはいくつもの諸段階が横たわっているのだ。