恋愛に伴う苦痛は何度も繰り返し反復する。しかしそれは或る同一の形でぶり返すわけでは決してなく「べつの形でぶり返す」とプルーストはいう。
「恋愛における苦しみは、ときにやむことがあっても、べつの形でぶり返すものだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.222」岩波文庫 二〇一六年)
例えば「リューマチが治まると代わりにしばらくして癲癇(てんかん)状の偏頭痛がおこるといった」形で繰り返される。
「そもそも恋心とは不治の病で、リューマチが治まると代わりにしばらくして癲癇(てんかん)状の偏頭痛がおこるといった特異体質に似ている」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.185」岩波文庫 二〇一六年)
病という言葉は同じでもその形態はまるで異なる。プルーストは次のように述べる。
「われわれは愛する女がもはや最初のころの熱烈な共感や積極的な愛情を示してくれないのを見てとると、嘆き悲しみ、もはやこちらに示さなくなったそんな共感や愛情をほかの男に寄せていると、それ以上に苦しむ。そんな苦しみもやがて紛れるのは、さらに恐ろしい新たな苦痛が生じるからで、それは女が前日の夜のことで嘘をついている、こちらを裏切って浮気をしていたにちがいないという疑念である。そんな疑念もまたもや消えて、われわれは恋人の示してくれる優しさに心が安らぐ。ところがそのとき、忘れていたひとことが脳裏によみがえる」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.222」岩波文庫 二〇一六年)
第一に「嘆き悲しみ」、第二に「それ以上に苦しむ」、第三に「さらに恐ろしい新たな苦痛」=「それは女が前日の夜のことで嘘をついている、こちらを裏切って浮気をしていたにちがいないという疑念である」、第四に「忘れていたひとことが脳裏によみがえる」、といった形を順々に取り換えていく。諸商品の無限の系列とまるで違わない系列が恋愛においても出現するのである。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.118~120」国民文庫 一九七二年)
その点で恋愛に伴う苦痛の形態変化は絶対的な中心を持たない、脱中心的な変化として延々引き延ばされていく。さらにアルベルチーヌのすべての身振りはたちどころに<私>にまた別の段階で新たな苦痛をぶり返さずにはおかない。「女がまるで流し目のようにちらっと舌を出すのを見ると、その流し目を何度も送られた相手の女たちが想いうかび、たとえアルベルチーヌが私のそばにいてそんな女たちのことなど考えていなくても、あまりにも長期にわたる習癖のせいでそんな流し目がふと機械的に出てくる合図になってしまったのだろうと考える」というふうに。
「女が優しくしてくれると有頂天になるが、それもいっときで、女がまるで流し目のようにちらっと舌を出すのを見ると、その流し目を何度も送られた相手の女たちが想いうかび、たとえアルベルチーヌが私のそばにいてそんな女たちのことなど考えていなくても、あまりにも長期にわたる習癖のせいでそんな流し目がふと機械的に出てくる合図になってしまったのだろうと考える。ついで女はこちらにうんざりしているのだという気持がぶり返す」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.222~223」岩波文庫 二〇一六年)
この反復は記号としてのアルベルチーヌの身振り(振る舞い・言葉)が必然的に出現させる<別の段階>へ移動した上での反復だと言える。ただ別の段階へ移っているということだけが異なる。だが繰り返しという形態では同じである。諸商品の無限の系列とまるで違わない系列が恋愛においても出現している点は変わらない。プルーストは続けて「嫉妬というものは、くるくると変幻する回転式灯台のようなものなのだ」という。
「しかしそんな苦しみも、突然、取るに足りぬものに思えてくる。女の人生における未知の邪悪なものを想いうかべ、女が以前いた場所、最終的にそこで暮らすつもりはないにしてもわれわれがそばにいない時間には今でも出かけるかもしれない場所、女が遠く離れてこちらのものでなくなりこちらといっしょにいるよりも幸せになれる場所を想いうかべたからだ。このように嫉妬というものは、くるくると変幻する回転式灯台のようなものなのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.223」岩波文庫 二〇一六年)
読者は<私>とアルベルチーヌとの恋愛が交換関係という形で次々と新たな段階へ移動していく諸運動を見ることになる。